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キスから始まる偽装カップル

「大浦くん。ちょっと私に身を預けてくれないかしら。いい?」


「……ええっ?」






 4月。


 桜が残る校庭をそれとなく眺めながら、斜陽に照らされた学校の廊下を歩いていたときのことだ。


 対向ですれ違っただけの女子。名前は確か――


 篠ノ井(しののい)佐用(さよ)


 そうだ。篠ノ井に耳許で唐突に、そう囁かれた。


 よく名前を思い出せたものだと、我ながら感心……している場合ではない。


 篠ノ井の言わんとすることがまるで掴めず、返事ともつかぬ吐息しか出なかったところ、ネクタイを無造作に掴まれたかと思えば、


 ――いきなり相手の唇が、俺の唇に軽く重ねられた。


 これって要するに……ああ、何と言ったか。現状を理解できない、いや、したくないのかも。


 とにかく、背筋が凍りついて、せめてもと、白目を痛いほどひんむくことくらいしかできなかった。あとは……せいぜい息を止めるとか。


 目の前には当然ながら篠ノ井の顔。何より冷たささえ覚える透き通った瞳。それは目の焦点が合わないほどの距離。


 直視できるはずもなく、視線を泳がせていると、何と言うことか、篠ノ井の後方に俺とそっくりな表情を浮かべた男子が突っ立っていた。


 判断を仰ぐべく? 篠ノ井の目をチラ見すると、同じく男子の方にそれは向いている。


 篠ノ井、もしかして、分かっていて見せつけている? いや、何のためにそんなことを。


 男子はと言うと、すらりとしたその姿、どこかで見たことあるような気がしたが、うろ覚えで記憶をたどれなかった。


 そんなことより、


「いっ……」


 声を出そうにも口ごもってしまい、物理的に不可能だし、それこそいかがわしくなってしまう……。


 ――いや、これは違う! どうか誤解はしないで!


 顔を歪め、後退りする男子に、虚しく左手を上げ、「待って!」と必死にすがったのだが、それも虚しく叶わなかった。






「まずは、先ほどの不埒な振る舞いを、深くお詫び申し上げます」


 そう言うなり、篠ノ井はうやうやしいにもほどがある、見たこともないような、見事な礼を披露するときた。


 全く、さっきの覇気はどこへやら。こうやって見ると、ただただ、しとやかだから、恐ろしい。


 全体力を吸いとられたかのように、壁に寄りかかって、何もない天井を眺めていたのだが、そうとくればこちらとしても礼を受ける態度を作った。


 本当はへたりこむ勢いだったが、篠ノ井のいる手前、なんとかそこは体裁を取り繕った。今更、その程度だがね。


 ――断っておくが、俺と篠ノ井は、そういう関係ではない。1年次にクラスメートだっただけで、せいぜい名前を知っている程度。それも、今年度、2年生では別クラスである。


「謝罪とかそういうのはどうでもよくてだな……いや、よくはないかもだが、とにかく、さっきのは一体何だったんだ?」


 ――俺、何か変なことでも聞いただろうか。


 篠ノ井が、綺麗な瞳をきょとんとさせたままなのだ。その目で見るのはやめてくれ。


 俺は無意識のうちに下顎をさすりながら、


「……つまりだ。少なくとも、篠ノ井と俺との間にそういうことをする因果関係はなかったと思うんだが」


「そういうことって?」


 カタカナ2文字、「キ」で始まって「ス」で終わる。漢字2文字なら「接」で始まって「吻」で終わる。


「キ……」


 篠ノ井の目線を避けつつ、場を取り繕うようにボソボソと言うと、


「大浦くん」


「ん」


「ちょっとヘン」


 ……え? 俺、貶められてるの? 


