【二人称小説】第一種GoToキャンペーン利用免許
本作品はフィクションです。
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■寒い朝
空気の抜ける音が立ち、ドアが左右に開いていく。
あなたは列車を出て、ホームに降り立つ。
いかにも真冬らしい冷たい風が、あなたを迎える。あなたの全身は、一瞬で粟が立つ。
もこもこと厚着をしてきたが、それでも寒い。
初めての駅、案内を探す。
出口を見つけるとあなたは体をかかえ、北風から逃れるように駅舎へと駆けた。
スマホをかざし、改札を通過する。
空を見上げると、陽は雲に隠れ、その上辺を照らしていた。
あなたは地図アプリを立ちあげ、これからの道のりを確認する。
試験場の大学には、徒歩で15分ほどかかるよう。時間に余裕はあるが、初めての土地だ。迷って遅刻したら元も子もない。
あなたはウォームアップもかねて、道を急ぐことにする。夏場は蒸れて辟易したマスクだが、今は冬の冷気を和らげてくれる。あなたはそれをありがたく感じ、要所のランドマークを確認しては、道を先へと進んでいく。
■試験場
試験場に近づくと、いくつもの、先鋭的なデザインの建物が見えてくる。
門を入ってすぐの場所にはイベントテントが設置され、同じジャンパーを着た係員が何人も待ち構えていた。そこにパラパラと人が寄ってはやり取りを交わし、キャンパスの奥へと吸い込まれていく。
あなたも手隙の男性係員に近づく。
「はい、バーコード見せて」
挨拶もそこそこに手続きが始まる。あなたはスマホを操作しようとするも、手袋をしているのに右手がかじかみ、思うように動かせない。思わぬ苦戦をしながら、受験IDバーコードをなんとか画面に呼び出した。
それを係員はタブレットで読み取る。
「はい、本人確認、オーケー。次は接触確認アプリのログ、出して」
係員のタブレットには、事前に提出したあなたの顔写真が表示されているのだろう。マスクを外せとは言われず、ここでは簡易確認のようだ。
あなたは係員の態度に、国家機関のお役人にしてはよく言えばフランク、悪く言えば粗雑だなと感じる。アルバイトだろうかとも思った。
あなたはそうした不快感を隠しながら、スワイプとタップを駆使してアプリを切り替える。
「はい、問題なし。ひたい出して」
前髪を上げて、前かがみになる。
「はい、35度2分。この先は、行けば分かるから」
伝えられた数値は冷気に晒されていたせいか、ずいぶんと低かった。精度が怪しいが、37度5分を超えなければ文句はない。形ばかりのお辞儀をして、校舎へと向かう。
キャンパスは広く、あなたは時間があれば見てまわりたいと思う。校舎はいくつもあったが、手前のビルに『第一種GoToキャンペーン利用免許 試験場』と大きな看板が掲げられていて、迷いようはなかった。
校舎に入ってすぐ。
スピーカー越しに、リズミカルでぼそぼそした早口が聞こえてくる。
「受験生は、ここでぇ、消毒をぅ。終わったら次はぁ、1番の部屋へー」
廊下では年配の、あなたの父親と同じくらいの年格好の係員が、マイクを片手に受験生たちを捌いていた。スタッフ用ジャンパーも着込んでいる。
そのとなりには、パイプフレームのスタンドが横一列に何台も並んでいた。天板には、白い容器が載っている。
あなたは空いているスタンドに向かい、手袋を上着の両ポケットにしまい込む。両手を差し出し、足元にあるペダルをかるく踏むと、液体がシュッと噴霧される。
あなたはそれをまんべんなく伸ばし、手のひらや甲はもちろんのこと、爪の先、指のあいだ、手首までと、順に消毒を施していく。
『試験場に入ったら、一挙手一投足に気を配れ』
GoTo試験ではウイルス感染対策の習慣が身についているかどうかを終始監視されている、――そんな都市伝説がまことしやかに囁かれていた。あなたは常日ごろに増して、入念に消毒液をすり込む。
手のぬめりが乾いていくのを感じながら、廊下を進む。
案内された部屋は、すぐに見つかった。前の受験生に続いて戸に向かう。
しかしあなたの足はピタリと止まった。
視界の端に、常ならざるものが映ったからだ。
■幻夢
部屋の、もうひとつの戸の前。
あなたと同年代の異性が、丁寧にお辞儀をして退室していた。
こんな人が存在するのか――。
あなたはそう思った。
マスクをしている横顔からでも分かってしまう、超絶な美形。
厚着をしているのに分かってしまう八頭身、モデルのようなスタイル。
その佇まいは、あなたと同じ人類には思えない。
あなたは芸能人もかくやという生ける芸術作品に、吸い込まれるようにくぎ付けになった。
一方、そんなあなたの振る舞いが、相手の目についたのも当然であっただろう。あなたと違って優雅な所作で、あなたへと振り返る。
あなたはしまったと思うが、もう遅い。
驚いたような様子を見せる美形。その目は見開き、体を一瞬こわばらせた。マスクの裏のその口も開いていたはず。
あなたの容姿は月並みだ。そこまでの反応をされる心当たりはない。
あなたはどうしようとあたふたしていると、
「お互い、がんばろう」
そんな優しい言の葉が、とろけるような美声にのって、あなたの耳に届いた。
マスクに隠されていても、やわらかな笑顔を向けられているのが分かる。
あなたの心臓は跳ねあがり、ますます挙動不審になるのを抑えられない。
しかして、幸か不幸か。
空前絶後の美形は隣の部屋から入室を促され、どこか寂しげな目をして行ってしまった。
■検査
あなたはしばし時間をかけて気を落ちつかせ、1番の部屋に入りなおす。予期せず幻夢に迷いこんだ自分を、なんとか現実に引き戻した。
部屋の広さは、平成なら四十の机が並ぶくらいだった。
