暴力少女と暴走少女
根岸線の電車の音を遠くに聞きながら、桜川新道を紅葉橋で右折し、「音楽通り」と言う小路に入ると、俺は朝練に励む運動部員たちを尻目に、校門をくぐった。
短い通学距離ながら思い返してみれば、
――近しい人とおぼしきあの男子は、結局何者だったのか。
昨日から、脳内で寄せては返す波のように気になっては、結局思い出せないの繰り返しだ。さざ波なんてものではない。日本海の荒波だ。
どこかで見たことがあるのは間違いないと思うのだが……ダメだ。今回も喉につっかえて、出てこない。
薄らぼんやりと昨日の件を思い浮かべると、上履きのラインは緑だったような気もしてくる。
入学年次ごとに上履きのラインが違うから、緑は3年生ということになる。ちなみに俺らの代は赤、1年生は青である。
あとはどうだろう。眼鏡をかけていたかもしれんが、もしそうでも、瓶底メガネのように特徴がなければ大した手がかりにはならない。
そもそも、篠ノ井がそこまでしなければならない理由だ。よっぽどのストーカー気質が、彼にあったとか……。
もう昨日からの堂々巡りは飽きたし疲れた。
走り込みをする、各運動部独自の掛け声に少々の可笑しみを覚えつつ、せめて昇降口へ一直線――と思ったのだが、
「三崎!」
喧騒の中、それを突き破って耳に届いたのを驚いた。
人間関係があまりに希薄なものだから、名前呼びされることすら珍しい。
体全体で振り向くと、竹箒を地面に突き立て、仁王立ちして構えていたのは、ボランティア部員の一人、星置和泉だった。
風にスカートをなびかせながらいるその様は、格好いいと言うのがしっくり来る。
――いや、そんなことどうでもいい!
人目も憚らず、大急ぎで星置の元へ駆け、その口を塞ごうと言わんばかりの勢いで、
「名前呼びだけは勘弁してくれって、もう何度言った? わざとだよな? 絶対にわざとだよな!?」
そう言って詰め寄ると、
「わざと? はぁ、言いがかりはやめてほしいわね。み・さ・き・くん?」
あー、本当にこいつと言ったら!
「朝っぱらからお前を見るなんて、もう確実に、今日は運が悪い」
「あら、それって、このあたしを見るがために今日一日の運を使い果たしたってこと?」
「バカか」
と言いつつ何の気なしに周囲を見渡し、
「そう言えばお前、今日の当番だったのか」
少し見渡すと、何人かの部員がせっせと、散った桜の花びらをまとめていた。
もう、清掃部と言った方が的確ではないかと、常日頃から思う。
「そーよ。今何時だか知らないけど、もう朝からくたびれるったらありゃしない」
と言う割に、サボったところは見たことがないのもまた事実、という矛盾よ。
――左腕を翻して腕時計を一瞥すると、8時20分。
桜木町駅から大通りを2本越えて、少し入ったところにある、私立横浜花咲高校の始業時間は8時40分。全校生徒千数百人の、朝ラッシュに差し掛かる頃合いだ。
「ったく、昨日の夜の雨で、残った花びらが全部散って、汚ならしいことこの上ない」
そう言えば、昨日の花曇りの後、明け方辺りまで雨降っていたっけ。
土とか、雨水とかと混ざれば、余計にだ。遠目に見さえすれば、「綺麗」の一言で片付けられるんだが。
星置の悪態は留まることを知らず、
「さっき女子軍団が『桜の絨毯、綺麗~!』とか言ってたけど、アタシには理解しがたいわ」
まあ、それを理解する星置の姿を、全く想像できないのは確かだ。
「第一、桜一つであんな黄色い声なんて、演技にも程があるわ。男子の票を囲い込もうとしてるのよ。それを見抜けないのか、知っててなのか知らないけど、馬鹿な男子どもはヒョイヒョイ集まる。イヤな世の中だよ」
短い鼻息で返事して、
「んな、同情票も集まらないからって、羨ましがることないだろ」
そう言った途端、
「イッタ!」
竹箒の柄が、なぎなた宜しく、あり得ないスピードで、俺の左脛を叩き付けた。
「あんたに――あんたにだけは言われたかないわよ! この可憐なレディに向かってそんなこと、どういう神経したら言えんの!?」
その格好で言われても――。
「そもそも、あんたなんか話し相手だっていないに等しいんだから、あたしにくらいは言葉遣い気を付けたら!?」