 しかし、もしかしたら俺もヘンか。なんて一瞬考えてしまったのも確かですがね。


 ここまでくると、手の込んだドッキリか? いや、むしろそっちの方がありがたいかも、などとみっともなく狼狽えていると、


「違うの、ごめんなさい。ヘンなのは私の方」


「そうだな」


 と思わず返事してしまったから、これまた慌ててそっぽを向く。あくまで否定はしない。


「でも、私が言えることじゃないんだけど、その、怒らないんだね」


「怒る? なんで」


 この世は、予想外の出来事に怒る人と、そうでない人に大別される。


 確かに「馬鹿野郎!」とか「○ね」とかね、言っても仕方のない場面ではあったかもしれないが。ここまでされたのでは、いくら相手が女子でも、たぶん周囲の理解は得られると思う。


 しかし、だ。


「そういうの向いてないから」


 笑われた。「怒るに向き不向きがあるものなの?」だって。


 ある。大ありだ。そういう人は往々にして、怒る代替手段が狼狽だ。


 代替になってない? かもな。怒りに、完全に取って代わる術なんて、持ってないんだもの。


 第一、原因がどうであれ、怒って喧嘩するほど、厄介なものもないだろうし。


 ただ、だからこそ。


「って俺が怒るかどうかなんて関係なくて、こっちが聞きたいのは……」


「アレは、単に気の迷いだからっ!」


 ほら。こうなるのも必至だ。


 もし怒ったら、納得できる理由でも引き出せただろうか。……ないな。


 そうだとしても、これで納得する奴はさすがにいないだろ。


 さっきの大胆なアレをお見舞いしてきた人とは思えないはぐらかし方である。


 しかし、クラスメートというのがこれまたくせ者だ。まあ、こうやってやんわり事が静まってくれればそれでいい。


 俺の知る限り、他に一件を見ていたのは篠ノ井の後ろにいた男子だけ。あれは――どうしようもない。と、開き直る他ない。


 それと、


「酔っていて、その、キ……」


 あーもう。自分で言っていて面倒くさい。


「……キス魔になるとかならまだしも、それじゃあ俺だって承服しかねるぞ」


「じゃあ私、キス魔なの」


 俺が開き直ったなら、篠ノ井も開き直ると来たか。


 もはやとんでもないことを公言しているが、キスされた後では驚きも薄い。


「まず、『じゃあ』なんて前置きがおかしいし、未成年飲酒したなら違法です」


 だから、そうじゃなくて、


「なあ、言えない理由で巻き込まれたんなら、篠ノ井、さすがに酷すぎるぞ」


「む……」


 とうとう黙りこくってしまったが、次の瞬間、目線を俺に合わせるや否や、


「大浦くんって何部?」


「何部って、ボランティア部だけど」


 聞くこと、それ? 常識的に考えて飛躍しすぎだ。


 とは言え、逡巡してから聞いてくるってことは必要な情報なのだろう。たぶん。そう言い聞かせる。


「活動日は?」


「不定日。当番の日、主に朝の掃き掃除。放課後はほとんどない」


 できるだけ詳しく教えてやると、「よし」と小さく呟き、


「それなら」


「それなら?」


 固唾を飲んで耳をそばたてた。


「それなら、大浦君。新聞部に入って」


「えーと、どーゆーこと?」


「それからなんだけど」


「ちょっと待って」


 話を聞け!