正面、ホワイトボードの前に設置された大型液晶テレビには、試験手順を説明する動画が映し出されていた。
窓は開け放たれ、サーキュレーターも回っている。その前には長机が三つあり、それぞれに白衣を着た女性係員が座っていた。あいだは背の高いパーティションで区切られている。机の上には前面に透明な間仕切り――アクリル板が立てられ、奥にはさまざまな機材が見える。足元には暖房器具もあるようだ。
そしてその反対、廊下のがわには、ぽつりぽつりと間隔を開けて椅子が並んでいた。あなたと同様、厚着をした人が、思い思いに座っている。だらしない格好の者も散見した。
「順に、詰めて座ってくださいー。次のかた、どうぞー」
この試験場に来て、初めて丁寧に話しかけてくれたおば――、お姉さん係員のひとり。ただ丁寧だけど、どこか疲れが見える、気だるそう。白衣もくたびれていた。
あなたが折りたたみ椅子に座ると、ビニールの座面にぬくもりがあった。隣の受験生のものだろう。あなたは決まりの悪さを覚えながらも、まずは動画を鑑賞する。そして順に椅子を移動してあいだを詰めながら、検査の様子を観察して自分の番に備えた。
「次のかた、どうぞー」
いよいよあなたの番が回ってきた。
「手荷物はそのかごに。――はい、受験バーコードをお願いします」
もう、要領は分かっている。あなたは呼ばれた真ん中の机に足を進め、指示に滞りなく従っていく。
続いてお姉さん係員がその手元の機械のボタンを押すと、スピーカーからメッセージが流れてくる。
『これから係員が順に数本の棒を渡します。その先端に軽く舌を付け、該当する味の箱に、棒を返却してください。分からない場合は「分からない」と書かれた箱に返却してください……』
この部屋での検査項目は『味覚』。
あなたは右手で、マスクの左の耳ひもを外す。その右手が思わず震える。ここでマスクの本体に触れたら、不合格になるかもしれないからだ。少なくとも手指の再消毒を申し出るべきだろうと、あなたは考える。
あなたの顔が露わになると、お姉さん係員はまず、手元のタブレットとあなたを見比べた。本人確認をしているのだろう。
続いて、箸ほどの長さのプラスチック棒を手に取る。彼女の前には、液体の入った小さなビンが多数並んでいる。そのうちのひとつの、機械式の蓋をパカリと開けて、棒を浸す。
味を当てられるだろうか――。
あなたの不安は高まる。
先天的に味覚に問題があるなら、試験場は別。最近異常が生じているのなら、試験を受けている場合ではない。この検査に引っかかるのは、異常事態といえる。何か嘘をついているのか、感染して兆候が現れているのか――。
答えを示す箱は四つあった。「バニラ」、「ストロベリー」、「コーヒー」、「分からない」のラベルが貼られている。いつも通りのあなたなら、間違えるはずはない。
あなたとお姉さん係員を隔てるアクリル板、その下部は大きくくりぬかれている。ゴム手袋に握られたプラスチックの棒が、そこを通して差し出される。
あなたは意を決して、左手でそれを受け取る。そして先端を舌先へ。
果たして感じ取れたのは、子どものころから馴染みのある、いかにも人工的なイチゴの味。あなたは一息ついて、「ストロベリー」の箱に棒を返した。
お姉さん係員は表情を変えずに見届けると、次の棒を液体に浸す。
あなたはそれを再び舌先に軽く付け、――今度は戸惑った。
カレーの味がしたのだ。
あなたは反射的にお姉さん係員の目を見つめた。彼女の表情に変わりは無い。
あなたは「分からない」が適切だと判断し、その箱に棒を収める。
お姉さん係員は手元のタブレットに目を移し、何やら操作をする。次いであなたに、マスクを戻すようジェスチャーで促した。
あなたはマスクを付け直す。
「はい、終わりです。隣の部屋に移動してくださいー」
丁寧で事務的な言葉がアクリル板を越えてきた。
あなたはかごに預けたかばんを手元に戻す。検査の内容を思い返しながら、出口に向かう。
あれは、勘で答える受験生を暴くための工夫なのだろう――。
あなたはそう思う。お姉さん係員たちが無表情なのも当然のこと、案外高度な仕事をこなしているような気がしてきた。
あなたは入室したのと別の戸に到達すると、部屋のほうへくるりと振り返る。そして、ゆっくりとお辞儀をした。
自然に、そうしたい気持ちになった。
■夏の休み
「ふう」
あなたは、大きな鏡を前に一息つく。ふたつ目の部屋で嗅覚検査を終え、次の部屋に向かう前に手洗いに寄っていた。
嗅覚検査は、味覚検査と同じ段取りだった。またもや「分からない」が用意されていた。渡された棒の先からカレーの匂いがしたのには、苦笑させられた。
手を洗い終えたあなたは、廊下に出る。
ポケットからレシートのような紙を取り出し、次の部屋番号を確かめた。嗅覚検査のあと、学科試験の場所として係員から手渡されたものだ。
階段をのぼり、廊下を進む。
あなたはその目こそ部屋を探しているが、こころはあの美形を探していた。
目的の部屋はすぐに見つかる。あなたはそれを残念に感じた。
部屋の戸は前後ともに開け放たれ、受験生が何人か席に着いている。
あなたは彼らの後ろ姿を目にして、どこか浮ついた気分を吹き飛ばされる。自分の置かれた状況を、あらためて自覚させられたのだ。
スマホをいじって過ごしているのは、まあ普通だろう。しかし髪を派手に染めていたり、奇抜に刈り込んでいたりと、普通とはいいがたい人がちらほら見える。服も、さすがに『夜露死苦』などと縫われてはいないが、電車よりはクルマやバイクに乗るのが似つかわしいファッションでキメている。部屋に係員がいないためか、姿勢がどこか威嚇的だ。検査の部屋では被っていた羊の皮が、今は剥がれているといったところか。
