博愛主義の殿下をオトしたい男爵令嬢
「聞いてください殿下! 私、フィオナ様に嫌がらせを受けているのです!」
放課後の校内のカフェテラス。そこまで賑わってはいないものの、課題をやったり友人達とお喋りをしたり一人紅茶を楽しんだりと穏やかな時間を各々が過ごす中そんな悲痛な声が上がった。
生徒達が何事かと視線を向けると、日当たりが良く見晴らしも良いテラス席で優雅に足を組んだこの国の王太子であるロイスウェルの前に、一介の女生徒が跪いて上目遣いで彼を見ていた。
ふわふわと柔らかそうな淡い栗色の髪の毛に、同じ色のつぶらな瞳を潤ませて小さく震える少女は、側から見ればまるで小動物の様で庇護欲を掻き立てる。
何人かの男生徒が同情的な視線を向ける中、紅茶を片手に何やら書類を見ていたロイスウェルが漸く視線を上げた。
「君は、確か一年生のピター嬢だったかな」
「は、はい! 私キャロル・ピターと申します!」
「それで、具体的に何があったのかな?」
優しい微笑みを浮かべて彼女へと体を向けた殿下に、名前を覚えられていて感動していたキャロルは慌てて顔を伏せる。長い睫毛に縁取られた瞳からは今にも涙が零れ落ちそうになり、見ている者も心を締め付けられそうになる。
「私は、その、少し前まで平民として過ごしておりました。それに今の身分も男爵と、この貴族学校の中で低いと言う事もちゃんと理解をしております」
一年程前に妻を亡くして喪が明けたピター男爵が、愛人として囲っていた女と共に娘を引き取った。その娘がこのキャロルで、引き取られるまでは平民として暮らしていた為に入学までの半年余りではマナーは完全には身に付かず、未だに貴族子女とは思えない天真爛漫さを見せる。
普段見慣れぬタイプの女子に興味の湧く男子は多く、一時期は婚約者を放ってキャロルを囲う男達も沢山居た。
その所為でギクシャクして未だに元の関係には戻れない婚約者達もいるが、概ねの問題は半年間で落ち着きを見せた筈である。
「フィオナ様は、身分の低い者が視界に入るのが気に食わないと……。同じ空気を吸うのも嫌だと……! 私、怖くて……っ!」
「フィオナ嬢がそんな事を言ったのかい?」
ロイスウェルが目を丸くしてから、険しく眉を顰めた。
フィオナとは、ロイスウェルの婚約者であり、この国の重臣であるルルドレッド公爵家の愛娘である。
幼い頃からの婚約者同士であるロイスウェルとフィオナは、特別仲が悪いわけではないが特別に仲が良いわけでもない。公務では必ずエスコートをして鴛鴦婚約者を演じているが、学園内で二人が並ぶ姿を見るのはまず稀だ。呼び方もお互いに「フィオナ嬢」「殿下」と距離を感じるし、会話で話題に上る事も殆ど無い。見事なまでの仮面婚約者である。
しかし幾ら何でも王太子妃になる女性がそんな侮辱発言をするだろうか。誰に聞かれるかも分からない場で、わざわざ自分の足を引っ張るような。
ロイスウェルが眉を顰めたまま表情を変えない事に気が付いたのか、キャロルは恐る恐る制服の左袖を捲った。
「これは……」
そこから現れたのは、強く打たれたような蚯蚓腫れと痛ましい拘束痕。小柄な女子の背負う傷ではない、と遠目から様子を窺っていた生徒達は視線を逸らした。
ロイスウェルは呆然として、その傷を見下ろす。
「これはまさか、フィオナ嬢が貴女に……?」
小さな身体を震わせて、それでも気丈に顔を上げた彼女は一つ頷いてから意を決した様に口を開いた。
「私は、私の様に身分の低い者が、それを理由に虐げられるのはあってはならない事だと思います! ましてや、殿下の婚約者ともあろう方が……! そんな方がこの国の王妃になるなんて……!」
「ピター嬢……」
「それに、フィオナ様は殿下の婚約者だと言うのに毎日違う男を侍らせているのです……! あんな方ではこの国は……!」
強く言い切った彼女から、とうとう涙が一粒零れ落ちた。
