三八三年 雨の四十二日
夕方、宿に入ってきたナリスの姿に私は本当にびっくりした。
「レム」
優しい声で名前を呼ばれる。
何でナリスがここに?
驚いて見返すだけの私にナリスが近付いてきて。
「ククルのことを聞いて。ジェットと来たんだ」
「じゃあ店に…」
「先に行ってきた。今はジェットが話してる」
そう言いながら、私の頭を撫でてくれる。
「辛かったね」
ナリスはそう言うけど。
辛かったのは私じゃない。ククルだから。
「私は大丈夫。ククルに…」
「レム」
言いかけた私を少し強い声で止めたナリス。ちょっと困った顔で私を見てる。
「前にも言ったけど。俺が心配してるのはレムのことなんだよ?」
ナリスが私のことも心配してくれてるのはわかってるよ。
見返す私に、ナリスがふっと息をついた。
「俺にくらい、甘えてほしいんだけど」
「でも…」
「話してきて」
いつの間にか来てたソージュが急にそう言って、受付に入ってきた。
「俺が見てるから。行ってきて」
「でもソージュ、もう上がる時間だよ?」
「いいから」
背中を押されて受付から出される。
「ソージュ、待って」
「ナリスさん。レムのこと、お願いします」
振り返ろうとする私をそのままナリスのほうに押しやって、ソージュは笑った。
私を受け止めたナリスを見上げると、真剣な顔でソージュを見返して。
「わかった」
そう頷いて、私の手を引いて厨房のほうに向かった。
厨房に着くと一度ぎゅっと抱きしめられてから、座って、と椅子に座らされた。
私の前に膝をついて目線を合わせたナリスは、そのまま手を伸ばして頭を撫でる。
「テオも、ソージュも。もちろんククルの心配もしてるけど、レムのことも心配してるのはわかってる?」
優しいけど、少し強い口調。私を見る目も甘いだけじゃなくて、言い聞かせるような真剣さがあった。
「それに、俺は誰よりもレムが大事だから。誰と比べてどうとか関係なくて、レムが辛いってことが問題なんだ」
「…私?」
「そう。俺はレム自身のことを聞いてるんだよ?」
私を見つめて頭を撫でながら、ゆっくりと確かめるように聞いてくる。
「辛かった?」
大変だったのも辛かったのもククルで。私じゃないけど。
ククルが辛いのは、私も辛いよ。
撫でてくれるナリスの手と。私だけを見てくれてる眼差しと。本当に心配そうなその声に。
じわりと涙が込み上げる。
「……どうして、ククルが…」
ククルは何も悪くない。お兄ちゃんだって悪くない。
「…どうして、あんなことに…」
なのにどうして、あんなに傷付くようなことをされなきゃならないの?
誰に言ったって仕方ないし、言ったからどうなるってわけじゃないけど。
それでも言わずにはいられなくって。
どうしてって言いながらボロボロ泣き出した私を、ナリスは何も言わずに胸の中に引き込んで、ぎゅっと抱きしめてくれた。
泣きやんだ私が離れるまで、ナリスは何も言わずにずっと抱きしめていてくれた。
「ごめんね」
「謝らないで」
謝ると、そう言って優しくキスされる。
「甘えてほしいって、言ったよね?」
微笑んで私の頭を撫でてから、ナリスが立ち上がった。
「お茶淹れるね」
お湯を沸かし始めるナリスの背中を見てたら、誰よりも大事って言われたことを思い出して。
ちょっと恥ずかしいけど、嬉しかったから。うしろから抱きつこうとしたら、気付かれて振り返られる。
「どうしたの?」
「…甘えにきたの」
気付かれちゃったから、そのまま抱きついて。しばらく抱きしめてから顔を上げると、ちょっとびっくりしたように私を見てるナリスと目が合った。
驚かせるようなこと、何もしてないと思うんだけどな。
ナリス到着です。
レムをナリスに託すソージュ。完全に諦めた瞬間、ですかね。
本編はヘコむアレック。あの日ククルのブラウスのボタンを留めたのはアレックです。