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異聞・大東亜戦争  作者: 扶桑かつみ
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■フェイズ二四「停戦」

●ヒトラー病死


 一九四五年夏、ドイツ第三帝国は死に瀕していた。だが、第三帝国そのものよりも、帝国を作り上げた人物の方が先に死に至ってしまう。

 かねてより病気(重度のパーキンソン病)が懸念されていたドイツ総統アドルフ・ヒトラーが病死した、という事だ。



 ヒトラーの死亡日時は、一九四五年七月二十三日。ベルリンに設けられた地下大本営に隣接した自室での寂しい死に際だった、とされている。

 しかも国家元首の死に際して、第三帝国おきまりの派手やかな宣伝工作(大規模な葬儀)をしようにも、連日連夜連合国軍の爆撃があるためそれも適わなかった。

 それどころか、その日ベルリンから発せられた命令は、一部の軍事通信を伝っただけに終わった。

 だがこれが、断末魔に喘ぐドイツ第三帝国に、最後の混乱を引き込む。

 ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、新たなドイツ総統として海軍のカール・デーニッツ元帥を指名することを最後の仕事としての静かな最後だったと言われる。

 だが、一人の独裁者によって作り上げられた砂上の楼閣のような帝国中枢には、独裁国家特有の権力の走狗は多く、当然権力への執着心の強い者の数は枚挙にいとまなかった。


 このため、遺言とも言えるヒトラーからの最後の命令を是としない人々がにわかに蠢動しだす。

 ドイツ内乱の始まりだった。


 だが、内乱は思いの外簡単に決着する。

 新たな総統に指名されたデーニッツが、親衛隊の支配者とされるハインリヒ・ヒムラー長官をとの取引に応じた事で、親衛隊がデーニッツ支持に回ったからだ。

 また、戦争を何とか止めなければと考える圧倒的多数の一般良識人たちが、数多の権力の走狗たちよりもデーニッツを選んだことも大きなファクターだった。


 この結果、権力奪取もしくは手前勝手な委譲を望んだ過半の者が、逮捕されるか、国外逃亡するか、無意味な抵抗を行って自滅していった。

 この中には、マルティン・ボルマン、ヘルマン・ゲーリング元帥などの最有力者も多数含まれていた。

 しかも、ヒトラーに殉じた最高幹部は、遺言を聞いた唯一の幹部ゲッベルス博士ただ一人と言ってよい状況だった。


 ハインリヒ・ヒムラーが望んだとおり、親衛隊は大筋において存続したが、その時の取引で武装組織(武装SS)は国防軍や各民族地域の軍隊に吸収された。

 そして連合国から非難されることが分かり切っている組織の切り捨てと、スケープゴートにすべき人物に対する内部粛正が開始された。


 さらにヒトラーなきドイツは、これまでの事をすべてヒトラーとヒトラー死後に蠢動した権力者に責任をなすりつけて、急速な勢いで連合国側との講和を計ろうと動き出した。


 また、既に連合国内で非難が高まっていた、ユダヤ人、ロマ、ポーランド人などに対する差別や強制収容などを、明確な犯罪者以外の多くを白紙撤回した。あまつさえユダヤ人に対しては、財産の返還や名誉の復権すら行っている。

 ポーランド人も、解放するやいなやロシアとの戦いに投入するなどしている。


 つまりは、ドイツ全体がトカゲの尻尾切りによる生き残りを図ろうとしたと説明できるだろう。

 デーニッツがなぜヒムラーとの取引に応じたのか謎だとする研究者もいるが、効率よくドイツを非ナチス化する最も効率的な手段が親衛隊ヒムラーの一時的取り込みだったと解釈すべきだろう。「毒を以て毒を制す」というわけだ。


 またドイツがこれほど素早く動いた背景には、5月頃からヒトラーの容態が極度に悪化したため、行動の為の準備期間があった為だった。



 なお、一九四五年に入ってからのドイツは、夏を迎えてもいまだ国家として機能しているのが不思議と言える状態だった。


 確かに、クルスクの勝利もバルジ作戦の成功も、連合国軍の進撃をそれぞれ三ヶ月ずつ押し止めたと言われている。

 新型夜間戦闘機やジェット戦闘機の大量実戦配備は、連合国軍爆撃機の損害をそれまでの五割り増しに増大させたとする統計資料も存在する。だが、すでにドイツは、ズタズタと表現して間違いなかった。