中学時代の同級生にはいくらか居た。しかし以後の人生では縁のない雰囲気を醸し出している人たち。あなたのような堅気のほうが人数は多いのに、肩身が狭そうに試験対策本らしきものを読んでいる。
一般にGoTo免許は、各自治体が主催する講習を受け、小試験場での検査や試験をへて取得するものだ。だがあなたは、その参加資格を失っていた。
夏の休みのこと。
あなたは久々に旧友たちと顔をあわせた。話はカラオケ店に向かう流れになる。あなたは気が進まないものの付き合った。皆で熱唱し、場は盛りあがる。その雰囲気にのまれ、あなたたちは大いに弾けた。それは店の規則をいくつも破っていた。
あなたたちの行為に気づいた店員は、即座に自治体に通報した。店としては、もし感染クラスターが発生して未通報だったことが露見すると、感染防止宣言ステッカーをはがされてしまう。GoToキャンペーンの対象店ではなくなる。あなたたちが客といえども、その態度は毅然としていた。あなたたちは、過料こそ取られはしないものの、条例によりその行動を記録された。
コロナ踏み絵。
いまだ日本全国で散発するクラスター、これはその原因としてよく挙げられるキーワードだ。
人は社会的な動物であり、家庭、学校、職場、ご近所、趣味仲間、政治的派閥、さまざまなコミュニティに属している。そしてそのコミュニティには、たいていボス的な人物が存在する。ボスの中には、感染対策を軽視するどころか、嫌い、憎む者もいる。そうしたボスが集まりを主催すると、事は起こるのだ。参加者はコミュニティに留まるか、感染対策を採るかの二択を迫られる。立場が弱い者、気持ちの弱い者は断れない。あなたもいつの間にか、そういう立場に追い込まれていた。
その後、幸いにして、旧友たちのあいだで感染クラスターは発生しなかった。しかしあなたはこうして正月気分も抜けない中、早起きをして、遠くまで足を運ぶという羽目に陥っていた。
■学科試験
嘆いても仕方がない。あなたは気を取り直して部屋に踏み入る。そして、そこで戸惑った。
座席の指定は無かった。各席にはタブレットが置かれ、どこに座ろうとも支障はないようだ。
ただ座席の前後左右の間隔が、狭いように感じられた。1メートル40といったところか。学科試験で会話をすることはないが、長時間滞在する場だ。これでは互いに斜めに着座しないと、推奨される距離、2メートルを確保できない。
空いている席はまだまだあったが、条件を満たす席はさほど無い。あなたは不本意ながら、ガラの悪い女の斜め右前を選択する。椅子に片膝たててスマホをいじる女を横目に進み、着席した。
机の上はタブレットで占められ、荷物を置く余地はない。あなたは身をかがめて、椅子の下へとかばんを潜り込ませる。
そうしていると、「ここ、いい?」と美声が降ってきた。
あなたの背筋はぞくりとする。目を見開き、顔を上げる。
右隣の席に、件の美形がほほ笑んでいた。
あなたは机に体をぶつけながらも身を起こし、小さく首を横に振る。
意外そうな顔が、表情を曇らせていく。マスク越しでも、口をとがらせているのがわかった。
あなたはあわててジェスチャーを繰り出し、席と席の間隔が狭いと訴える。自分でも何をやってるのだろうと思うが、反射的にそうしていた。
きょとんとする美形。
そんな仕草も絵画のようだと思いながら、あなたは必死にジェスチャーを続ける。口に出せばいいのだが、周りが気になって声に出せない。
胸の鼓動が高まり、顔も赤らんでくる。
「あ、そういうこと?」
ついに美形は理解を示し、クスリと笑う。
「ありがとう」
そう言っておしゃれなトートバッグを持ちあげ、あなたの右斜め後ろへと移動していく。
あなたはほっとするが、心臓のバクバクが止まらない。また会えたのはうれしいが、斜め後ろに座られては落ち着かないにも程がある。
どう振る舞おうかと悩んでいると、前の戸から係員が入室してきた。
ホワイトボード前の教壇にのぼり、室内を見渡す係員。いい歳のおじさん、どこかの役所からの天下りだろうか。スタッフ用ジャンパーも浮いて見える。
みなは、姿勢を正す。だるそうに座り直している者もいたが、さすがにここでお上に逆らおうとはしない。
「それでは定刻の9時30分になりましたので、試験を始めます」
そこまで広い部屋ではないが、マイクを使うおじさん係員。座席の半分はまだ空席なのに説明は進む。そして数人が座席の移動を指示された。あなたは、間隔の狭さには意図があるのだと確信した。
「皆さんの机にあるタブレット端末、これの電源を入れてください」
あなたは除菌ティッシュを取り出し、タブレットを拭く。顔を上げると、みなも拭いていた。ここでつまずく者は、いないようだ。平成の機器にはアルコールに弱いものもあるが、令和はそれでは売りものにならない。
タブレットはすぐに起動した。あなたはその背面カメラで、受験IDバーコードを読み取らせる。そしてマナーモードを確認し、スマホはかばんに放った。
「では始めてください。退出は30分を経過したら可能です。その際はこちらから案内します。但し試験が終わるまで再入室はできません。また実技試験は10時30分から始めます。それまでには……」
あなたはお決まりの説明を聞き流しながら、タブレットを操作して問題を解き始める。
問題は全部で95問。90問はマルバツの二択で、残り5問はイラスト付きの複数選択。簡単なテストだが合格ラインは90点、油断はできない。
スワイプしながら、問題文を読み進める。
あなたは、文章を読むのは苦ではない。ヒマがあれば小説投稿サイトでスコップ活動――隠れた名作を発掘することを、楽しんでいるほどだ。
『飲食店では、どのようなときでもマスクを外してはならない』
……あなたは即座に、バツボタンをタップする。
