理不尽と譲れない思い
誰ともなく建物に向かって歩き始めると、遠目にも至るところに護符が貼られているのが視認できる。近づくにつれて建物の異様さが顕著になった。
「もしかしてこの村で大規模な疫病が発生していて、みんなあの建物に集められているとか?」
「今の村の様子からいってもそれで間違いないだろうな」
「二人ともそれ以上進まないように」
これまで聞いたことのない厳しい声に振り返ると、ツヴァイが険しい顔で立ち止まっていた。
「あの建物に近づくなってこと?」
「当然でしょう。あれが本当に疫病を追い払うための護符だとしたら普通の疫病じゃないことだけは確か。そんな場所に無防備で近づけばどういうことになるかわかるよね?」
「確かにあの護符の数は異常だ。察するに治癒師に見てもらう金を用意できなかったのか、それとも治療師が手に負えないほどの病に陥っているのか。いずれにしても普通の病なら効くかどうかもわからん護符をああも貼りはしない」
「そういうこと。一刻も早くこの場から立ち去るのが最善だよ」
言って早々に踵を返すツヴァイを、ユアは慌てて引き留めた。
「立ち去るなんて駄目だよ。本当に村人たちが病気にかかっているなら何とかして助けてあげないと」
「は? 馬鹿なの? そんなの問答無用で却下に決まってるじゃん。ここでリスクを背負う必要性がどこにあるのさ。それとも僕やカイルが得体のしれない病気にかかっても構わないってこと?」
「そんなこと一言も言ってない!」
「言ってるようなもんでしょう」
「……そうだね。なら私一人で行く。二人は村の外で待ってて」
強く踏み出したユアの足を自発的に止めさせたのは、身も凍えるようなツヴァイの声だった。
「いい加減にしなよ。それで納得するとでも? 正直に言えば会ってそう日も経っていないあんたがどうなろうと俺の知ったことじゃない。だけどカイル様は違う。ジェミニ家にとって絶対に失ってはならない存在だ。俺には理解できないししたくもないけど、あんたの騎士になったと質の悪い冗談のような話も聞いている。あんたが行けばたとえその先に絶対の死が待ち受けているとしても、一切の躊躇なくカイル様は同行する。つまり騎士の誓いはそれほど重いってこと。それでもあんたは顔も、名前すらも知らない村人たちを助ける危険を冒すと?」
見ず知らずの村人とユアを守ると騎士の誓いを立ててくれたカイルを天秤にかけること自体がおこがましい。ツヴァイに指摘されるまでもなく誰よりも自分自身がよくわかっている。
──それでも。
「それでも助けを求めているなら助けてあげたい……」
ユアは伏し目がちに枯れたような声を絞り出す。
「だからあ! どこのどなたがあんたに助けを求めているんだよ!」
ツヴァイは大袈裟に周囲を見渡しながら声を大にして言う。
いつしかユアの拳は固く握り締められていた。
「だって……だって助けたいんだもんっ‼」
声をあらん限りに張り上げたユアにツヴァイは絶句する。カイルは苦笑しながらツヴァイの肩に手を置いた。
「もうその辺で諦めろ。こればかりは理屈じゃないんだ」
ツヴァイは酷い呆れを表情に滲ませながら、
「理屈じゃないって……そんなことでは本当に先が思いやられますよ」
「だがな、そんなユアがいてくれたからこそミゼルは失うはずだった命を繋ぎ止めることができたんだ。──ユア、お前はお前のしたいようにすればいい。俺たちのことは気にするな。自分の身を守るくらいの術は十分に心得ている」
「ごめんなさい、我儘ばかり言って」
いいさとカイルは建物に向けて歩みを再開させる。ユアは心の中で礼を言い、無言でカイルの後を追う。
少しして、背後から強烈な舌打ちと駆ける音が聞こえてきた。