 一九四五年春頃まで、主に連合国側の都合により安定していた戦線は、東西双方からの連合国軍による大攻勢に対して、戦線を維持しつつ進撃を遅らせるのが精一杯だった。

 特に、総合的な地上兵力差が五対一以上に開いていた東部戦線での戦闘は、絶望せずに戦うには、もはや今はなき独裁者の言う不屈の精神力を以てしか不可能なのではという有様だった。


 だが、東部戦線での戦いで敗北することは、欧州世界の滅亡と一人一人の欧州人(注:ドイツ人ではない)が考えていた事から、各所で激しい抵抗が行われていた。

 文字通りの死戦が行われ最前線と化したケーニヒスベルグでの戦いが有名だろう。

 武装親衛隊に多数のヨーロッパ人が志願したのも、ひとえにロシア人を自分たちの祖国に入れない為だ。


 この心理的ファクターを主因として、四五年六月に赤軍はようやくソ連領全土回復をほぼ達成した。

 ヒトラーが死去した頃、ようやく東ヨーロッパ各地の「開放」を始める準備に入ったぐらいだった。しかも、七月半ばに発生したドイツ側最後の攻勢と言われるルーマニア油田近辺での攻防戦では、ドイツ側の新鋭戦車群(親衛第六軍)によって手痛い戦術的敗退を喫することすらあった。

 おかげで、バルカン半島に入るのがさらに遅れていた。


 一方西部戦線では、英米を中心に四個軍集団が大攻勢に転じていた。

 五月末の両軍主力の激突で一時的な停滞に成功するも、圧倒的という以上の差となった空軍力の前にドイツ軍がもみ潰されていた。

 都合二〇〇機以上が常時前線で活動していたと言われる《Me262》ジェット戦闘機が、キルレシオ一対三〇という異常な活躍を示したところで、防戦する側からすると焼け石に水なのではという有様と言われた。


 そしてついに、七月末にはライン川の突破を許しており、ヒトラーが死去した頃にはルール工業地帯の包囲戦が始まるのがいつかと話題に上るほどだった。

 もっともドイツが断末魔に喘いでいたその行動、そのあえぎが、連合国の多くの者を畏怖させ、さらに大きく焦らせていた。


 なりふり構わない全面的な攻勢に転じている連合国軍の損害も、また甚大だったのだ。

 弾道弾、ジェット機、新型戦車、新型潜水艦。ドイツの生み出す兵器すべてが連合国側の脅威であり、恐怖の象徴だった。

 そして最も焦っていたのが、ソ連の独裁者スターリンだった。


 米英が、西側からドイツ本土にチェック(王手)をかけており、両者のこれまでの侵攻速度を考えると彼らと握手するに適当な地点は、ベルリンより東側にあるオーデル川が妥当と見られていた。


 これは当然東欧地域への英米進駐も物語っており、チェコ、オーストリアが彼らの手に落ちるのはほぼ確実と見られた。

 そしてそれらの地域は、東欧でも先進地域と言ってよく、ドイツ同様何があろうともソ連自らが抱え込まなければならない地域と考えられていた。


 しかも戦争終末段階にきての、ヒトラー死亡とドイツの政変である。

 このままでは戦争の果実を得る前に戦争が終わるのではという恐怖が、ソ連の独裁者を一層焦らせていた。

 何しろソ連赤軍は、いまだそのほとんどがソ連国境の辺りでもたついて、祖国解放という目的達成を前に士気まで低下しつつあった。



 なおスターリンの焦りは、四五年六月四日〜十二日に地中海のほぼ中間に浮かぶマルタ島で行われた連合国首脳(トルーマン、チャーチル、スターリン)の話し合いが強く影響していたと言われる。


 本来この会議は、四五年四月に予定されていた。

 だが、ルーズベルト大統領の健康状態の悪化とその後の病死によって延期されてしまう。

 そして、アメリカがトルーマン大統領による体制が固まるのを待っての会談だった。


 だが、親ソ姿勢、親中姿勢の極めて強いルーズベルトではなく、反共姿勢が強く支那アジアに対しても経済面以外強い感情を持っていないトルーマンが大統領となった事は、その後の世界情勢に大きな影響を与えた。

