穏やかなる日々
ジェミニ家の新当主となったミゼルは、ユアが極度の恐縮に陥るほど優しかった。それはジェミニ家で働く人たちも同様で、ユアの出自をなんら気にすることなく接してくれた。
ユアは今までにない安らぎを感じながら穏やかな日常を過ごし、ジェミニ家に足を踏み入れてから早くも一週間が過ぎようとしていた。
深夜──。
天空に浮かぶ星々は神が流した涙だと誰かが言った。
時折吹く冷たい風が首筋を通り抜ける度に、大人になりつつある少女の身を縮こませる。
屋敷に併設する塔の頂きで一人夜空を眺めていたユアは、背後から見知った足音が近づいてくるのを耳にした。
「毎日毎日空を眺めて飽きないのか?」
呆れたようなその声に、ユアは振り返ることなく答える。
「灰被りの街にいたとは灰が降らない空なんて絵本の中でしか知らなかったし、戦場では空を見ている余裕なんてなかった。王宮で空を眺める機会はいくらでもあったけど、こんなにも穏やかな気持ちで眺めたことはなかったから」
ユアは左腕を天に伸ばすと、絵本に出てくる少年がそうしていたように星を掴む真似事をしてみる。
少年は輝く小さな星を掴み取ったことで願いを一つ叶えるが、当然ユアの手の中に星が収まるわけもなく。
なにもない自分の手のひらを見て、ユアは小さな笑みを一つ落とした。
カイルはユアの隣へと並び、そのまま二人は無言で空を眺め続けた。
「──あの街ではどういう暮らしをしていたんだ?」
「そうだねぇ……毎日毎日お腹を空かして毎日毎日空ばかり見ていた気がする。その日を生きるのに精一杯で暮らしなんて上等なものはなかったかな」
「そうか……俺には想像もつかない世界だな」
「うん、それでいいと思う」
髪を耳にかけるユアの横顔をカイルはジッと見つめていた。
遠くの空で小さな稲光が走しる。程なくして地の底から這い出てくるような音を聞きながら、カイルは塔壁のヘリに上半身を預けて言った。
「明日はいよいよタイニアに向けて発つ。……怖くはないか?」
ユアは小さな微笑みと共に首を横に振った。
「戦争に比べたらタイニアに行くことなんて全然怖くないよ」
「度々刺客に命を狙われていたときと比べれば確かにそうかもしれないな」
カイルは大きな勘違いをしている。が、ユアはあえて正そうとは思わなかった。
怖れたのは死ぬことじゃない。ユアがなによりも怖れたのは、癒しの力を使っても無常に零れ落ちていく命の音。本当に空っぽで、そのくせ魂を凍りつかせるような音を発する。
戦場にいる間何百回となく聞いたが絶対に慣れることはなかった。
戦争が終わってからもしばらくは、死の底から聞こえてくる救えなかった者たちの助けを呼ぶ声で眠りから覚めてしまうことが多々あった。
灰被りの街でも死は日常だったけれど、ユアが直接死に関わったのは友達のアンを看取ったときの一度だけ。
戦場では積極的に死に関わり過ぎたため、恐怖に対しての感覚がどこか麻痺しているのかもしれないとユアは時々思うのだ。
「確かに旅をするのは初めてだからそういう意味ではちょっとは怖くもあるかな」
「怖がることなどなにもないがタイニアに到着するにはそれなりに時間がかかる。道中野盗くらいは生えるかもな」
「え⁉ 野盗って生えるのっ⁉」
土からにょきにょきと生えてくる野盗を想像して戦慄するユア。そんなユアを見たカイルは一瞬視線を上に彷徨わせた後にたりと笑い、
「生えるぞ。奴らは雑草と一緒だ。ところ構わず生えてくる。王都周辺ではさすがに生えてこないだろうが、まぁ野盗ごときが何人生えてきたところで何も問題ない。ユアには指一本足りとて触れさせないから安心しろ」
ユアは大袈裟に頷いて見せ、
「うんうん。ちゃんと守らないとミゼル様に怒られちゃうもんねー」
「そういうことだ。ユアもあいつが怒ったところを一度ならずとも見ただろ? 普段ニコニコしている奴ほど怒ると怖い。ミゼルはその典型だ」
真面目な顔をしたカイルがユアを見つめてくる。ユアが思わず吹き出してしまうと、カイルも釣られたように噴き出した。
「──で、まだここに居るのか?」
「うん。あともうちょっとだけ」
「そろそろ雨が降りそうだ。ほどほどにしておけよ」
言って身に着けていた上着を脱いでユアの肩にかけると、カイルはそのまま塔を後にする。
(温かい……)
ユアは再び空を見上げる。
もう冷たい風がその身に届くことはなかった。




