恐怖の赤
何事かと思い、顔をひきつらせたが、あながち真面目な話らしく、失礼にならない程度に、恐る恐る耳を近付けると、
「……篠ノ井とは上手くやっていけそうか?」
えーと、それは一体どういう意味で?
もしかして、もう俺が彼氏だと思って、可愛い後輩の先を案じているとか? まさか。
答えに迷っていると、
「いくらか話は聞いていると思うかもしれんが、うちでは取材時その他ペアで活動してもらう。お前は篠ノ井とペアで活動してほしい。んで、相性はどうか、一応な」
ああ、なるほど、そのことか。ホッと胸を撫で下ろす。
「もう取材に同行したなら分かると思うが、あいつすぐ暴走というか、取材そっちのけで謎解きに夢中になるだろ? だから心配なわけよ」
「まあ……なんとかなると思いますよ」
今日を振り返ると歯切れよく答えられないが、引き受けた(しまった?)以上、何とかしなければならないと言った方が正確だ。
「ならひとまずいいんだが――その様子だと、早速洗礼を受けたっぽいしな」
部長は、まだ何か言いたげな顔を離し、椅子にすとんと座ると、背もたれにグッと寄りかかり、
「あいつのペア、ことごとく続かなくてなぁ」
と言いながら机に置かれたノートパソコンに見入った。
「ああ、申し訳ない。紙面のレイアウトしてるんだ。時間が押していてな」
思えば部室は紙の山なのかと思ったら、そんなことはなかった。今は記事作成から校閲を除き、印刷までパソコンで一括しているとのこと。
個人的には校閲までしているのにリアルさを感じ、驚きだが。何でも、これだけは機械任せにできないし、したくないのだとか。
俺は作業のタイミングを見計らって、
「ペアが続かないって、やっぱり謎解きに没頭するからですか?」
と聞くと、
「没頭なんてもんじゃない――ありゃ暴走だ。お前も手綱を締めとけよ。と言うか、締めてもらわないと困る」
俺はまだ篠ノ井の本気を見ていないのかと思うと、若干不安になってくるが、
「だが、本質はそうじゃない。いや、それもあるがそれより問題なのが――」
なるほど。何となく察した。部長も俺にわざと言わせようと、返事を待っているらしい。
「……立場、ですね」
「ご名答。あいつの家の事情を知ると、みんな尻込みしちまって。それにプラスして、調査と言う名の謎解きに付き合わされると、手に負えないときたもんだ。令嬢に下手に手出ししたら後が怖いってんだよ」
そりゃそうだろうな。
「あの好奇心は悪くはないってのに」と付け加えた部長の目は、遠くを向いていた。
しかし、それならどうして、部長は怒鳴ることすらできるのだろうなんて聞くにはまだ馴れていなかった。
先輩は、「そうだ」と、ふと思い出したように言うと、
「お前はどうなんだ?」
言わんとすることがイマイチ掴めず、
「どう、とは?」
「今更だが、令嬢とペアじゃ息苦しいとか」
「あー……。いくらかは気を付けないととは思います。まあしかし、俺なんか今の今まで、篠ノ井の事情を知らなかったも同然ですから」
「知らなかった!?」
部長は驚いた様子だったが、その反応に俺は驚いた。そんなに?
「お前、篠ノ井のことなんて、学年問わず有名だぞ。知らないなんて人を知らなかったわ」
その割には、1年次、篠ノ井がクラスで孤立しているなんてことはなかった。むしろ、俺の方がよほど孤立してた。
近寄りがたいと思う人と、令嬢に一種の好奇心を持ち、近寄っていく人とがいるのかもしれない。
もっとも、令嬢と仲良くすることで、殊更自己顕示欲を満たそうとする人もいるだろう。
「あいつが突然お前を紹介してきたのも、何か裏がありそうだが……それは当人たちの問題だからいい。オレは人手が増えただけでも満足。しかし、大浦、なんとか上手いことペアで活動してくれ。何かあったら諫めてやってくれ」
ええ、俺だって内申点をプラスにするために来たんだ。逆にマイナスにしてたまるかと思ったが、それは何だか言い訳がましい気がした。
俺は、完全下校時刻を迎えた学校を、南門から出た。つまり、素直に下校するのとは逆方向に出たことになる。
と言うのも……。
「特に大浦くんには、今日一日、本当にご迷惑お掛け致しました」
部室を篠ノ井と一緒に出てから、謝罪されっぱなしで別れ際を見つけられず、グズグズとついてきてしまった。
これで逐一謝られていたら、俺も四六時中謝罪されなければならなくなる、なんて思いながら、
「まあ俺は一応ボランティア部員だが、今は新聞部に出向してきてる身だし、謝られることはない」
あれからと言うもの、新聞部に関する説明と言うものはなく、とにかく篠ノ井とよろしくやってくれとのことだった。
作業内容諸々はやっていれば覚えていくだろう。