 アメリカでの政権交代が、スターリンのさらなる焦りを引き起こしたのだ。


 この会議において連合国(米、ソ、英首脳(仏、支那は呼ばれていない))は、枢軸国の最終的打倒と戦後世界秩序(国際連合の設立)について話し合ったとされている。

 だが、当事者達にとっての当面の課題は、いかにして戦争の取り分を分かち合うかだった。

 だから実際の交渉の大部分は、近日中に解放されるであろう東欧と極東地域をどう処理するかに重きが置かれていた。


 そしてこの席上で、スターリンはアメリカの反共産主義的な姿勢を強く感じとる。

 会議の中でスターリンは、太平洋で苦戦するアメリカの足下を見るような提案をした事が始まりだった。


 スターリンは、一九四五年中に取りあえず日本に対して宣戦布告し、大量の地上兵力を必要としない南樺太、千島列島の侵攻するが、大軍が必要な満州、朝鮮においては牽制的な攻撃に留める形、つまり段階的参戦を提案した。


 そして、このための大量の戦略物資と揚陸機材の供与を米英に求めた事が、反目の直接的な原因だったと言われている。

 そしてソ連側のこの時の発言の背景には、ソ連地上軍のほぼ全力が最低でも晩秋まで欧州で必要で、それから部隊を移動させていては気象的な問題もあり、年内に全面的な極東戦線を開けないと言う物理的な理由があった。


 そしてスターリンの提案に対してトルーマンは、戦略物資の供与についてはある程度受け入れるも、揚陸機材については自らですら不足している状態だとしてにべもなく却下した。

 これは別にソ連嫌いからではなく、度重なる損害と自らの大作戦のため、自らの必要数すら足りないからだ。

 しかし、姿勢はやはり反共的だった。中途半端な対日開戦を行うよりも、ドイツ打倒後の一九四六年春からの極東全面侵攻を逆に提案してきたからだ。


 結局、ソスターリンのごり押しにより、ソ連側の努力によって本年初秋の限定的対日開戦に努力するという方向が固められたが、スターリンの野望は大きく計画縮小を余儀なくされた。



 また反対に、アメリカ側から欧州での双方の進撃停止ラインは、ソ連が最悪の事態と考えていたオーデル川ではなく、現在の進撃速度を維持すると考えるとポーランド中間のヴィッスラ川から東欧を横切るドナウ川近辺に存在する国家の国境線が妥当ではないかという逆提案もされる。

 この事は、先にも書いたように、到底スターリンには受け入れられなかった。


 その後の折衝により、ベルリンは米ソの共同攻撃、東欧諸地域は解放後に自由選挙を通じて人民の意志に応える諸政府の可及的速やかな建設をする事で、米英がソ連に大きく譲歩した形になる。

 だが、ドイツの過半とオーストリア、チェコ、ハンガリーの解放とその後の一時的な占領統治は米英に譲らざるを得ず、スターリンの米英に対する負の感情は極めて強いものになったと言われている。


 そのためだろう、会議後スターリンは赤軍に二つの極秘命令を出した。

 一つが、ソ連の海上機動戦力のすべてと空挺師団の一部、そして一個軍団をオホーツク地区に移動し、三ヶ月以内に南樺太と千島列島に対する戦端を開けというもの。

 もう一つが、いかなる犠牲を払おうとも、ドイツ、東欧に対する進撃速度をさらに上げよという命令だった。


 そしてソ連に対する米英の反応は、戦後の行動によってこれ以上ないぐらい示されているが、戦争中にもその動きが見られていた。


 最も大きな動きが、ヒトラー死亡後の欧州での素早い動きであり、もう一つが日本軍に対するソ連参戦の情報リークだった。


 そして米英とソ連が次の時代を睨んでの蠢動が具体化しようとする中、二代目総統に就任したデーニッツ元帥は、国内がある程度安定した七月二十六日、連合国、いや正確には米英に対して即時停戦を提案する。


