人形の箱――似ている人形――
何か面白いものがないかな――数日前、わたしは確かに杏子にそう言った。
大して期待していなかったし、そう言ったときの反応を見ると杏子はどうやら聞いていないようだったし、まさか本当に面白そうなものをもってくるとは思わなかった。
「こんなもの見つけたの、ほら」
その日の昼休みに、杏子はそういってわたしの目の前に小さな木箱を置いた。
大分古びており、表面が茶色どころか白っぽい灰色になっている。
角は丸みをおびていて、中にはつぶれているところさえあり、ささくれだった繊維が散らばっている。
大きさといえば大体、ちいさめのメロンが入るぐらい。
「あんたどこでこれを見つけたの? かなり古そうなものだけど」
「家の物置」
こともなげに杏子はいう。
杏子の家には何度か行ったことがある。洋風のこぢんまりとした、住宅地の中では見ない方が珍しいほどありふれている、どこにでもある普通の住宅だ。
あの家の雰囲気と目の前にあるこの木箱を見ていて感じる印象の間に、一致するものは見つかりそうもない。
ただし杏子には似つかわしい。この木箱は杏子に似ている。
杏子は京人形のような、純和風の顔立ちをしている。
目は小ぶりだがぱっちりと丸い。鼻は低いけれど形はいい。
小さい唇は考えごとをするたびに、いつも少しだけ開いている。
おかっぱに近い髪型がなおさらそれらしく彼女を見せる。
杏子の話を聞いたところ、彼女の家の庭には小さな物置があるらしい。
わたしはそれを見たことがない。あるいは見た覚えがない。
建物というよりグレーの金属で出来た巨大な箱で、中には古いタイヤや、昔飼っていた犬の犬小屋や、もう使われていない古いゴルフクラブなどが詰まっている。
そうしてそこに、むかし引っ越しをしたとき、捨てられなかったものも入れてある。
杏子は幼い頃に引越しをしている。
杏子にその記憶は薄い。その前の記憶はないそうだ。ここで生まれ育ったのと変わらない、と杏子自身は言う。
わたしはぎりぎり覚えている。
最古に近い記憶をたずねると、幼稚園のとき不安げに先生の足に取り付いている、小さな杏子の姿が見えてくる。
新しいお友達と紹介された彼女にはじめて話しかけたのはわたしだった。
引越しという概念を知ったのもそのときだった。
そんな十数年前の引越しの際の荷物が、物置の片隅の大きな段ボール箱に入っていた。
その段ボール箱の中から、杏子はこの箱を見つけたらしい。
「開けてみて」
杏子がそう言いながら小さく手を差し出す。
ほぼ正確な立方体である箱の上部から、板の一面がわずかに飛び出している。
その一面だけは完全には接合されておらず、箱の切れ込みにはめ込まれているだけらしい。
上部の面からわずかに飛び出している部分を指でつまみながら、わたしは杏子に聞いた。
「開けてみた?」
「もちろん」
その上で、面白いものだ、と杏子は言っているらしい。
そりゃそうだろう。そうでなければこんなもの、学校にまで持ってくるはずがない。
指を上に持ち上げる。
箱の前面が開く。
古びた木の匂いが唐突に鼻をつく。
わたしの視線は高く、箱の中はよく見えない。
はじめは赤い布の端が目に付いた。鮮やかな赤ではない。大分くすんだ色をしたその布は、どうやら着物のようだと判断する。
形は人が着るのに適していたし、小さな白い手が赤い布の中に二つ見えた。
「人形?」
視線を上に戻して聞くと、杏子は不思議な笑みを浮かべていた。
彼女の何らかの答えを待たずにわたしは箱の中へと目を戻す。
人形の着ている着物は箱の容積をほとんど埋めていた。
ふわふわとした生地で作られている。向こうが透けて見えるような、例えば薄い手ぬぐいみたいな布が何枚も重ねてある。
手から想像される人形の体よりも、着物はずっと大きい。そうして箱が小さすぎるのだ。
人形を手にとろうにも、どこから手を差し入れていいのかわからない。
だからわたしは上体をかがめて、箱の中を見た。
蛍光灯の乏しい光の影になって、人形のすべては窺えなかった。