食べるとき、飲むときには、マスクを外すに決まっている。店によっては開閉口付きの特殊なフェイスガードを用意している。
あなたには、こんな問いに意味があるのかという思いがよぎる。しかし、素直に向き合うのが鉄則だと、気を取り直す。
『発熱の症状がある場合、地域の医療機関に電話で事前相談してから受診する』
……あなたは少し間をおいて、マルボタンをタップする。
これは時事問題、ご当地問題と呼ばれる類の問題だ。医療機関の体制や状況は、日々変化している。自治体によっても異なる。
4日高熱が続いたら保健所に連絡するとか、指定病院に連絡するとか、あるいは日数に関係なく連絡するとか。
いきなり通院するのが駄目なのはまず共通だが、免許保持者はそんなアバウトな把握ではすまされない。この試験は、受験前日の正午時点、受験者現住所の自治体の決まりを正答とする取り決めになっている。
あなたは昨日、地元の役所Webサイトを確認している。その内容を思い出し、人差し指をガラスに押し付けた。
『SARS-CoV-2抗原検出の結果が陰性の場合は確定診断になり、陽性の場合は医師の判断に基づきPCR等の追加検査を行う』
……あなたは頭が混乱するのを感じながら、バツボタンをタップする。
各種検査の性質を理解していても、問題文を正確に読解しないと正答はおぼつかない。さらにPCR検査、抗原検査、抗体検査の結果が示す意味合いは、世の知見が深まるにつれ変化している。これもある種の時事問題だろう。
抗原検査の陰性が確定になるのは、発症日数次第だ。結果が陽性なら確定なので、いずれにしろこの設問はバツ。
SNSや動画投稿サイトなどで流布される不正確な情報に惑わされているようでは、GoToキャンペーンを利用する資格などあろうはずがない。あなたはそう思いながら、次の設問に目を移した。
そうしてあなたは全問を回答し、見直しも終えた。時刻は10時を回っており、すでに何人も退出している。
いざ問題を解き終え集中が途切れると、あなたは急に部屋の寒さが気になる。暖房は入っているが、換気のために窓も開けられている。室温は、外よりはマシといった程度だ。
あなたはさらに見直す気力もなく、部屋を出ることにする。体を動かして、暖かくしたかった。
タブレットの電源を切り、席を立ちあがって椅子の下からかばんを取り出す。
斜め後ろの美形とは一瞬目が合うが、その眼差しはすぐタブレットに戻される。
あなたは律儀に試験監督しているおじさん係員に会釈をして、前の戸から退出する。
その瞬間、あなたは教室の後方の異物に気づく。天井にカメラが設置されているのだ。オンライン講義に用いるものであろうか。今現在も稼働しているのかどうかは、あなたに分かろうはずもなかった。
■実技試験その1
しまった――。
あなたは自分の犯したミスを悔いながら、階段を急ぎ、のぼる。
学科試験で早めに部屋を出たあとのこと。あなたは体を動かして暇をつぶそう、でも外に出るほどの時間は無いと考え、校舎を探検することにした。
結果は、ものの見事に迷子に成り果て。あなたはともかく、一旦校舎を出た。朝の入り口から入り直し、こうして実技試験の開始時刻ギリギリを迎えている。
休憩時間にあの美形と話す機会を作りたかったが、全くもって後の祭り。
あなたは焦燥に駆られるものの、走るわけにはいかない。平然とした様子を繕い、早足で廊下を進む。
ようやく部屋が見えてくる。後ろの戸から、飛び入る。
しかして教壇にはすでに、おじさん係員が立っていた。受験生たちも後ろを振り返る。あなたはひとり脚光を浴びる。
あなたはセーフなのかアウトなのか分からず、立ち尽くしてしまう。
「それでは実技試験の説明を始めます。席についてください」
おじさん係員は、何事もないかのように話をはじめた。どうやらあなたは間に合ったようだ。
あなたは背を丸くして部屋を進む。
学科試験と同じ座席に座ると、「おつかれ」と斜め右後ろから小さな美声が届いた。
あなたは呼吸をひそかに整えるので精一杯、小さく頷くのがやっとだ。肩で息でもして呼吸が荒いことが露見すれば、即座に部屋から追い出されるであろう。
「面接試験とSD試験は、それぞれ別の部屋で行います。試験の順序は、受験生によって前後します……」
おじさん係員は淡々と説明を進める。
要は、呼ばれたら指定された部屋に行き、そこで試験を受ければいい。ふたつとも終わったら自由行動、あとは13時からの合否発表を待つだけだ。合格していればその後に写真を撮影し、希望すれば小一時間後に免許証を受け取って帰れる。
不思議だったのは、学科試験の結果についての話がないこと。合格者だけが実技試験に移れるはずなのだ。あなたは、全員合格なので省略しているのだろうと考える。
「以上、質問はありますか?」
学科試験について聞いてみたかったが、その答えによって何か変わるわけでもない。あなたはじっとしている。
「それでは実技試験番号1番、2番のかたは面接試験、3番、4番のかたはSD試験に向かってください」
部屋のあちこちで四人が立ちあがり、荷物を手にして部屋を出ていく。実技試験番号というのは、この部屋の受験生の中で割り当てられた番号だ。あなたは5番。
あなたは、スマホで現在のGoToキャンペーンの内容を見て過ごす。
そうして、10分もたたずして。
「5番のかた、SD試験に向かってください」
おじさん係員が、教卓のタブレットを見ながらそう言う。3番の実技が終わったのだろう。あなたはかばんを持って立ちあがる。
「いってらっしゃい」
またもや右後方から、ひそやかに優しい美声。あなたはそれを、どこかで期待していた。
あなたは思わず小さく手を振ると、美形も手を振って応えてくれた。次いでおじさん係員に会釈をして、廊下に出る。
