第2章 「怪空間に一変した下宿」
いずれにせよ、一度始めた以上は正しく終わらせる責任がある。
十秒にセットしたキッチンタイマーのアラームを合図に、私は目を見開いたの。
「んっ…?」
だけど次の瞬間、私のスマホに着信が入ったんだ。
「お母さんかな?こんな時間に電話されても困っちゃうのに…」
液晶画面に表示されていた実家の番号。
それに気を許した私は、深く考えずに出てしまったの。
一人隠れんぼの真っ最中だって事も忘れてね。
「もしもし、お母さん?こんな時間にどうしたの?」
身内相手の気安さも手伝い、スマホを取った私の声には、馴れ馴れしさと苛立ちが入り混じっていたの。
ところが私のスマホに出た声は、懐かしい家族の物ではなかったんだ。
「小豆研ごうか、人とって食おうか。」
聞き覚えがあるようでないような、若い女の声。
奇怪な文句には妙な節がついていて、まるで民謡でも歌っているようだったの。
「お母さん?どうしたの、お母さん?」
「小豆研ごうか、人とって食おうか。小豆研ごうか、人とって食おうか。」
私の呼び掛けを無視して、電話先の声は奇怪な歌を口ずさみ続けている。
「小豆研ごうか、人とって食おうか。小豆研ごうか、人とって食おうか。」
心なしか、さっきより歌声が大きくなっているみたいだし、声のトーンも楽しげで明るい物になっているし。
言ってみるなら、歌っているうちに少しずつ調子が出てきたって感じかな。
「誰?お母さんじゃないの?返事してよ!」
みるみるハイテンションになっていく歌声とは対象的に、私の声はどんどんヒステリックに上擦っていったの。
理屈の通じない相手への恐ろしさと、質問を無視された事への苛立ち。
その二つの要因から、私は半ば平静を失いかけていたみたい。
そんな私へ更なる追い打ちをかけるみたいに、点けっぱなしだったテレビの画像に異変が起きてしまったの。
降霊術の一環として、私は深夜で放送休止中の国営放送にチャンネルを合わせていたんだ。
だから液晶画面には、「E202 信号を受信出来ません」の無機質なエラーメッセージが表示されていないといけないの。
ところが、エラーメッセージがいきなり赤褐色に変色したかと思うと、ボロボロと崩れて画面の下部に堆積し始めたんだ。
その上、砂嵐みたいなノイズ音のオマケ付きだよ。
「なっ…何よ、これ?この時間は教育テレビなんて放送していないのに!?」
焦ってリモコンを手にした私だけど、どのボタンも全く反応してくれなかった。
テレビ本体の電源ボタンを押しても、液晶画面には依然として赤褐色の粒々が映し出されていたんだ。
厳密に言えば、さっきよりも粒々の解析度がクリアになっているようだけど。
「えっ、何これ?もしかして実写?」
テレビの液晶画面を埋め尽くした赤褐色の粒々は、みるみるクリアになっていき、今ではツルッとした色艶と陰影のある立体感を伴っていたの。
だけど、この赤褐色の粒々は、何処かで見た事があるような…
「小豆研ごうか、人とって食おうか。小豆研ごうか、人とって食おうか。」
そうだ、小豆だ!
スマホから延々と聞こえてくる歌声に指摘されるのは、何か癪だったけど。
『という事は、例のノイズ音も、鍋かボールに入れた小豆を掻き混ぜている音だったのかな…』
「小豆研ごうか、人とって食おうか!小豆研ごうか、人とって食おうか!」
そんな風に思考を巡らせている私を嘲笑うみたいに、スマホから聞こえてくる歌声のボリュームが大きくなった。
御丁寧な事に、テレビに表示された映像も引きのアングルに切り替わり、小豆をザラザラと撹拌する人間の右手も確認出来るようになったんだ。
手元しか写っていないから、右手の主が何者かまでは分からなかった。
だけど、柔らかくて華奢な全体の印象と、白くて細い指先の感じから、それが若い女性の右手だって事は確かだった。
スマホから聞こえてくる歌声と、液晶テレビの奇怪な映像。
相次ぐ怪現象が今回の一人隠れんぼに起因している事は、一目瞭然だった。
『お米の代わりに小豆なんか詰めたから、こんな事になっちゃったんだ!』
こちらの操作を受け付けないスマホとテレビは一旦置いといて、私はカッターナイフ片手に風呂場へ駆け出した。
こうなった以上、手順通りに終わらせるしか出来る事はないからね。
ヌイグルミをカッターナイフで刺したら、塩水で満たしたペットボトルと一緒にクローゼットに隠れる。
そして塩水を口に含んだ状態でクローゼットから出て、正しい手順でヌイグルミに塩水をかけて勝利宣言。
このプロセスを二時間以内にこなさなければいけないから、グズグズしてはいられないよ。
恐怖と焦燥感で混乱寸前の自分を落ち着かせながら、どうにか駆け付けたセパレート式の浴室。
だけど、そこで待ち受けていたのは、今回の一人隠れんぼで味わった中でも最大級の衝撃だったの。
「えっ…?!」
浴室の電気を付けた私は、呆然と佇立するばかりだった。
異形の怪物が仁王立ちしていたとか、浴槽が小豆で満杯になっていたとか、そういう分かりやすい異変が起きている訳ではなかったの。
そこにあるのは、親元を離れて下宿している女子大生の平凡な浴室だった。
シャンプーとリンスは所定の位置に収まっているし、お湯の入っていない浴槽は綺麗に乾いている。
ただ、呪物として洗面器に沈めたはずのタヌキのヌイグルミだけが、忽然と姿を消していたんだ…
あれから下宿のマンションを家探ししたけど、タヌキのヌイグルミは見つからず仕舞いだったの。
−降霊術を失敗した私の身に、果たして何が起きるのか。
そんな考えにヒヤヒヤしながら居間に戻った所、国営放送にチャンネルを合わせていたテレビは朝の語学番組を映していたし、スマホの通話も切れていたんだ。
午前八時を回ってから、実家にリダイヤルしてみたけど、お母さんには「そんな真夜中に電話なんてする訳がない。」って笑われちゃった。
あの怪現象の名残りも感じさせない、ありふれた朝の日常風景。
その平和な佇まいを見ていると、失敗に終わった降霊術なんて、何かの冗談にしか思えなかったの。