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調理部部長のリボン  作者: 大和麻也
Episode 1 -- 調理部部長のリボン
3/58

1-2

 さて、困った。

 全然わからない。

 問題は解けないし、何なら前回とまったく同じ出題が何番の問題なのかもわからない。

 サインとかコサインとかタンジェントとか、いったい勉強して何の得があるのだろうか。世の中で活用されている便利なものだとはわかっている。だから役に立たないとは言わない。でも、わたしが勉強しなければならない理由は本当にあるの? わたしにも実感できるメリットは何? グラフを描きなさいって、三角比は図形の話じゃないの?

 教室の半分くらいはすでに回答を終え、荷物をまとめて帰ってしまった。まだ五〇分は経過していない。わたしも、一応書けるところは書いて、七〇点に最低限必要なくらいは回答を記入した。書いた問題を全問正解していれば、の話だが。

 このまま状況が好転しないと、再び不合格、三度目の試験になってしまう。もしそれが避けられないにしても、考えて書いたらしい妥当な回答で空欄を埋めていかなければ。そうしないと、いい加減駒場先生からこっぴどく叱られる日も近い。テスト勉強やその復習のみならず、日頃から勉強していないことはすでにバレバレなのだから。

 こうなったら、趣味で鍛えられた創造的スキルを呼び起こすしかないか――?


 ……いい匂い。


 参ったな、きょうもまた始まったか。

 小テストなども含めて、一学期から何度も出席してきた補習。補習でも不合格になって、繰り返し出席せざるを得なかったことも。その理由は、わたしの勉強不足と、わたしと相性の悪い出題意図だけではない。もうひとつ、わたしの集中力を削ぎ、補習のスパイラルから抜け出すのを困難にしている原因がある。

 数学教室のすぐ向かい、調理室から漂う美味しい香りだ。

 駒場先生が開く補習は、顧問をしている部活動との兼ね合いから、火曜日に実施されることが多い。一方、調理室を利用している調理部の活動日も火曜日である。よって、わたしは高確率で調理室から補習の妨害を受けてしまう。

 お腹にきゅっと力を入れて、不意にお腹が鳴ってしまわないよう備える。よりにもよって、きょうこの香りに襲われることになるなんて。腹の筋肉に意識を向けたなら、その分頭の中は疎かになる。ここで耐えなければ、問題は解けない!


 甘い匂い、焼き菓子かな……?


 いけない、問題に集中しないと。


 周りの生徒はいったいどうして集中し続けられるのだろうか。香りが漂いはじめてからも、次々と生徒が教室を去っていく。彼ら彼女らが扉を開け閉めするたび、香りはどんどん数学教室に侵入してくる。問題文を読んでいても、その意味を理解することさえ気の遠い作業になっていく。

 サイン、コサイン、タンジェント……。

 本来の難易度より二倍も三倍も困難な試験を乗り越えたときには、わたしは教室に残った最後の生徒になってしまっていた。

「お疲れさん、たっぷり一時間半もかかったな」

「お腹が空きました……」

 駒場先生は「気持ちはわかる」と呆れた顔で笑った。



 部活を見に行かないと、と慌てて去っていった先生と別れ、わたしは調理室に忍び寄る。ドアのガラス窓からちょっとだけ覗きこんで、わたしをさんざん邪魔してくれた部員の顔を拝んでおきたいと思ったのだ。ついでに、何を作っていたのかが気になる。

 廊下に出ると、数学教室にいたときとは比にならないほど、砂糖とバニラオイルの匂いが強く感じられる。目の前に焼き菓子が浮かんでくるようだ。手を伸ばせば掴めるのではないか。

 柱に身体を隠し、ドアに対して斜めに構えて中を窺う。部屋の外でもこれだけ甘く香っているのに、話し声は聞こえない。調理部といえばわいわいと賑やかな部活のイメージがあるけれど、今年の部員は私語を交わさないくらい不仲なのだろうか。それとも、部員数が多くないのか。

「あ、いた」

 どうやら後者の予想が正しかったらしい。部屋の中の生徒は、たったひとりしか見当たらない。ケーキはもう焼く段階だから、実食に向けてやかんで湯を沸かしているところらしい。そのやかんは見えているのだが、わたしの位置からは背中しか見えず、顔はわからない。

 でも、服装くらいはわかる。背中でエプロンの紐が縛ってある、薄い桃色だ。身長は高そうだが、すらりとした体格がそう見せているのであって、大きいほうではなさそうだ。肩幅はそれほど広くなく、腕は細い。髪は耳も隠れないくらいのショートカット。

 白色のワイシャツに、チェックのグレーのスラックス。作業するために上着を脱いでいるようだ。紺色を着用していないから、二年生以上かもしれない。選択制の導入に伴って設定された紺色の制服は、まだ一年生の二、三割しか着ていないのだ。

 そのグレーに目が向いたとき、おや、と思う。

「珍しい、男子生徒だ」

 どんな顔だろうか、と爪先立ちしてみたり、首を伸ばしてみたり。彼はやかんの火を見つめているから、こちらでどう工夫しても顔を見ることは叶わないのだけれど。

 そのとき、がらりと扉が開かれる。


「どうしたの? 気になるなら入れば?」


 顎鬚を蓄えた面長の男の人――顧問の先生に見つかった。





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