一階におりて、廊下を歩く。
各部屋の前では、ぽつりぽつりと受験生が丸椅子に座っている。それぞれ順番待ちをしているのだろう。あなたも指定された部屋に着くと、廊下に用意された丸椅子に座る。
程なくして。
あなたの横の戸が開き、緑のメッシュが入った髪の受験生が出てくる。あなたはそれに見覚えがあった。4番の人だ。
それからやや間を置き。今度はスタッフ用ジャンパーを着た若めの男性、人畜無害そうな青年係員が登場する。「5番のかた?」という問いかけにあなたは首肯し、立ちあがって部屋の中へと進む。
「受験IDバーコードを出してください」
あなたはスマホを提示しながら、部屋の様子を眺める。
造りや広さは、味覚や嗅覚の検査をした部屋と同じだった。窓側には機材やアクリル板が置かれた長机が一台。ここも窓は開けられており、かなり肌寒い。
そして、部屋の中央に設置された仕掛けが異様だった。
床に二本のレール。その上に四つの車輪を備えた台座がひとつ。台座の天板は丸く、その上にスタッフ用ジャンパーを着たマネキン人形が立っているのだ。
事情を知らない人が目撃したら、通報事案かもしれない――。
あなたは、そんなよそ事を考えてしまう。
青年係員は長机に移動し、椅子に座る。
「荷物はそこのかごに置いて、印の上に立ってください」
アクリル板越しに届く案内。
あなたはかばんを置き、レールの途切れた先の、床に貼られたバッテン印の上に立つ。
「それでは始めます。まず、窓のほうを向いてください」
あなたは指示に従い、窓のほうへ向き直る。
その横で、あの異様な台座がうなるような音をたてる。マネキンが回転して窓のほうを向く。続いて台座ごと移動、あなたから見て右横から接近して停止した。
あなたは一連の動作がどこか滑稽に感じ、笑いを堪える。
そして足を動かさぬよう、体を右にひねり、
「1メートル30」
と、マネキンとの距離を青年係員に告げた。
あなたにふと、あの美形もこの試験を受けるのかという思いが浮かぶ。顔がニヤつくのを、なんとか抑えた。
「SD」、すなわち、「Social Distance」。
ウイルス感染を抑制するために、人と人とが距離をおくことは重要である。しかし、例えば2メートルの距離が推奨されるシーンにおいて、目測で2メートルを測れなければ実行に移すのは覚束ない。離れすぎても過剰に空間を占有し、それでは他者の迷惑となる。
あなたは少し以前なら、例えば普通自動車の車幅を訊ねられても「3メートル」などとでたらめにしか答えられなかった。しかし今は違う。地元の研修を受けられない中でも、ひとり特訓を繰り返してきたのだ。
「次は、後ろ側を向いてください」
あなたは、レールを背にする方向へと向き直る。
もう何度目になるか分からない。
また台座がうなりをあげ、背後からマネキン人形が迫ってくる。SD試験の最難関だ。
あなたは両足をとどめたまま、必死に肩と首を後ろにひねる。
「に、2メートルよん、いえ、2メートル50」
あなたの体は硬い。つりそうだ。
「はい、終了です」
そこに、青年係員の事務的な案内が返った。
■実技試験その2
あなたは来た廊下を戻り、階段をのぼる。
あの試験、マネキンまで向きを変える必要はあるのだろうか――。
そんなことを考え、自分のこころが浮ついているのを自覚する。それはSD試験のあいだ、ずっとそうだった。
この試験装置について、あの人はどう思うのだろう――。
この距離を、あの人は当てられるのだろうか――。
あなたは、目にするもの、体験する出来事、すべてをあの美形と話してみたかった。いつしか部屋の片隅から見つめられているような気さえして、遊びのようにマネキンの距離を目測していた。
あなたは、学科試験の部屋、今は実技試験の待機の部屋に到着する。
部屋に入るとあなたの目は、自然とあの美形の姿を探し始める。
しかしあなたの席の、右斜め後ろは空っぽだった。とたんにあなたの気持ちは沈んでいく。
あなたはとぼとぼと机のあいだを進み、着席する。
次の試験の不安などよりも、こころに空いた穴が苦しい。
あなたは何をするでもなく、ただうつむいて席に座り続けた。
「5番のかた、面接試験に向かってください」
大して時をおかず、あなたはまた、おじさん係員に呼ばれる。
右斜め後ろはずっと空のままだった。
もう会えないのだろうか――。
あなたは寂寥の想いを引きずりながら、おじさん係員に最後の会釈をした。
今度はさらに階段をのぼって、廊下を歩く。
そこにもほかの受験生がちらほら座っていたが、その間隔は先のSD試験より狭かった。部屋に対して戸はひとつ、部屋自体が狭いようだった。
あなたは丸椅子にすわり、心も空に廊下を見つめる。
どれほど待ったのか、部屋から受験生が出てきて気を入れ直す。
そして数分のちに、「5番のかた、どうぞー」と、ドア越しに女性の声が聞こえてきた。
あなたはドアを開け、挨拶をして部屋に入る。
そこには女性がひとり、四人掛けのテーブルに座ってあなたを待ち構えていた。スーツにスタッフ用ジャンパーを着ているのは、これまでの係員と同様。しかし、スクエア型、メタルフレームの眼鏡が、あなたに緊張感を呼び起こす。
そして部屋には奇妙な点がふたつあった。
ひとつは、テーブル後方を布製のパーティションで遮っていること。病院の診察室で見かけるものだ。部屋自体は一階の部屋の半分の広さはあったが、わざわざ狭くしているようなのだ。窓は開いているようで風が吹き込み、パーティションが小さくはためいている。
