部室をたずねて三千里
気まずい。
一直線に続く長い廊下には、パタパタと、俺らの靴音だけが響いていた。
夕暮れ時の学校はうら寂しいもの。校庭の方から野球部だかサッカー部の掛け声が風に流されてくるが、これがまた、いっそふう廊下の静けさを掻き立てる。
図書室から部室棟までは、右や左に曲がり、階段を下りたり上ったりで数百メートルはある。
――隣にいるのはご令嬢。俺はその(偽装)彼氏。知れば知るほど立場は非常に不安定。彼女のバックにはとんでもない、巨大な力が構えているのは確かだ。
やんごとないお育ちの篠ノ井に、平々凡々を絵に描いたような俺が、こんなに馴れ馴れしく、そばにいるだけでも、本来あってはならないのかもしれない。
と思えば、口一つ開くにしても考えを巡らせざるを得ず、それをまた、篠ノ井も察しているのか、結局緊張と沈黙が場を支配する。
あぁ、篠ノ井の依頼に対して、俺は安請け合いしてしまったのだろうか。
令嬢に釣り合うもの。もし俺が御曹司だったら……いや、ないな。
「ね、ねえ。聞きたいことがあるんだけど、いい?」
うわ、来た! と言っては失礼だが、この沈黙をどちらが破るか、互いに牽制し合っていたと思うところにこれ。
「ああ、構わんが」
せいぜい平静を装って返事してみた。
正直、やっと緊張から解放されると、思わないこともなかった。
「教室に呼びに行ったの、やっぱりダメ、だったかな」
聞かれたことの意味を、すぐに理解することができなかった。質問の想定をしていたわけでもないが、していたとしても全く検討外れだっただろうから。
「え、いや、別にだけど……どういうこと? 人を呼ぶのに、クラスに来るのは変じゃないだろうに」
篠ノ井は、
「それなら良かった~」
と言い、丁度、部室棟に行くための曲がり角に差し掛かったところで、少し足早に俺の前に進み、
「だって、呼んだとき大浦くん、魂が抜けたような顔してたから。私、何か変なことでもしたのかと思ったよ~。その後だって、とんでもない慌てようだったし」
と言う、その後ろ姿は、どこか因循したような様子だった。
思い出した。「あぁ、あれは!」と、俺も一歩先を行く篠ノ井の、更に一歩先を行き、
「そ、その、あーあれだ」
今度は俺がそっくりそのまま篠ノ井と同じ態度だった。
「『あれ』って?」
すごすごと篠ノ井の隣に戻り、
「名前、だよ」
これだけでは伝わるはずはなく、首を傾げられた。
「名前呼びしたろ? それだよ」
言わなけりゃ伝わらないのは当然だが、なるべく端的に済ませたい、この矛盾よ。
「大浦くんの名前って……『三崎』がどうかしたの?」
「うわー、あんまり言わんでくれ! 恥ずかしくて耳がくすぐったい!」
わざとらしく両耳を塞いだ。
「塞いじゃったら私の話、聞こえないじゃん!」と言いつつ、俺の両耳を塞ぐ手を離そうと、腕に掴みかかってきたところでギブアップだった。
せめて目を合わせずに言った。
「……名前、女子みたいだから」
呆気にとられたのか、少し時間が開いて、
「『みさき』、まあ言われてみればね」
「全くよくからかわれたもんだけど。未だに飽き足らず、名前呼びするやつが一名……」
その一名、星置の場合は、もはや挨拶代わりのように使ってきやがるが、嫌味は感じないから渋々と言ったところだ。
「これじゃあ妹と性別逆転だって、いつも思ってた。最近は名字で呼ばれるのがほとんどだから気にすることもないが」
「大浦くんも兄妹なんだ」
「まあな。『純』って言うんだけど、あっちは男子に間違われるわけ」
「名前だけ聞くと、確かに互い違いになりそうだけど」と付け加えるに、
「面白兄妹だね。楽しそう」
「そう言うけどなぁ、弟ならまだしも、妹なんているだけ面倒だぞ。何で電話してきたかと思えば、ただひたすら愚痴られるだけ。毎回ふざけんなっての。電池の無駄だし、アイツは俺を兄と思ってない。下部かその類いとでも思ってんだろ」
言ってから思ったが、話しすぎたかもしれない。
篠ノ井はクスッと笑い声を漏らし、
「って言うけど大浦くん、何だか嬉しそうじゃない? 愚痴られるの分かってて電話に出てるんでしょ?」
「今回こそ重要な電話かもしれないなんて思ったら、無視できないからなぁ」
「無視したらしたで罪悪感にかられてそうだよね」と言われ、見透かされたようでそれこそ恥ずかしかった。それを紛らせるべく、
「その言い方だと、篠ノ井家もなのか?」
「『も』ってことは」と、まるで気にも留めず聞くと、
「お兄さ……兄が一人いるわ」
「そうか」