 この絶妙のタイミングでのドイツの行動は、戦後世界を決定付けたと言われるほどだが、この提案以後一週間世界は大きな混乱に見舞われる。



 デーニッツの提案は、ある意味単純で、そして壮絶なものだった。

 内容を極論すれば、第一次世界大戦後(ベルサイユ会議後)のドイツ領土保全を約束した上での即時停戦とドイツ全軍の国内撤退、そしてベルリンでの講和会議の開催だった。

 つまりドイツは、条件付き敗北を最初から認めるという形での停戦を自ら提案したのだ。


 これに最初に反応したのが、イギリスだった。

 当時のイギリスは七月二十七日の総選挙で、宰相が抗戦派のチャーチルから内政を重視するアトリーに交代が決まっていた。

 また、いまだにドイツ人的几帳面さでロンドンに降り注ぐ「V2」ミサイル、連合国軍のありとあらゆる航空機をたたき落としているジェット戦闘機群、タイガーを上回る強力な戦車の出現など、それまでのドイツのイメージを具現化したような兵器が生み出したドイツに対するさらなる恐怖が、心理面で誇張されていた。


 そしてそれが、戦争がもうすぐ終わるという心理から、徹底的に叩きつぶすべきだという衝動よりも厭戦気分をより多く生み出していた。

 そこにきてのヒトラーの死去とドイツ国内での事実上の政変。

 そしてドイツ敗北という前提での講和の提案は、大きなショックとなっていた。


 イギリス国民の多くは、もう戦争を終わらせるべきだと考えていたのだ。この象徴の一つが、労働党出身のアトリーの勝利と言えるだろう。


 そしてドイツからの提案は、議会ですぐに反応を呼び起こす。

 アトリー就任の翌日、一部の議員達が連名で講和の素案を提案するまでになったのだ。


 内容は、『ドイツ軍の全占領地からの即時撤退。占領地域の速やかな返還及び独立復帰。連合軍によるヒトラーの死亡の確認。ナチス党の解体とドイツの国政の民主化。ドイツ人の戦争行為以外での残虐行為、犯罪的行為者の処断。親衛隊、秘密警察の解体。三国軍事同盟の解消。ドイツの一方的な軍備縮小。戦争被害国すべてに対しての適切な賠償の支払い。そしてナチス党解体、民主化監視のための連合国軍の進駐。

 これらを行った上でベルサイユ会議決定時のドイツ本土領土の保全。外交、通商の回復。』というものだった。


 つまり、ドイツそのものは、それまでの欧州政治ルール的な残存は認めるが、ナチスとそれを構成していたものは徹底的に解体、処断すると表現できるだろう。

 この提案により、イギリス議会は大混乱となる。


 戦争継続と即時停戦の言い争いは出口が見えず、結局新宰相のアトリーはアメリカなど連合国各国と停戦もしくは戦争継続について協議するという言葉を出すが、イギリス宰相から停戦の言葉が出たことは、さらに世界中を揺るがした。


 即座にスターリンはイギリスを口汚く罵り、情報を知ったドイツは、一日でも早く無制限戦争という悲劇を終了させるため、政府、軍の無条件降伏以外なら如何なる屈辱にも耐えるよう国民に訴えた。

 遠く日本も、ヒトラー総統の死去に対する哀悼の意を発表すると同時に、エンペラーが国内において何か停戦に関する重大な発言したという噂が、世界中の情報を司る同業者の間で飛び交う有様だった。


 だからこそ、戦争の幕引きについて再びアメリカも何か発言せざるをえなくなり、アメリカの発言が行われるまでの数日間、世界中がしばらく沈黙する事になった。



●欧州停戦


 四五年八月一日、ハリー・S・トルーマン大統領はアメリカ連邦議会の席上で一つの声明を発表した。


 内容を要約すれば、すべての枢軸国が独裁者と彼らが率いた政権・軍・組織からの決別を約束して真の自由と平和を望むのであれば、既に示された無条件降伏について連合国側は撤回する用意があるという内容だった。


 また一方で、これ以上世界に対して害悪を振りまき続けるのなら、それらの国家に対して容赦のない徹底的な攻撃が行われるだろうとも同時に発言した。


 アメリカ合衆国大統領にこの発言をさせたのは、いくつか理由があった。

 一つ目は、先に書いたソ連の貪欲な姿勢と共産主義の脅威の認識だ。

 二つ目は、同盟国イギリス国内での厭戦気分の上昇。

 三つ目は、戦争終盤に入っての枢軸国の抵抗の激化と、連合国軍、いやアメリカン・ボーイズの戦死者数が鰻登りだった事だ。


 一九四四年六月から東西双方での総反抗開始から約一年の間に戦死したアメリカ軍兵士の数は、それまでに戦死した数を大きく上回っていた。

 特に、欧州でのバルジ作戦で一個軍の半数以上が殲滅されたため発生した大量の戦死者とほぼ同数の捕虜、太平洋でのレイテ侵攻と第二次マリアナ攻防戦での予想外の大敗は、勝利を楽観していたアメリカ市民の許容範囲を超える心理的ダメージとなった。