もうひとつは、そのパーティションの外側からか、部屋に低く唸る音が鳴り続けていること。もしこの部屋が高速道路の近くであったら、クルマの走行音と思ったかもしれない。しかしこの校舎は、街の喧騒とは無縁の場所に立地している。あなたは、サーキュレーターの調子が悪いのだろうかと推測した。いずれにしても、鬱陶しい音だ。
「そこで……を消毒し……、お好きな席に……ください」
あなたから見て、左手奥に座る女性係員が言う。その声は騒音にかき消されがちだった。
あなたはそれを何とか聞き取り、戸の横にあった消毒液を使う。そして女性係員の対角線上、すぐ手前の椅子を引いた。
だがしかし、あなたはそこで動きを止める。
テーブルの上には、十字状にアクリル板が立てられていた。ところがあなたが座ろうとしていた席から、女性係員の顔が直接見えるようになっているのだ。アクリルが十字に交わる中央部分で、いくつかの板の形がえぐれていた。
あなたは一旦、椅子を戻す。しばし思案したあと、女性係員の隣に移動し、そこに座った。
「今日……、朝、……かった……すか?」
女性係員はあなたの行動を咎めることなく尋ねてきた、――とあなたは思った。しかし今度はあいだのアクリル板のせいか、ほとんど聞き取れない。
あなたはもう一度質問をしてもらおうと思う。
少し声を張るために、軽く息を吸う。
そして、そこで思いとどまった。とどまることができた。
あなたは、大声で話しかけるのをやめる。代わりに右耳に手を寄せ、聴き取れなかったとジェスチャーで示す。
女性係員は表情を変えず、手元のタブレットを操作する。すると部屋には、うそのような静寂が訪れた。
「紅茶とクッキーでよろしいですね?」
凜とした涼やかな、どこか冷たい印象の声が、はっきりとあなたに届く。あの騒音も試験の一環だったのだ。
そして聞かれた内容は、先ほどとは明らかに変えられていた。それは受験申請時に回答したアンケートについてのものだった。
あなたは短く肯定する。女性係員はそれを確認するや立ち上がり、パーティションの裏へと回った。小さな音が断続的に立つ。なにやら作業を始めたようだ。
しばらくして戻ってくると、両手でトレイを運んできた。そこには缶飲料と袋詰めのクッキーが盛られた小皿が載っている。
それらをあなたの目の前に置いていく女性係員。終わると、あなたのとなりにあったタブレットを持ちあげ、あなたの対角線上の席へと座り直した。その席とあなたのあいだは、アクリル板でしっかりと遮られていた。
「どうぞ、お食べください。すべて消毒済みです」
女性係員はそう言うが、あなたはすぐには動けない。面接試験がこのような形式だとは知らなかった。
GoTo免許の実技試験の内容は、詳しく公開されておらず、ネットにも出回っていない。SNSなどに投稿すると、即、運営会社に削除されてアカウントは永久停止になる。さらには身元を特定されて、その行動を記録されてしまうのだ。アングラ系ネットでは情報交換がなされているようだが、あなたは利用していない。リスクが大きすぎて、利用したいとは思わなかった。
「今日は、朝、早かったのですか?」
女性係員の質疑は、とりとめのない内容から始まった。あなたは答えながら、缶のステイオンタブを引きあげ、クッキーの封を開ける。これらを飲食しながら応答することが、試験の中心課題であるのは明白であった。しかも缶飲料。ペットボトルのように飲み残しはし難い。すべて飲むしかない。
あなたはマスクの半着脱を繰り返し、食べたり、話したりの試験をこなしていく。あらたな仕掛けが来ないかと警戒も続けた。
さすがにこの試験では、あなたはよそ事を考える余裕はなかった。ひたすら神経をすり減らしていった。
■第二種
あなたは、大学の広大なキャンパスを歩いている。
空は青空が広がってきたが、雲もまだ多い。ずっと体を動かしていることもあってか、寒さは和らいでいる。
合格発表は13時から。あなたは2時間近くを潰す必要があった。どうしてこれほど時間がかかるのだろうかと思う。キャンパスの中にはコンビニもあったが、食欲は湧かなかった。
面接試験は、頭が白くなりながらもなんとか終わった。自分が何をしゃべったのかほとんど思い出せない。ただ夏の日について質問されたことだけは覚えている。
その後しばらくは、試験場の校舎をうろついていた。あの美形に会う機会を探っていたのだ。しかしその期待は適っていない。
あきらめてキャンパスに出ると、もの珍しいものがいくつもあった。それらを見ていると、すぐあの美形ならなんと言うかと考えてしまう。それを想像するのは楽しかった。覚めると寂しくなった。
あなたは左手首にはめている無個性な時計に目をやる。外をうろついて、そろそろ30分がたっていた。
特別給付時計。
政府からの特別給付、一度目はお金であったが、二度目は時計――スマートウォッチになった。もっとも時計はおまけのようなもので、主な機能は位置を測位することだ。心拍や歩数も測定できるが、電子マネーや任意アプリのインストールには対応していない、政府特注品である。その給付時は、十万円から原価一万円への大幅減額だと批判された。しかしその後、感染抑制に大きく寄与し、結果として経済支援効果は遥かに高かった。
GoToキャンペーン利用に、接触確認アプリの稼働は必須である。加えて今は、おおよそ全ての施設や交通機関でも要求されるようになっている。他の上位互換機器でも代用は可能だが、いずれにしてもこの類の機器を装着せずして、外出はままならない。
そうしてあなたは、朝入場した門から反対側の敷地にたどり着く。ここまでくると、最寄り駅もあなたが降りた駅とは別の駅になる。
そこにはあなたには意外なことに、何人もの、どうみても学生ではない人々が散策をしていた。あの教室にいたような、風紀のよろしくない姿格好をした人はいない。