そしてまた沈黙。たぶんこうなることは予測していた。
だが、
「え?」
なぜか篠ノ井は小さく驚いたような声を上げた。何かあったろうか。俺も「え?」である。
「私の家のこと、もっと知りたくないの? 内情とかいろいろ。こう言ったら何だけど、ネタには事欠かないし」
と言いながら俺に詰め寄った。一体どうしたと言うんだ。
「そりゃ、篠ノ井家のこと一切合切知らないが、別に知りたいとも思わん。ゴシップには疎いんだ」
知るのが怖いということもある。知れば知るほど恐れ多い存在になっていって、ついにはろくに喋られなくなりそうで。
「しかし」
腕組みをし、ため息をついてから、
「こう……偽装している以上は、必要な情報は交換しておくべきだとは思う。相手に彼氏彼女に見えなけりゃ、俺のいる意味が消える」
須磨の場合は、上手いこと勘違い? してくれたが、でも要するに、相手に勘違いしてもらわねばならないと言うことだ。
それにまだ、偽装カップルに至った所以なんかは、篠ノ井自身から聞いていない。
「やっぱりヘンだよ、大浦くん。私のこと、少しも知らないなんて思ってもなかった。もしそうでなくても、たぶんヘン」
「それ、昨日も言ってなかったか? 全く、本人に向かってヘン、ヘンって」
「ゴメンゴメン。でも言う通りだよね。ちゃんとする。逆に大浦くんのこと、結構聞いちゃったし。妹さんのこととか。けど」
「もう着いちゃったから、後でね」と言いながら、篠ノ井が指差す方向を目で追うと、「新聞部」と札がかかった部室のドアがあった。
思えば、ここにたどり着くまで、ものすごく遠回りしてきた気がする。
腕時計を一瞥すると、クラスを飛び出してから既に二時間半以上、経過していた。
部室内は思いの外明るく、いかにも「編集部」を思わせるような机配置であった。
もちろん、机こそ教室にあるものと同じだが、何脚かくっつけていわゆる「班」状態がいくつかある。
それらの奥、窓側に部屋全体が見えるように向けられた机から、「ちょっと」と手招きしてくる人がいた。篠ノ井曰く「あれが部長だよ」と言う。
確かに、居場所と言い、出で立ちといい「編集長」と言ったところか。
しかし、ついていったら、
「篠ノ井! お前は取材一つに何時間かけてるんだ!」
開口一番怒られた。篠ノ井が。
「明日は発刊日だぞ? お前の取材記事、上手いことすれば今日の出稿に余裕もって間に合ったろ!」
「すみません!」
篠ノ井が素早く、そして見事な様で頭を下げるのにつられ、俺も一歩遅れて頭を下げた。
部長も篠ノ井の出自を知っているのだろうか。もしそうなら、知っていながら怒鳴れるのか。先輩権限で?
内心、ヒヤヒヤものである。
「ま~た推理だか謎解きだかやってたんだろ。確かに調査は記事にするのに必要だし、そんな依頼も来るが……間違ってもうちは推理研究会じゃないんだぞ?」
「あ、それなら大丈夫です。今回は解決させましたから」
頭を下げたまま隣を一瞥すると、篠ノ井は全くけろっとした様子で言ってのけた。
「なんだ。珍しく解決できたのか」
「私じゃないですよ? 大浦くんです」
と言いつつ、俺の背中をさすってきた。
あれは別に解決させたわけではない、と思いつつ、ゆっくりと視線を上げた。
俺が姿勢を低くしていたのもあるが、そうでなくとも高身長で威圧感があった……怖いな。
「ん? 見ない顔だが――あ!」
「そうです。大浦です。ここでしばらくお世話になります」
と言うなり急に両肩を掴まれて、
「いや、本当に来てくれてありがとう! オレはここの部長の渕高だ。いやいや、本当に恩に着る!」
有り難がってくれるのは嬉しいが、「あぁ」とか「へぇ」とか言って、どう対応したらよいものかと右往左往していると横から、
「ずっと人手不足だからね」
と、篠ノ井の注釈があって、ようやっと理解した。
「殊に本年度は新入生の入部が少なかったから、君が来てくれて助かったなんてもんじゃない」
聞くと、昨日、篠ノ井から助っ人(俺)を引き受けてくれた人がいると聞き付けるや否や、大わらわで、偶然友人だったボランティア部長と取り次いだらしい。
なるほど。それなら昨日の今日だった理由も納得だ。
部長は篠ノ井に「お前は早く記事を書け!」と言うに加え、
「大浦、お前はちょっと残ってくれ」
と言うから、俺は、それならと慌ててカメラを手渡した。
改めて新聞部の紹介だろうか。
しかし、部長はさっきとは見るからに声のトーンを落とし、顔を近付けてきた。
「一つ聞きたいんだが……」
長くなりそうだったので、分割することにしました。