古い日本の人形だ。黒い髪は少女のような髪型をしている。
ちょうど、杏子のような。
それから、はて、とわたしは思った。
人形に対してではない。
これの何が面白いのかわからなかったからだ。
わたしのいぶかしげな顔を見てとったのか、それともわたしが驚くのを確信していたのか、大した反応を返さないでいると杏子が不満げな声をあげた。
「ちゃんと見てるの? ……人形の顔を、よく見て」
「顔? そう言われても、暗くって……」
確かにわたしはよく見ていなかった。
暗がりの中に隠れている、とまでは言わない。
けれど箱の上部が庇になって影を作り、それほど大きなものでもない人形の顔の印象をぼんやりと霞ませている。
わたしは視線をさらに下げた。
そうして箱の左右に手をかけて、傾けた。
光に照らされて、人形の顔が浮かび上がってくる。
はじめはわからなかった。人形は人形にしか過ぎない。
顔のパーツは小さいけれど形はいい。
日本の人形といわれて浮かんでくるイメージそのものだ。
それはまるで、……どこかで見覚えがある気がする。
次いでさっき髪型に感じた印象がふと頭をよぎった。じっと確かめる。
やはりそうだ、というより、そっくりじゃないか。
背筋を寒いものが走る。
箱を傾けていた手を、反射的に離してしまった。
あっ、と思ったときには、その箱は杏子が受け止めていた。
彼女にわたしの顔はどんな風に映っていたのだろう。
杏子はにやにやしている。
「面白いでしょ、この人形」
杏子が怖がりもせずそんなことを言えるのが不思議だった。
人形は、よく似ていた。
杏子に。
杏子の余裕は、強がりではないらしい。
唇には薄く笑みが浮かんでいる。
元々そんなに気の強い子ではない。無理に強がっているのならすぐにわかる。
ただ純粋に、驚くわたしを楽しんでいた。
不愉快ではない。ただ、不思議だ。
「その人形、……どうしたの?」
「だから、物置の中にあったの」
「だってそれ……」
「すごく似てるでしょ、私に」
こともなげに杏子は言い切る。
それから箱を半回転させ、傾けて、わたしの方からは見えない人形と顔を見合わせる。
いま杏子の瞳の中には人形が映っているのだろう。
杏子の目の中に杏子によく似た顔。想像すると妙な気分になる。
「不思議だと思わない? もう十数年も開けてないダンボール箱の中に、今の私によく似た人形が入っているなんて。だから面白いな、って思ったんだけど……」
「面白いといえば、面白いけれど……」
どちらかといえば怖い、と戸惑いながらもわたしが続けようとしたとき、遮るように杏子が言った。
「っていうのはウソで」
「え」
間抜けな声を出すと、杏子が人形から目を離しこちらを見た。
「私も見つけたときは怖かったの。これがなんなのかすぐにはわからなくて、何かに似てると思っていたら自分の顔で……。それで、なんだか色んな想像をしちゃった。この人形、箱に比べるとすごく大きいじゃない? だからさ、もしかして、この人形は私に合わせて箱の中で成長したんじゃないか、なんて考えたりして。よくあるじゃない、髪の毛が伸びる人形。あれの全身バージョンだってありそうだし」
杏子のその想像は、語りの気軽さに割に、わたしを怖がらせた。
そんなこと、わたしは少しも想像しなかった。
杏子に似ている、人形が似ている、それだけでわたしをぞっとさせるのには十分だった。
答えを返さないうちに杏子が続ける。
「で、あんまり怖いからそれを持っていって、親に聞いてみたの」
ん、とわたしは思う。
親が出て来るだけで、ずいぶん話の雰囲気がゆるくなる。
「そしたら?」
「はじめは父さん。じっと真剣な顔で見て『わからない、そんなのよく見つけたな』なんて言って、『それにしても、どうもお前に似てるみたいだ』ぐらいで終わり。それからテレビでゴルフ見てた。じっと真剣な顔で」
「親の愛を疑う瞬間だね」
「うん、そう。まあ、はじめから期待してなかったけど。でも、それでなんだかバカらしくなっちゃった」
杏子はもう一度目を落とす。