あなたは何の集まりだろうかと近づいてみる。そばの校舎に看板がかけられていて、『第二種GoToキャンペーン利用免許 試験場』と筆書きされていた。
GoTo免許には、第一種と第二種の区分がある。
第一種は、本人だけがGoToキャンペーンを利用できる。それが第二種になると、取得者が監督責任を負うことで、非取得者も利用できるようになる。免許を取れない歳の子どもを持つ親や、介護に従事する人などが取得する免許だ。
第二種の試験場は限られている。彼らはあなたのように、小試験場の参加資格を失ってここに来ているわけではない。
そのような情報が頭にあるせいか、あなたには第二種の受験者たちが人格者のように見えた。あなたはそんな自分に気づき、自嘲する。
そうして。
あの美形が大試験場に来ているのが、不思議に思えた。
自分がどう見られているのかが、気になった。
■陽だまり
あなたは道を折り返し、まだ見ぬ場所へと足を進める。
陽を遮る校舎を抜けると、目の前に広場が現れた。
建屋の合間にゆるやかな斜面があって、そこに芝が敷かれているのだ。ベンチもいくつか置かれていた。
あなたはそのひとつに近づき、座ってみる。陽に照らされて白く輝き、あなたを誘っているようだった。
座面も背もたれもひんやりとしたが、すぐにあなたの体温で暖まる。風は周りの建屋が防いでいた。雲が流れて陽が照ると暑いくらい、しかし隠れると肌寒い。芝にはときおり鳥たちが降りてきて、なにやら地面をついばんでいる。
どこかで自販機の、ものが落ちる音がした。でも周りには誰もいない。第一種、第二種、どちらの試験場からも離れている場所。ここまで足を延ばすもの好きは、あなた以外にいないようだ。
あなたはまた、空を見上げる。そこは風が強いのか、雲が疾い。
あなたは、すっかり免許のことを忘れている自分が可笑しかった。
第一種は合格して当たり前。ただしそれは、小試験場で受験すればの話だ。大試験場でのいわゆる一発試験は、かなり難しいとされている。あなたも受かる自信があるわけではない。
でもいつしか、どうでもいい気持ちになっていた。
ただもう一度、あの人に会いたい――。
GoToキャンペーン。
内容を変えながら、停止と開催を往来しながら、なんだかんだとしぶとく続いている。
事業者の延命など図らず事業の転換を促し、国民への直接給付を厚くすべきだという意見。それでは地域経済がドミノ倒しに崩壊するという反論。ほかさまざまな主張が交わされ、あなたにはどれももっともらしく聞こえる。
当初こそ感染を広げる遠因になったが、抑えるべきツボも分かり、免許制度も制定された。もう医療の場に負担をかけることもなくなっている。
あなたはすぐに、利用したいキャンペーンがあるわけではない。しかしいつの間にやら、免許を取得していない者には肩身が狭い世の中になっている。内申書や履歴書に記載がなければ、怪訝に思われてしまうくらいだ。あなたの免許へのこだわりはその程度。できれば地元の小試験場で気楽に取得しておきたかった。
「あ、ここにいた」
その美声は突然、頭の上から聞こえてきた。
あなたは背もたれから身を起こして、後ろに振り返る。
「これで2メートルかな」
声の主は、隣のベンチに腰掛ける。屋外でも無風なら、飛沫は滞留する。
マスクの片側を外し、手にしたペットボトルの封を切って口にする。あなたにはそんな振る舞いが、映画のワンシーンのように感じる。
ただ、残すマスクの耳ひもは、反対側にして欲しかったとも思う。あなたに配慮してだろうが、あなたからはその口もとが見えない。映像はともかく、家族以外の他人のくちびるを生で目にする機会は激減した。見えたら見えたで、刺激が強いかもとも思う。
ペットボトルのラベルは、それが紅茶であると示していた。あなたにはそんなことすら喜ばしい。その飲み口から立つ空気の揺らぎも、幻想的に見える。
「ずいぶん探した。外が好き?」
マスクを戻し、小首をかしげた笑顔が、あなたに向けられる。その姿にちょうど陽が差し、まるで天から祝福を受けているよう。
あなたはまた心臓が早まり、頰が火照るのを感じる。
あなたは、自分も探していたと言い返す。
我に返って、さらに頰が熱くなる。
「SD試験でトラブルがあって……」
真摯な表情が、事情を語る。
あのマネキンが移動の最中に倒れてしまい、首がもげてしまったのだと言う。試験は一時中断になり、再開されるまでずいぶんと時間がかかったそう。
あなたはその様子を想像し、吹きだしてしまった。声を立てて笑った。それが芸術的な笑みを誘い出す。あなたはさらに高揚する。
「どこか面白い場所はあった?」
今度はあなたの話す番だ。あなたは、自分に興味を向けてもらえることに舞いあがる。
コンビニに寄ったこと。でも何も買わなかったこと。キャンパスを端まで歩いたこと。そこで第二種の受験生たちを見かけたこと。
優雅な相づちが返るたびに、興奮が高まる。
そしてあなたは話の流れのままに、ここで受験している理由を尋ねていた。
「ん――」
その笑顔に曇りが差した。一瞬であなたは夢心地から覚め、自分のしたことに顔が引きつる。地雷を踏んだかと後悔が襲う。
「地元だと目立つから」
しかし続いたのは、照れ笑いだった。そのマスクのゆがみは、慣れずに作っているドヤ顔を隠しているようにも見えた。
あなたは、そのおどけた様子に安堵はした。あなたには縁がない、想像できるはずもない理由だった。そして、でも、こころに後ろめたい気持ちが残る。相手に踏み込んでおいて、それで終わりにはできなかった。
あなたは聞かれてもいないのに、夏の日の出来事を話し始める。
自分のことをよく見せようという気持ち。正直に話そうという気持ち。あなたは、あなたの中でふたつの気持ちが綯い交ぜになりながら、話を続けた。そして真剣に耳を傾けてくれる姿勢を前に、ありのままを話していた。