――全く否定しないし、する気もない。
不可抗力による苦笑を無理やり我慢し、虚しくもしゃがんで脛を擦りながら、
「可憐なんて洒落たことを、よくもまぁ言いやがる」
「あん?」
今にも、「てやんでえ」とか「一昨日来やがれべらぼうめ」とか言いそうで、外見だけだと江戸っ子の風情すら感じられる。
が、生まれも育ちも神奈川は横浜(の端っこ)。何でそんなに人の出生を知っているんだって? そりゃだって……。
「あん? って言うがなぁ、腐れ縁のお前に、今更何が悲しくて気を使う必要があるんだ。お前がそうであるように」
幼稚園から小中学校は地元が同じなら同校であるのも納得だが、高校まで同じになるとは、これ如何に。
高校に入ってからは1年、2年と別クラスだったが、部活は同じだったから、結局しぶといながら腐れ縁は続くようだ。
「分かりましたよ。そこまで言うなら、仕方がないわよねぇ」
と言うと、星置は、
「あんたの根性叩き直してくれるわ!」
今度こそ俺に、トドメを刺すような勢いで、鼻先数センチのところに柄を突き付けてきた。
ニヤリと笑う星置の八重歯で、首を掻っ切られそうな気すらする。
俺はみっともなく手を後ろにつき、
「もういい加減いいから……ご勘弁を」
星置の迫力と言ったら。仮にも、背の順で低い方には入らない俺と比べ、篠ノ井はずっと低いはずなのに、全く逆転してしまったようだ。
「フッ、無様とはこのことね」
ただ乾いた笑いが漏れるばかりであった。
「で、お前から俺なんかに声かけてくるなんて、怪しいにもほどがあるんだが」
立ち上がり、砂利だらけの手のひらをはたきながら聞くと、
「また殺されかけたいの?」
「殺されないだけまだマシ」
まあ、星置とは一種のじゃれ合いみたいなものだから、諦めてはいる。
「つくづく、あんたと話すと面倒ったらありゃしないわ。こんなんなら、部長からの言伝て、引き受けるんじゃなかったわよ」
「言伝て?」
「さっき、部長が登校してきたときなんだけど、ここの清掃してたあたしに『大浦に伝えといて』って」
部長からの言伝て……もしや。思い当たる節はあれしかないが、それにしては早すぎるよな。
「あんた、今日からしばらく新聞部にボランティアで行ってくれだってさ」
まさかの、その、もしやだった。
「放課後、新聞部の部室に直で」
「もう!? だってまだ昨日の今日だぞ……」
どれだけのスピードで話を通したと言う。部としてもそれだけ人員に困窮しているというわけか?
それとも、篠ノ井がそんなに必死になるほどの大問題に巻き込まれているとか(キスを強行している時点で大問題だが)?
驚きつつ、深読みしていると、
「昨日の今日って、昨日何かあったの? 眉間にすんごいしわ寄ってるわよ?」
しくじった。こいつに邪推されるなんて、先がどうなるか、分かったもんじゃない。
「何かって……そうだ、昨日それっぽい話は聞かされてたからってこと。こんな話、前もって少し位は聞いておくもんだろ」
「ふ~ん。しっかし、部活へのボランティアなんて、変な話もあるもんだわ」
俺は腕組みをしつつ、
「変か? 大変なところにボランティアしに行くなら、ここの部員の一人として本望だ」
……何だ、その薄目は。そんな目で見るんじゃない。
「あんた、そんなにこの部活に献身的だったかしらね」
全く、面白がって聞きやがる。
「常識的なレベルでは、な。お前と一緒にするな」
「それ、どういうことよ。助っ人ってならあたしのほうが余程、適任でしょ。こんな細やかな人間、そうはいないんだから」
四角い部屋を丸く掃く以前の人間に、言われたくはない――いやいや、そういう問題でもなかった。
星置は、あながち冗談ともつかぬ顔で言ってのけたが、少なくとも、箒を公然と、あり得ない使い方する奴が、「細やか」なんて見られないだろ。
お前がそれを持ったら、もはや凶器に等しい。
「まあでもいいわ。あたしもやられっぱなしじゃないから」
ん? 星置の言いぐさに違和感を覚え、訝しがりながら、
「……どういうことだよ」
本当は聞きたくもないが、恐る恐る聞くと、
「あたしさぁ、あんたの抜けた分の担当、任されちゃったんだよねぇ。部長に頭下げられちゃ断れないし」