それから人形を私に向ける。
杏子の顔と、小さな杏子の顔が二つ並ぶ。
「どう? ……どうも似てる、ですむかな?」
「すごく似てる、とわたしは思う。だけど……」
気のせいだ、とか偶然だ、と言おうと思えば言える。
そもそも相手は人形だ。杏子の顔の正確な写しではない。
それなのに、杏子に似ていると感じる。
バランスや雰囲気、要するに特徴が杏子に似ている。
その似ているという感覚が、疑わしいものであり怖いものでもある。
所詮、主観だ。
厳密に杏子に似ているわけではないのに、似ていると感じさせる不気味さが恐ろしい。
恐ろしいのだけれど、それはただ勝手に人形の顔から杏子を連想して怖がっているだけなのかもしれない。
……ここに至ってよくわからなくなってくる。
「うん、私もそんな感じだった。父親の愛は疑ったけど、結果として父さんのおかげで怖くなくなった。だからもう別によかったんだけど、一応、母さんに聞きにいったわけ」
「そしたら?」
「母さんは知ってた」
母親は部屋で洗濯物を畳んでいた。
杏子が手に持っていた木箱をいぶかしげに見たあと、中を見せるとぱっと顔が明るくなった。
「あら、懐かしい。どこから見つけてきたの? 物置?」
「知ってるの、これ?」
「もちろん。これはね、母さんの家の座敷に置かれていたの。……あの座敷、杏子は覚えてないよね。母さんの家の座敷はね、人形やら、羽子板やら、模造品の兜とか刀とか、色んなものが置いてあったの」
杏子の前の家は和風の家だったらしい。
かなり昔からある家で、かつては杏子の家族もそこに住んでいた。
けれども杏子の父親の転勤に伴って、家族はそこから今の家に移り住むことになった。
その家には引き続き、母方の祖父母が住む予定だったものの、土地を欲しがる人が見つかって、その家は売り払うことになった。
杏子の祖父母は家を売った金でマンションに移った。そのマンションには運びきれず、処分するに忍びなかった、座敷にあったいくつかのものは、杏子の母や遠い場所に住んでいる母親の兄弟が引き取った。
この人形も、その中の一つらしい。
「……これはね、私のおばあちゃんに似せて作った人形なのよ。つまりあなたの、ひいおばあちゃんに、ね。昔からそう聞かされてきたんだけど、私の知ってるおばあちゃんとは全然違った。本当なのかなって思ってたけれど……杏子には似てるね。おばあちゃんも若い頃は、杏子にそっくりだったのかしら」
「……それ、逆じゃない?」
「ん? ああ、そうね。おばあちゃんの若い頃に、杏子はそっくりなんだね」
杏子の話を聞き終えたとき、ちょうど昼休みが終わりに近付いていた。
教室の外に出ていたクラスメイトたちも席に戻ってきている。
わたしたちの話も、どうやら終わりつつある。
まだこちらを向いていた人形の箱を、私は手にとった。
「じゃあこれは、杏子というより杏子のひいおばあちゃんなわけね。似てるわけだ」
にこりと笑って杏子はうなずく。
それから箱のふたを手にとり、切れ込みに差し込んだ。人形の姿は見えなくなった。
最後にちらりと見えた人形の顔は、なんだか薄く微笑んでいるようにも感じられた。
「と、いうお話でした。面白かった?」
箱を手にして、立ち上がりながら杏子が聞いてくる。
わたしはうなずいた。
「面白いものだったし、面白い話だった」
「だったらよかった」
嬉しそうに杏子は言う。
わたしはずっと自分の席に座っていた。
杏子の席は離れており、いままで座っていたのは他のクラスメイトの椅子だった。
自分の席に戻りかけた杏子が、ついと振り向く。
そうしてわたしに言う。
「面白いといえば、もうひとつ。私は母さんの後で、私の祖母にもこの人形のことをたずねてみたの。この人形は確かに、ひいおばあちゃんをモデルに作ったものなんだって。……だけど、それなりにひいおばあちゃんの若いころを知っている祖母が言うにはね。私と、私のひいおばあちゃんを、似ていると感じたことは一度もないそうよ。似てるって、いったい何なんだろうね」