 これらの三つの地域の戦闘だけで、アメリカ軍の戦死者数は二十五万人近くに達していた。

 戦争全体での戦死者の数も、五十万人のボーダーを軽く越えていた。

 それどころか、南北戦争での戦死者数(六十五万人)すら越える可能性も見えていた。

 しかも、そのどの戦いでも遺体がほとんど回収されなかった事も、国内的には非常に大きな問題となっていた。この点アメリカは、文明国化し過ぎていたと言えるだろう。


 そして本格的反撃に転じた連合国側が、明らかに敗北したうえでの損害であるだけに、心理的ダメージも大きかった。


 また、ソ連に援助されている無尽蔵な物資があれば、これらの戦いでこれほどの損害を受けることはなかったという、ソ連に対する大規模なネガティブキャンペーンすらアメリカ国内では発生していた。


 そして、今後戦争が終了するまでに発生する損害(死傷者)は、日本とドイツ双方で二〇〇万人に達するというレポートが提出される。

(うち戦死者は三〇万人以上)

 この結果、すでに戦争の実質的決着がついているにも関わらず、これ程の犠牲を払う必要があるのかと、政府内でも強く議論が交わされるようになっていた。

 アメリカの政治家たちも、勝利が見えた辺りから自分たちの足下を強く見るようになっていたのだ。


 そしてそこにきてのヒトラー死去とドイツの政変、そして講和の提案であり、同盟国イギリスでのさらなる政治的混乱だった。

 しかもイギリスでは、ヒトラー死去から後は議会の混乱に端を発して休戦もしくは停戦を求める機運が急速に膨れあがっていた。


 これは、チャーチルからアトリー政権に交替してから、政府が以前のような強気の姿勢を示す事は少なくなった。

 そして今次大戦におけるアジア植民地の実質的喪失、インドでの騒乱と彼等の足元をゆるがす事件が続いた事も大きなファクターだった。

 また、膨大という表現を越える戦災と戦費は、戦後を考えるようになった人々にとって、国家の滅亡まで戦い続ける国家の姿勢には疑問を感じる思いも強くさせていた。


 そして独裁者ヒトラーの死という巨大な政治的・心理的ショックと、その後のドイツの政権交代と停戦提案により、戦争目的を戦闘によらず殆ど解決できるとして、急速に講和派が多数を占めるようになってきていた。


 これらの影響を受けたのが、イギリス政府との共同歩調を大前提とした八月一日のトルーマンの演説だったのだ。

 なお、トルーマンは、前任者ルーズベルトとは違って強い反共主義者とされている。


 事実この頃から、ヒトラーとナチスのないドイツに対する殲滅戦争遂行よりも、共産主義の勢力増大に危機感を募らせていた。

 そして共産主義の防波堤として、既に敗北による停戦を自ら考えるまで追いつめられた枢軸国を利用できはしないかと考えるようになっていた事も、枢軸国に対する態度の軟化にもつながったとされる。

 何しろ枢軸国はもともとが反共産主義同盟であり、その地理的位置は共産主義を封じ込めるには絶妙の位置に存在していたからだ。



 そしてアメリカ大統領の演説に、ドイツは強く反応した。

 表面上・水面下を問わず積極的に連合国(英米)との交渉を持ち、ドイツ国内においては停戦のためのスケープゴート(生け贄)となるナチス幹部、一般親衛隊、強制収容所関係者の逮捕、軟禁が積極的に行われた。