涙が頬を伝い落ちるその姿は清廉さを感じさせる、この国の未来を憂い進言する少女はまるで聖女の様だった。
ロイスウェルはその姿を見て、ふぅ、と息を吐く。
先程まで見ていた書類に視線を落とす彼の顔色はそこはかとなく暗い。
周りで聞いていた生徒達もどう反応していいのか分からず、小さく騒つくだけ。
身分関係無く、常に笑みを絶やさず、平等で優しい博愛主義者として知られる王太子殿下には重く辛く苦しい話であろう、と生徒達は顔を覆い考え込んでしまった彼の気持ちを慮った。
「殿下……、どうか落ち込まないでください。フィオナ様との婚約は…………」
袖を戻し、聖女の様に跪いたままキャロルが言葉を発する。王太子殿下の心に寄り添うようにとなるべく優しく甘い声を出して、そっと手を伸ばした。
「で? 婚約は破棄して私と新しく婚約してくださいって?」
「え…………」
パシン、と弾かれた手に呆然としていると、先程までこの世の終わりのように落ち込んでいたロイスウェルがにっこりと微笑んでいた。彼が軽く手を挙げると、先程キャロルの手を叩いたロイスウェルの護衛が、彼女を拘束して地面へと押さえ付けた。
本人は勿論の事、周りの生徒達も理解が追いつかず呆然としている。
「きゃあ! ちょっと、何するの……っ!?」
「その女の袖を捲れ、どっちもだ」
「ちょっ、やめてよ! やめなさいよ!?」
必死に抵抗するが所詮は女の身である。あっさりと捲り上げられた腕は、先程見せられた左腕こそ傷だらけなものの、利き腕となる右腕は綺麗なものだった。
「なんで左腕だけこんなに傷だらけなんだい? どうして痛め付けたかも分からないけど、どうせやるなら利き腕を潰した方が嫌がらせには効果的だろう?」
「こ、効果的……って、わ、分からないです……っ! 私、怖くて! それどころじゃ……!」
「フィオナがやったの? 本当に?」
「そ、そうです! フィオナ様が……、私を見知らぬ男達で押さえ付けて……っ!」
「それはいつ? この傷を見るにそんなに前じゃないよね」
「い、一週間前の、放課後です……!」
ぷるぷると震えながら必死に訴えるキャロルに、すっと目を細めたロイスウェルは、パチンと指を鳴らした。
何処からともなく現れた男が、ロイスウェルに紙を手渡してすぐさま消える。一体何が、とキャロルが吃驚していると、紙を指でなぞりながら彼は満面の笑みを浮かべた。
「キャロル・ピター。残念だよ」
「へ……?」
「フィオナは一週間前の放課後は王城に来ている、証人は私と、王妃と、それを見ていた城内の者達だ」
「な……っ!?」
「詰めが甘かったね、フィオナが放課後すぐに消えたのを見て幸いと思ったのかな? その程度の嘘すぐにバレてしまうよ」
「まぁあの日フィオナは孤児院に行くって言っていたから好機と思っても仕方ないかもね」なんてくっくっ、と喉を鳴らして愉しげに笑うロイスウェルを呆然と見上げる。
彼は誰にでも優しく、いつもニコニコと穏やかに微笑んでいて、誰かが傷付く事を悲しみ平和を慈しむ王子様ではなかったか。
何も言えずに口をハクハクと動かせば、彼は長い脚を組み直して先程手渡された紙をヒラリとキャロルの目の前に落とした。
それを目にした瞬間、彼女は極限まで目を見開き、声にならない悲鳴をあげた。
「一週間前、君はフィオナの不在を確認してから誰も居ない特別教室で自らの腕を傷付けて涙で目を腫らしてから保健室に向かった。養護教諭の質問には曖昧に回答し帰宅。まさか全部知られているなんて思わなかった? はは、折角腕を痛め付けたのに可哀想だね」
落とされた紙には一週間前の出来事は勿論、今まで天真爛漫な平民上がりの貴族令嬢として行ってきた様々な悪事が確りと記載されていた。
何故、何故。
大体殿下と婚約者は政略であり、お互い干渉らしい干渉などなかったではないか?
