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この世界を愛するべきだと人は言う。
この世界など唾棄すべきものだと彼は笑う。
この世界なんて壊れてしまえば良いと私は思う。
だって、そうでしょう。
誰かが必ず悲しむ世界。
誰かが必ず泣いている世界。
そんな非情で不浄で不条理な世界の、どこを愛せというの。
全ての事実を知った上でそう言える人間は、よほど頭が幸福な人間に違いない。
家に帰って、ご飯を食べてお風呂に入って歯を磨いて。
まるで泥にとられた足のようにソファに深く沈み込む。
日常生活でさえも億劫だと感じるのはきっと今日が金曜日だからだと言い聞かせながら。
アロマディフューザーの淡い光と立ち上る水煙をぼんやり見つめて、摩耗した心を癒そうと躍起になる。
だって、自分で癒さないと戻れなくなる。
誰も治してくれることなどないのだから、自分で傷に蓋をするしかない。
閉じこもって、蹲って。
なぜあんなに腹が立ったのか。
なぜあれほど彼に嫌悪感を感じたのか。
なぜ、なぜ、なぜ。
――夏宮さんに会いたいと思ったのか。
全てに蓋をして、漏れてこないように入念に心の奥底に閉じ込めた。
なのに。
「なんかあった?」
出会い頭開口一番にそう言って眉を顰めた彼はいったい何者なんだろうか。
「なにも。」
「・・・へぇ。」
ポーカーフェイスは得意な方だ。
取り繕うのも。
それでも彼は納得したのかしてないのかわからない感嘆符と共に部屋に入ってきた。
すでに定位置になった席に長い足を組んで座って、頬杖を付きながら食べ始めるわけでもなく私を見つめる。
「夏宮さん。」
「なに?」
「・・・冷めますよ。」
「そうだね。」
「・・・食欲ないんですか?」
「否、大いにあるよ。すごい腹減ってる。」
「食べればいいじゃないですか。」
切れ長なその瞳を負けじと見つめ返せば流されるように美麗な笑顔を返される。
「うわぁ・・・うさんくさい。」
思わず口から出た本音にピキリと彼の表情が凍る。
そして溜息。
「あのね、俺から言わせれば今日の桃原さんの方が胡散臭いよ。」
なにその張り付けた笑顔とテンション。
笑顔から一転、不機嫌を隠そうともしない彼は眉を顰めたまま長い指で私の眉間を突いた。
「ここ、力入ってる。」
「・・・・。」
「なにかあったんだろうけど、泣くのを我慢して持て成せなんて俺言ってないでしょ。」
その言葉にポロポロと涙が溢れた。
ノンモーションで頬を流れた水滴に彼以上に私が驚く。
「えー・・・」
泣きながら自分に引くというすごい経験をしてしまった。
「ちょ・・・っとまって、ください、ね。」
ぐいぐいと手で涙を拭う。
朝食を食べに来たのにいきなり泣かれるなんて彼もとんだ災難だろう。
止まれ、とまれ。
人間の体というものは不思議なもので、止まれと思うほどに駄々漏れになっていく。
顔を歪めているわけでもないのに次々に流れていく水滴に辟易していれば長い指が再度こちらへ向かってくる。
「仕事、つらいの?」
なるべく柔らかくなるよう努力している声音と一緒によしよしと頭を撫でられた。
ゆるく首を横に振る。
仕事がつらいなんて思ったことは無い。
だって自分で選んだ職業だ。
責任も誇りも全部背負ったうえで働いている。
「だれかにいじめられた?」
困ったように聞く彼は心底狼狽しているようで。
その珍しい表情に不思議な感情を抱きながらも再び首を横に振る。
「えー…じゃあどうした?」
降参だというように片手をあげて撫でる手の力を強くしてくる夏宮さんの空気はとてつもなく心地よかった。
「少し・・・嫌なことがあって」
「うん。」
「大丈夫って思ってたんですけど」
「うん。」
「ちょっとしんどかったみたいでっ」
「・・・うん。」
声がひび割れる。
ああ、恰好悪いなぁ。
「でもっ」
「うん。」
「もう・・だいじょうぶ。」
ちゃんと笑えているだろうか。
ちゃんと彼に伝わっているだろうか。
助かった。
救われたんだ。
昨日あんなに張り付けても気付かれなかった愛想笑いを
昨日あれほど頑張って保った自分らしくないテンションを
昨日あれだけ必死に蓋をして躍起に押し込めた感情を
たった一瞬顔を合わせただけでわかってくれた彼に、救われたんだ。
「ありがとう、ございます。」
落ち着いてきた涙を拭って頭を下げれば、彼は怒っているのか笑っているのかわからない表情を浮かべていた。
「うん。・・・桃原さん。」
「はい。なんですか?」
「お腹すいたな。」
湿っぽい空気を追い払うように微笑んだ夏宮さんが、神山と暁川さんぐらい大事な存在になった。