平気で先輩に頭下げさせるお前が恐ろしいわ……って、待てよ。本当に嫌な予感しかしない。腐れ縁をなめるな。お前に対しての危険察知くらい容易い。
こういうときは逃げるに越したことはない。
情けない? 結構。大いに結構。
「部長に頼まれたんじゃ仕方ないな。じゃあ、精々部活に励めよ」
くるりと星置に背を向け、それとなく昇降口へ足を進めかけたその時、
「待ちな」
両肩が跳ね上がった。
……こうなることは想定済みだったが、俺だって少し位は抵抗を見せたかった。
俺は、体はそのままに、首から上だけ後ろを向かせると、星置は不適な笑みを浮かべながら、
「あんた、あたしに代打させるんだから、何かしらの見返りがないとねぇ」
「……お望みは?」
取りあえず聞く耳だけは持ってやる。
「まあ、あたしの下僕になるくらいでいいわ。必要なときに必要なだけ。悪い話じゃないでしょう」
「ふざけるな! お前には良心と言うか、それこそボランティアの精神はないのか……」
「あー片腹痛いわ。このあたしの下僕になりたい! なんて男子、ごまんといるんだから、逆に羨まれると思うけど」
そりゃ確かに、俺の理解の範疇を超える、そういう男子もいることは否定しないが……。
ただ、ここまで腐れ縁としての過去を鑑みるに、星置のこれくらいの要求ならまだ飲めるとも思えてしまう自分も、いることはいる。
思い返すほど、どれだけ酷い扱いされてきたんだ、俺――。
「……分かったよ」
「規定事項だから」
格好よく微笑む星置と裏腹に、俺は苦い顔を浮かべながら、流し目で腕時計を見ると、
――8時35分。
無情にも流れる時間に急かされ、鳴り響いた予鈴と同時に、足早に今度こそ昇降口へ向かった。
――そんな放課後の幕開けは、あまりに突然であった。
「大浦くん! 大浦三崎くん!」
もしかしたら、朝、星置に呼ばれたときより竦んだかもしれない。
竦み上がった体の内、首だけ無理やり声の主の方へやると、
「げ……」
教室の入り口で、「は・や・く」と声に出さず、口だけ動かしながら手招きをしていたのは、何を隠そう、篠ノ井であった。
それはどうでもいい。いや、どうでもいいと言っては失礼だが、とにかくこうしてはおれないと、慌ててブレザーを羽織り、教科書類を無造作に詰め込んだ挙げ句、スクールバッグを落とすかのような勢いで手に持って行った。
「大浦くん! 早くこれ腕に巻いて」
「……っ?」
手渡されたのは、「咲高新聞部」と書かれた腕章。単に部室に行くだけなのに、篠ノ井の落ち着きのなさと言い、腕章と言い、不要ではないか?
「放課後、新聞部の部室に直行しろって、朝には聞いていたんだが、これは一体……」
「予定変更ってことで、早くそれつけて!」
「いいから!」と急かされるものだから、致し方なく巻きつつ、
「予定変更って、新聞部の部長始め、幹部に挨拶? しに行く前に、どこ行く必要があるんだ?」
「うちの部長ならそういうところは全く適当。大浦くんが気にする必要はないよ。だから」
早く行こう!
と、腕を掴まれ、引っ張られ、まだ生徒がたむろしている放課後の廊下を、右に左に走らされた。
うぅ、さっきから周囲の目が痛い。
「こんなに急ぐ必要、どこにあるんだ!?」
現実的に声を大にしなければ、篠ノ井に届かない気がした。
「早くしないと、現場が変わっちゃうから!」
「現場って……刑事とか鑑識課じゃあるまいし」
「何を言っているの? 記者たるもの、取材は迅速に!」
この学校にどれだけのスクープがあるって言うんだよ! 殺人か? 要人の密会か? それとも誰かの告白現場とでも言うか?
新聞部が取材するなら筋は通るが、こんなに急ぐような事件の取材なんて、縁もゆかりもないだろ。
「な、なあ、これどこに向かっているんだ?」
「図書室っ!」
「なんでまた」
もはや聞く耳を持たなくなった篠ノ井は、結局次に止まるまで、要するに図書室まで腕も離さず、一心不乱に走り抜けた。つまり、俺も強制的にだが。
曲がり角がグングン近付いてきてはあっという間に通りすぎ、窓の外の風景はビュンビュン目まぐるしく流れていく。
――何だかいろいろ、想定と違うぞ。