 これには、親衛隊という組織そのものの存続を命題としてしまったヒムラー長官と、彼に従う事で生き残ろうとした親衛隊の多くの組織が積極的に荷担していた。

 秘密警察として悪名の高かった組織にも、逮捕、軟禁の手が広く伸びていった。

 つまりヒムラーは、自らの組織を何らかの形で残すためだけに、ナチス・ドイツを自らの手で葬り去ろうとしたと言えるかもしれない。


 一方の連合国内でも活発な外交活動が行われるが、結局連合国内での統一見解が見られる事はなかった。

 世論に後押しされた米英のごり押しによって停戦への道筋が作られ、一九四五年八月五日、ついにドイツとの停戦合意が成立した。

 停戦発効は翌日正午とされ、すぐさま両軍で停戦のための動きが見られる。


 もっとも先にも書いたように、連合国側の意志が統一されているワケではなかった。



 フランスとポーランド、チェコスロヴァキア政府(もしくは自由政府)は、米英軍が停戦するからやむなく停戦に応じたに過ぎなかった。

 また、最初からドイツの無条件降伏以外の戦争停止を徹底的に否定していたソビエト連邦は、遂にこの時の停戦に応じる事はなかった。しかもソ連は、停戦発効後も実質的に単独で戦いを継続し、ドイツに対してさらに強い圧力を加えるようになる。


 だが、東部戦線以外での両軍は、八月六日正午を迎えると同時に大きな問題もなく即日停戦が実現した。戦線によっては、停戦手続きに続いて握手や交歓すらあったほどだ。


 そして停戦成立後のドイツ軍は、一斉に占領地域からの撤退を開始。

 東部戦線以外にあったほとんどすべての兵力は、ドイツ本土での再編成の後、依然として戦闘が続けられている東部戦線へと向かった。

 東欧を中心に、もと武装親衛隊も同様だった。

 また、既にドイツ領内に入っていた連合国軍は、停戦に従い一旦ベルサイユ条約時のドイツ国境線まで後退した。


 ここに、ようやくドイツ人達の望んだ戦争の形が実現しつつあった、と表現すればよいだろうか。

 もっとも、ここまでの戦いでドイツは二〇〇万人の軍人と五〇万人の市民を失っていた。国土の過半も主に爆撃によりひどく荒廃していた。

 つまりは、自らの条件付降伏により、戦争に幕引きするしかなかったのも紛れもない事実だったという事だ。


 そしてソ連にとって、米英の裏切りとも言える停戦は、許し難い背信行為だった。

 自国民数千万人(ソ連側公称二七〇〇万人)の犠牲者を出した事実を考えれば、自らの軍靴と戦車のキャタピラによってドイツ本土を蹂躙しなければ戦争は終わらないとスターリンは演説した。

 さらに米英に対して、即座に停戦を覆すように強く訴えると同時に、ドイツが無条件降伏するまでソ連赤軍がドイツとの戦いを止める意志が無いことを世界中に宣言した。


 なおこれを、スターリンが当時滞在していた避暑地からの演説だったため、「ヤルタ宣言」と言う。


 だが、ドイツとソ連の戦いは、スターリンが思ったようにうまくいかなかった。

 ドイツ本土を目指す爆撃機は、数分の一に激減した敵からの圧迫から解放されたドイツ空軍によって、その多くが阻止されるようになっていた。

 半月の間に約二倍に膨れあがった東部戦線のドイツ陸軍は、既に包囲下のケーニヒスベルグを例外として、ワルシャワを挟んだヴィッスラ川からチェコスロヴァキア、ハンガリーからユーゴスラヴィア国境に至るラインで踏みとどまった。


 しかも、ドイツの抵抗が全くなくなったため、米英など連合国各国は、我先にとばかりにドイツ本土を通過して東欧地域への進駐を開始していた。

 そしてソ連軍が停滞している間に、オーストリア、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ギリシア地域に米英連合国軍が入り込み、両政府からは現時点を両軍の停止線としようという提案がされる始末だった。

 しかも、日を追うごとにドイツとの停戦が強く要請されるようになっていた。


 英米としても、現時点でソ連との協調が崩れることは望まなかったからだ。

 そして時間の推移と共に、ドイツの同盟国だったフィンランドにまで連合国軍は進駐すると称して、バルト海奥深くにまで入り込む。

 加えてそのままダンツィヒからポーランドにも上陸する有様で、スターリンの怒りと焦りは大きくなる一方だった。


 だからこそスターリンは、米英は二枚舌でソ連の勢力縮小を図ろうとしていると、強く考えるようになったと言われる。



 なお、土俵際で生き残ったドイツの扱いだが、結果としては第一次世界大戦よりも辛いものとなった。いや、なる筈だった。

 アメリカなどは、自らの為に事実上の占領統治と軍政を行って、徹底的にドイツを「裁く」つもりだったと言われている。

 単なる侵略戦争だけではなく、「ホロコースト」、「ユダヤ問題」を始めとしてドイツはそれだけの事をしたと考えられていた。そして、それを裁く事こそが、今後世界のリーダーとなる者の義務であり権利だと考えられていたからだ。