 両手で篠ノ井を制止させたが、頭が混乱して笑えてしまう。別にふざけているわけではない。


「それこそ何の因果関係で新聞部なんだ? 話の筋が見えないんだが」


「端的に言うと私が新聞部員だからかな」


「左様で」


 「だから何なんだ」と聞きたいが、ここで足踏みしても意味がなさそうだ。


「で、それから?」


「それから、私の彼氏役になって」


「……え」


 肺に残っていた空気が漏れたような返事だった。俺から聞いてしまったのが愚かだったとすら思う。


「いや、あのね、新聞部でペアで活動してくれればそれでいいの。取材とか諸々ペアでするから。それだけで充分。クラスも違うわけだし」


「そうか、そうだな……っておい、納得できるわけないだろ」


 俺は一瞬も、何も考えていない。絶対。


「強引とか言うレベルじゃないぞ。自分で何言ってるかちゃんと理解してるか?」


「私は正常だよ。それとも、もしかして彼女さん、いる?」


「そこは気にする相手がいないから大丈夫なんだが」


 脇腹を突き刺された気分だ。


「じゃあ」


「いいや待て。そもそも新聞部云々の時点でおかしいのに、彼氏ってなんだ。全てがバラバラだぞ。まずは順を追ってだな……」


 と言ってから気が付いた。もはや前半はどうでもよいことに。後半のインパクトが強すぎて。


「あー、どうして俺が彼氏を偽装しなけりゃならないんだ。もうそこだけでいいから」


「諦めてもらうため」


 間髪入れずに答えた篠ノ井に、内心驚きつつ、


「誰に」


「近しい人」


「なら、さっきのもそのためか」


 ――否定しないということはおそらくそうなのだろう。


「あのな、そういうので悩めるうちは幸せ者だと思うぞ」


 さすがに、やや皮肉を込めて言うと、


「これっぽっちも幸せじゃない」


 今までにない、その断定する、いや突き落とすかのような口調に、二の句が継げなかった。


「その……ストーカーとか」


 言ってから遅いが、ますます墓穴を掘ったかもしれぬ。その上、もしそうだとしたら、とんでもない地雷を踏んだことになる。


 しかし、


「なんてね」


「おい!」


 心配して損した。


 我に帰れば、どうしてさっきから俺が心配しなければならないんだ。状況からいけば、逆なんじゃないか。


 というのは、俺のカスみたいなプライドが邪魔して言わないが。


「さっきのことは本当にごめんなさい。許されるようなことじゃないし。大浦君のこと、ついからかいすぎた」


 酷い「ドッキリ」を食らったような感覚だぞ。いや、本当に。


 と思ったのも束の間、


「でも、私が新聞部員なのは本当。いつも人手不足だから、来てくれたらありがたいのは確かだよ。ちょっとした内申点アップにもなるかも、とかね」


 花曇りの窓の外を見ながら言う篠ノ井の口調こそ、通常運転だが、目は生気を失っていた。


 それは、あの冷たい瞳と全く同じだった。


 なぜか言葉が出てこなかった。下手に口出しできない雰囲気がそこにはあった。


 ――「近しい人」ね。


 その人にキスを見せびらかせたというなら、「近しい人」に合致するのは一人しかいない。


「……なあ、篠ノ井」


 ああ、察しがついてしまったばかりに、ばつが悪いことこの上ない。本当なら義理もへったくれもありはしないのに。


 内心、自身に辟易しながら、


「内申点目当てでもいいってなら考える」


 篠ノ井は、風になびいたショートヘアーを押さえながらこちらを一直線に見、


「えっ!?」


「俺、別にお人好しじゃないからな。ただ、こんなのだって、人手不足とあれば、精々猫の手よりはマシだと思うぞ」


 そっちから言ってきたくせに、なぜか疑われている気がする。


 別に嘘をついているわけではないから、疑われては困る。


「ほら、大学推薦入試受けるんなら、高いに越したことはないだろ。成績の方の向上はすでに諦めてるし」


 ただし、


「ボランティアと兼部で。退部して点数に響いたら本末転倒だ」


 「新聞部にボランティアしに行くとか言えば筋も通るだろうし」とか言い訳がましく言ってみる。


「いいの?」


「それを篠ノ井が言うか」


 第一、あんなの『近しい人』に見せびらかしておいて、俺と篠ノ井が少しも一緒にいないんじゃ、逆に不自然だと思うんだが。


 風が廊下を吹き抜けるくらいの沈黙の後、


「大浦くん……やっぱりお人好しって言われるでしょ」


「時々な」

 新聞部員よ、2人の関係性こそスクープでは?

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