が、しかし、問題だったのは……。
「佐用さん! ちょっと佐用さん!」
図書室の怪奇事件? の記事を篠ノ井と共同で執筆した後、何とか出稿に間に合わせた。
記事は新聞作成ソフトで、あらかじめ作られたテンプレートに打ち込んでいくが、これは慣れている方に任せる。
そんな折り、やっと一息つけると思ったのに、あまりに慌てて篠ノ井の名前を連呼してくるものだから、何事かと声のする方向を二人同時に向くや否や、
「何ですか、この記事は!」
机に紙が叩きつけられた。
この人、一体誰状態だが、聞ける雰囲気でなかったのは言うまでもない。
「佐用さんの書いた部分だけ、誤字、脱字が酷すぎます! 完全下校時刻も迫っているので、一刻も早く訂正してください! くれぐれも、お願いしますよ!?」
偉い早さで捲し立て、踵を返していったものだから、唖然とせざるを得なかった。
そっと置いていった紙を覗くと、
「うわぁー、真っ赤……」
篠ノ井が力ない声を漏らした。
「なあ、今の誰だ?」
篠ノ井は、引き返していくのをしっかり目で追ってから小声で、
「……校閲係の栄ちゃん」
「栄、ちゃん?」
「そう。三柿野栄ちゃん。これ真っ赤になるまでペン入れして訂正してるの。同級生のはずなんだけど、私、何回怒られてるか分かんない」
――出稿直前に怒らせないようにするのが賢明だろう。
篠ノ井は苦笑いついでに、
「いつもは仲良くしてるんだけどね。聞くと何かしらの答えが返ってくるし。歩く辞典だよ」
それでいて、発刊前に毎度こんな目に合わされているのか、三柿野さん……。
校閲というもの、文字の校正に限らず、事実関係まで切り込むというのは、いつかのドラマで知っている。ならば、「歩く辞典」というのも、あながち正確かもしれない。
それにしても、校閲といったら校正するのが当然の仕事だが、凄まじい量の訂正である。
校正記号と言うのか、とにかく謎の記号で埋め尽くされていて、どこがどう直されているのか、俺にはさっぱりだった。
――それはそうと、下校時刻が迫っているとか言ってたな。
壁にかかった時計を振り向くと、時刻はすでに18時35分を回ったところ。思わず腕時計も確認するが同じ。
完全下校時刻は19時だから――これってかなり危うくないか?
「大浦くん~。ちょっと一緒に手伝って~。直しが多すぎてわけ分からなくなりそう」
もう一杯一杯の口調だが、
「待て。これ見たって直し方が分かるわけないだろ。新人だぞ」
その時、
「どんな塩梅よ」
俺の左隣からぬぅっと顔を覗かせてきたのは、部長であった。
「また編成も確認しなきゃならないんだ。なるべく早くしてくれ」
と言うが、篠ノ井はもはやオーバーヒートしている。
「だから毎回早く記事を書けと言っているだろうに。ここじゃあ大浦の先輩だろ?」
俺はと言うと、ここにいても役立たないから篠ノ井の隣を空け、どうか手助けを、と黙示した。
篠ノ井にはよりプレッシャーかもしれないが、こうでもしないと間に合わない。
それは伝わったらしく、「ちょっと見てろ」と言うと、
「いいか? これは文頭だから一文字下げる、んでここから次の段落へ。ここは行を入れかえる……」
「それにしてもミス多すぎだぞ」とか言いながらも、紙面に細かく書き込まれた校正記号を読み解き、キーボードを景気よく打って、あっという間に直していく。
「大浦にも、もちろん記事を書いてもらうから、そのときはこうやって直してくれ」
「あ、それはもちろん」
だが、
「毎回、こんな風に真っ赤になって返ってくるんですか?」
もしそうだとしたら、発刊日前は恐怖でしかないのだが、と思うも、部長は軽く笑って、
「これはない。さすがにない」
顔は微笑んでいても、それはあまりにも乾いた笑いであった。
それだけ、篠ノ井のとんちんかんは尋常ではないということか……。
不覚ながら、笑ってしまいそうなのも、また事実だった。
部長は「ここまで記事を赤く染めるのは、篠ノ井の特許」と言うに加え、
「普段なら幹部のうち、書記と会計……ここでは新聞社にあやかって『デスク』と読んでいるんだが、それが一旦原稿を取りまとめて推敲するんだ。だから、ここまで手直しが必要になることはない」
話を聞くとこうだ。
ヒラの部員が取材記者を務め、記事を書く。それらを、ここでは新聞社かぶれでキャップと呼ぶらしい記者係長がまとめ、推敲する。
さらに今度は幹部のうちデスクと呼ばれる書記、会計が編集方針を決め、ようやく編集長、副編集長……要するに部長、副部長に出稿され、紙面を構成する、と。
「最後に……今、三柿野がやっているように、赤ペンでチェックを入れていくんだが……」