 いかにも独善的なところのあるアングロ・サクソン的な政治的行動と言えるだろう。


 だが、連合国全体の意向を無視したソ連が、八月半ばを越えてもドイツとの戦いを止めない事と、東欧やドイツの一部に侵攻したソ連軍の蛮行が連合国軍将兵によって明らかになった事から、大きな変更を余儀なくされた。


 欧州市民の恐怖は、ヒトラーの死と共に呆気なく崩壊したナチスよりも、共産主義、より正確には再び力を持ったロシア人へと移っていた。

 また、戦場となっていた東プロイセンやポーランドなど東欧地域でのソ連軍の一部蛮行が、ドイツ停戦に反発していた欧州諸国の態度までソロシアに対するものを硬化させてしまった。

 このため、ソ連への停戦が強く呼びかけられる中、連合国の中に取り込まれる形でドイツは対ソ連の為の防波堤として連合国に組み入れられる状態となり、瞬く間に欧州戦線は新たな展開へ突入する。




■解説もしくは補修授業「其の弐拾四」


 欧州での幕引きは、総統閣下の静かな退場によって発生するとさせていただきました。


 史実での死の間際のアドルフ・ヒトラーの病状を考えると、例えドイツの抗戦が史実より長く続いたとしても、彼の病状が史実通りならそう長くはもたないでしょう。

 自殺するとき、病状悪化で自殺のためのピストルすら持てなかったという説すら存在しますからね。

 ここでは、その辺りの説をネタとして使ってみました。


 ・・・え、聞きたいのはそんな事じゃない。

 なぜ、ドイツの秘密兵器が多数量産され前線に投入されているはずなのに、戦争がひっくり返っていないのか、ですか?

 そりゃ決まっているでしょう。この話の中ではドイツは脇役なんですから、大活躍しちゃ駄目だからですよ(笑)

 という冗談はさておき、実際ドイツ第三帝国末期に登場したもしくは開発されつつあった数々の兵器ですが、連合国軍の戦略爆撃によって一九四四年内にドイツ産業の生産力は大きく減殺しているので、戦争をひっくり返すほど生産する事は物理的に考えて不可能でしょう。

 また、新兵器によって連合国側の損害が上昇するような事があれば、連合国側がより一層躍起になってこれを生産する工場を破壊しようとするでしょう。


 欧州の戦場では、「Me262」vs「ミーティア」、「Ta152」vs「P51H」、「E75」vs「JS3型」などのバトルが各地で見られる事でしょう。

 ですが、史実よりドイツが少し頑張ったというレベルに落ち着き、大戦略レベルでの結果としては程度問題だと思いますね。

 基礎工業力そのものを見る限り、数ヶ月で連合国側(英米)が力技の対処方法を確立して、結局物量で押しつぶすのは史実を見る限り明らかですからね。



 もっともこの節で一番残念な点は、この話しでの命題である「聯合艦隊の活躍によるバタフライ」がほとんど存在しない事です。

 確かに「聯合艦隊の活躍」によって戦争自体が長引いてこそのこの状態の現出なのですが、戦争全体の流れを変えるにはやはり欧州での政治的激変が存在しなければ、日本が生き残る可能性は皆無に近いですからね。


 もっとも、日露戦争でもロシア(欧州)での政治的動きが講和への流れを作ったと言えますから、このぐらいはご愛敬と思いご勘弁ください。



 また、史実での「ヤルタ会談」にあたる「マルタ会談」が45年の2月ではなく4月そして6月になっているのは、ここでの戦争展開が史実から遅れていて、戦後を語るには史実と同じタイムスケジュールでは早いからです。

 ヤルタがマルタになったのも、ヤルタ地域が奪回されたばかりで相応しくないからに過ぎません。

 さらには、米英のソ連に対する態度の現れと言う事になるでしょうか。


 そして、史実のポツダム宣言のオマージュと、その後の冷戦構造の流れを作る呼び水として、グルジアの髭野郎単品によるヤルタ宣言を置いてみました。


 そして欧州情勢の激変により、日本が、日本軍が生き残る道も開けて来ます。

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