人格に難があると少し突けば、次期王妃には相応しくない、とあの公爵令嬢を最高の地位から引きずり落とせると思ったのに。
抵抗する気力もなく呆然と地面を見つめていれば、ロイスウェルはイスに深く座り直して膝の上で指を組んだ。
「君が欲を掻かなくても、フィオナに手を出した時点で君は終わりだ」
「なんで……、殿下は! あの女なんてどうでもいいんじゃ……?!」
「だから前提から間違っているんだ、私はね。フィオナを何より愛している」
それはそれは幸せそうに微笑むロイスウェルの姿に、キャロルの心が闇に染まる。
何故、生まれた時から公爵令嬢なんて最高の地位を与えられて、こんな王子様と結ばれる未来が待っていて、平民みたいな苦労も知らずに毎日いい物を食べていい服を着ていい化粧品を使って、そんなの不公平じゃないか。私だって生まれた時からお姫様ならもっと綺麗でもっと幸せで、王子様と結婚出来たのに!
ぐつぐつと煮えたぎる絶望に、思わず言葉を吐き出した。
「毎日男を侍らせているのは、本当の事なんだから……」
だからこそ次期王妃の座から引き摺り下ろせると思ったのに。
そう小さく呟くと、堪え切れずに彼が笑い出した。
何故、と面をあげると、ロイスウェルは本当に可笑そうに笑った。
「あはは、フィオナは自分のしたい事、この国の為になる事の為に毎日好き勝手走り回っているから毎日違う人間と会っていたって可笑しくない。どうせ後でちゃんと報告してくれるし」
それに、と仄暗く笑んだロイスウェルの言葉に、キャロルは標的を見誤った事に漸く気が付いたのだった。
「彼女は、私の所に必ず帰ってくるからこそ自由なんだよ」
キャロルを連行して王宮騎士が去り、漸く落ち着いたカフェテラス内。
迷惑代として今回の食事代は私がもつから好きに食べてくれ、と告げれば静かだった周囲が沸き立ち皆の興味はそちらへと逸れたらしい。
新しい紅茶を淹れてもらい、確認途中の書類を眺めつつ愛しの婚約者に思いを馳せる。
抑も、仮にも王太子の婚約者であるフィオナが何故公務以外は自由に過ごしているのかと言えば、モラトリアム中だからである。あと二年もすれば卒業、正式な立太子、そして結婚までトントンと進み、結婚してしまえば彼女は王宮からそう簡単には出られなくなる。行動を制限するつもりはないが、制限を余儀無くされる事は間違いない。
フィオナが楽しそうなら好きにさせてあげたい、ひいては国の為になる事ばかりしているので利でしかないし。
それに何より、彼女は必ず自分の元へ帰ってきてくれる。ちゃんとここが最終的な場所だと理解しているからこその自由だ。
少しでも逃げる素振りを見せたら捕まえて、一生自分の傍から離すつもりはない。
「殿下、ルルドレッド嬢がこちらへいらっしゃるようです」
「フィオナが? 冷たい紅茶を頼む、あとはケーキ……、いや、多分今日は何か食べてきただろうから摘めるように焼き菓子を少し」
「畏まりました」
書類を脇へと寄せてスペースを作る。
毎日夜に公爵家に立ち寄ってから帰る為、彼女が校内で近寄ってくるのはかなり稀だ。
恐らく先程の件が耳に入ったのだろう。予定からして街に出ていたろうに、どうせ会えるところをまた学園に戻ってきてまで顔を出してくれる。そう言うところが好きだし、好きでいてくれるのだなと実感出来る。
あぁ、楽しみだな。
またこんなくだらない戯言を吐く奴が出てくるかもしれないし、私が彼女を心底愛していると、そろそろ周知した方が良いかもしれない。
「ふふ、早く帰っておいで。フィオナ」