沈黙が訪れる。
あなたは、何を言われるのだろうと怖くなる。
「仲がいいんだ」
あなたは意表を突かれた。
その言葉に、あなたの予想した流行りの語句が含まれていなかったという理由もある。でもそれは些末なこと。その言葉には優しさとは別の、どこか寂しさを帯びた音色が込められていた。だから、意外だった。
あなたは本能的に、その哀しみを癒やしたいと思う。
どう考えても、人気者でしょうと――。
どう見ても、モテるはずだと――。
それはあなたの思考に、あなたの奥底に潜む憂慮を忍び込ませる。
ゆえに。
あなたが返す言葉は、あなたの想いとは違うものに変質した。
なぜ、自分などに気をかけてくれるのか――。
慰めるはずが、あなたはあなたが気になっていることを聞いていた。あなたはあなたが不安に感じていることを聞いてしまった。
それは相手に告白をさせる行為だ。
発した言葉はもう戻せない。
あなたを映していた双眸はゆらめき、芝生へと移っていく。その先では、二羽の雀がじゃれ合っていた。
あなたは弁解しようとして、でも、何も言葉が出ない。
そしてその視線は、トートバッグから取り出されたスマホへと移る。優雅な指がそのガラスの上で踊り始める。
ここでそのような行動を取る理由が、あなたには分からない。あなたは黙ってそれを見ていた。
「これ――」
スマホがあなたに向かって突き出される。
あなたは安堵もそこそこに身を乗り出し、その画面にかぶりつく。
そこには、写真が映し出されていた。
「昔の恋人」
届いた言葉は、言葉面こそ衝撃なれど、あなたは動揺しない。
そこに写っているのは、ひとりの子どもに一匹の動物なのだ。
子どもが誰なのかは聞くまでもなかった。これほど『天使のよう』というありきたりな表現が、的を射る子どもはいないであろう。
問題は動物のほう。強いて言えば『愛嬌がある』。それは褒め言葉が見つからない際に、最後に絞り出される表現。あなたは認めたくなかったが、動物の表情が毎日鏡で見る顔にそっくりだった。その雰囲気が、どこかあなたを思わせるものがあった。
この動物と自分は同一視されているのだろうか――。
でも、である。
先の言葉が一周まわって、あなたの体を熱くさせる。
「そして、最初で最後の友だち」
質問への回答は、まだ続く。
この生ける芸術作品は、見た目だけではなかった。賢さも運動神経も一級品なのだそう。だからいつしか、周りに距離を取られたと言う。周りに人はいたが、友はいなかったと言う。
その口調は哀しみを帯びている。しかしあなたは、だからそれでもおごらない性格であれたのだと、聞いていた。
そうして、神話の一編のような話が終幕を迎える。
「初めて会ったとき、生まれ変わりかと思った」
強烈な一撃が、あなたを殴打する。
あなたは、奥底にあったわだかまりが消えていくのを感じた。
あなたの警戒心はすっかり解けた。
疑念はすべて氷解した。
人としての尊厳も溶けてドロドロ、ゲルを過ぎてゾルになりそう。
あなたは言葉を返そうとして、しかし、咳き込んだ。
あわてて、コロナではないとばかりにかぶりを振る。
乾燥した空気。続く緊張。あなたの喉は痛んでいたのだ。これが試験の最中なら、即、不合格だろう。
あなたは唇を湿らし、無理やりつばを溜めて飲み込んでみる。マスクの表面が、もごもごと波打つ。
「冷めてるけど、飲む?」
あなたの目の前に紅茶のペットボトルが差し出される。蓋の取られた、飲みかけのペットボトル。
その声はあなたの耳に届いたが、言葉は頭に入らなかった。
気が激しく動転する。
間接キス。
平成のドラマやアニメでもベタすぎてか、なかなかお目にかかれない展開。無論、感染対策の進んだ令和では死滅している。それは成人保護者の助言が望まれる表現、PG12指定ものだ。
GoToキャンペーンの利用時に発覚したら、免許取り消しである。
あなたは周囲を見渡す――見渡してしまった。
周りに、人はいなかった。話のあいだに見かけはしたが、あなたたちに遠慮をしてか、近づく人はいなかった。スタッフ用ジャンパーを着た人などは皆無だ。
あなたは視線を戻す。
そこには心外そうな、不満そうな、否、哀しそうな表情が佇んでいた。
昔の恋人――最初で最後の友人――恐らくはもう、この世にはいない存在。
その生き写しに拒絶されようとしているのだ。心中は察して余りある。
受け取ればしかし、あなたは免許を持つ資格など無いだろう。
断ればしかし、目の前の奇跡とは永遠に縁が絶えるであろう。
あなたは意を決し、行動を起こす。
□GoTo
あれから月日は過ぎ去り、あなたはすっかり塵労を負う日々を過ごすようになった。あなたは今でも年始の休みが明けると、あの受験の日の出来事を思い出す。
あのとき、あなたにしては思い切った行動を取ったあと、どんよりとした曇りの空にドローンの姿を捉えたのであった。
自分の取った選択は、正解だったのだろうか?
もし逆にしていたら、どうなっていたのだろう?
後悔は無い、などと言えば嘘になる。
でも、たどり着く結論はいつも同じ。正解なんてあるはずがない。
免許があってもなくても、行き先は変えない、変わらない。
美形の異性が傍らにいてもなくても、行き先は変え、こ、これは変わるかも。
ともかくだ。
Go to the future.
あなたはこれからも悔いなきよう、未来に向かって突き進む。
もちろん、感染防止に気をつけながら――。
了
お読みいただき、ありがとうございました。
本作品はフィクションです。重要なので2度書きます。
あと、「活動報告」に本作の楽屋話を用意しています。ご関心がありましたら、こちらもお楽しみくださいませ。