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異聞・大東亜戦争  作者: 扶桑かつみ
25/40

■フェイズ二一「ラストバトル」

●島嶼要塞


 「第二次マリアナ攻防戦」


 一般的にこう呼ばれる事の多い戦いが始まったのは、一九四五年六月二十五日の事だった。


 だが、防衛する側の日本にとって、マリアナ諸島陥落は国家存亡に関わる事だった。

 だからこそアメリカ軍が最初に襲来し、これを撃退して以後も攻防戦は継続していると考えており、ソロモンなど南方での戦いですら見られないほどの決意と戦力が同地域を指向していた。


 一九四四年春までに、日本軍はマリアナ諸島を中心にして多数の兵力を配備していた。

 だが、連合国の攻勢がマーシャル諸島からのラインと西部ニューギニア、フィリピンのラインの二つから確実に伸びてきている事は確実だった。

 これらの地域の防衛が成功しても失敗しても、そのすぐ後にこれらの地域にそれまで以上の圧力が加えられるのは確実と考え、レイテでの決戦に勝利して以後もアメリカ軍の激しい妨害を対潜哨戒機部隊などで無理矢理抑え付けながら、さらなる兵力と物資を注ぎ込んだ。



 第八方面軍・第三十二軍(総数十四万人)


サイパン:第二師団、第二十四師団、第四十三師団、

     第五砲兵司令部、戦車二個連隊


テニアン:第六師団、独立混成四十八旅団、

     戦車一個連隊


 第八方面軍・第三十一軍(総数十二万人)


グァム :(総数五万人)

     第二十九師団、第三十八師団

     独立混成四十七旅団、戦車一個連隊


トラック諸島:(総数四万人)

     第五十二師団、海軍陸戦隊 他


ヤップ島:(総数一万人)

     独立混成四十九旅団 他


 小笠原兵団(独立軍)(総数三万人)

     第一〇九師団(硫黄島)、

     戦車一個連隊、海軍陸戦隊



 一九四四年六月にアメリカ軍がサイパンに侵攻した時との違いは、師団規模での増派は第二十四師団だけだった。

 だが、サイパン、テニアン防衛のために三十二軍が新たに下令され、その下に軍直轄部隊である和田孝助中将の第五砲兵司令部を送り込んだ事に、大本営の並々ならぬ決意の現れを見て取ることができる。


 なお、第五砲兵司令部隷下には、野戦重砲兵二個聯隊、重砲兵一個聯隊、独立重砲兵一個大隊、臼砲一個聯隊、迫撃砲四個大隊、野戦高射砲四個大隊、独立速射砲三個大隊他、七十五ミリ以上の火砲計四〇〇門以上という、日本陸軍の基準からすると小さな島一つに投入するには常識を通り越えた大きな砲兵力が存在した。

 これに既存の防衛部隊と新参の第二十四師団他の火力を総合すると、サイパン島だけで七〇〇門の重砲がアメリカ軍を待ちかまえている事になる(弾薬は一・六会戦分)。

 さらに本土から移動してきた戦車連隊は、当時日本国内でも希少な「三式戦車」を二個中隊分保有しており、さらには当時試作段階を抜けていなかった「四式戦車」も数輌保有していたという資料もある。


 新設された三十二軍司令官には、当時陸士校長であった牛島満中将が任じられ、長勇参謀長以下幕僚の陣容も著しく強化された。

 さらに加えて海軍部隊も約八千人所在し、サイパン島だけで十万人に達した第三十二軍の防備作戦は、まさに必勝を期して鋭意「決戦態勢」を固めていたと言えるだろう。


 これは、敵上陸開始二日目に、敵を海に追い落とすための総反抗の計画を入念に練り上げていた事からも間違いない。



 また、先の戦いでサイパン島から慌てて逃げ出したアメリカ軍は、七万人分の物資の大半を海岸橋頭堡付近に残したまま撤退していた。

 もちろん物資の多くは爆薬を仕掛けたり海軍の艦艇が去り際に砲撃するなどして破壊もしくは焼き払われていた。

 だが、それでも残された物資、特に武器・弾薬以外の残存物は多かった。

 七万人分の当座の食料の山などは揚陸した半分近くが手つかずの状態だったため、現地日本軍将兵への思わぬプレゼントとなった。

 そうした遺棄物資の中でも工兵機材ブルドーザーなど、戦車は共食い修理などによって多数が現地で使用される事になった。

 ほかにもバズーカ砲や一二・七ミリ重機関銃(M2)など日本陸軍では考えられないような装備も破壊しきれず多数が捕獲され、その中で使用可能なものは現地軍が臨時装備し、陣地強化のため配備されていった。


 なお修理の結果二十輌近い「M4中戦車」を得た同地域の戦車部隊は、自らの車輌と合わせて総数二〇〇輌以上の戦闘装甲車輌(約三割が七五ミリメートル砲以上搭載型)を抱える事となり、アメリカ軍の予測範囲を遙かに上回る機甲打撃戦をこの小さな島で強要する。



 なお、日本側がこれほどサイパンに兵力を注ぎ込んだのは、この島が戦争の帰趨を決するほどのキーポイントであると同時に、先の侵攻でアメリカ軍がまずこの島の攻略に取りかかった事、その時の迎撃でのアメリカ軍の攻撃の凄まじさへの恐怖が大きな要因なのは間違いないだろう。


 また小さな島に十万人以上の兵士が犇めいているので、いまだ残っていた民間人は居場所すらなくなり、兵隊や物資を運んだ帰りの船に可能な限りの護衛を付けて本土へとすべて疎開させられた。

 一度、米潜水艦の攻撃により一〇〇〇人単位の海上遭難者を出すという悲劇があったが、レイテでの敗北で混乱するアメリカ軍を後目に、防衛体制の強化と平行してすべての疎開を完了している。これはテニアン島も同様の措置が取られた。


 そして隣接するテニアン島には、既存の第六師団の後に送り込まれたのが、満州方面で陣地防御を主任務としてきた重装備の独立混成旅団一個(旧独立守備隊)と機動防御を行うための戦車連隊一個だけだった。

 だがこれも、日本軍としては異常と言ってよい兵力配置だった。

 平坦な地形で半地下陣地構築以外頼るものはないため、兵士を運んだ輸送船団と共に持ち込まれた多数のコンクリート、鋼鉄資材によって、ロシア人が見ても満足しそうな地下に広がる三重の複郭陣地で構成された強固な要塞島と化していたからだ。


 またより本土に近い硫黄島は、小笠原兵団長の栗林忠道中将(同一〇九師団長)の方針もあって、サイパンでの一度目の戦いがあった頃から洞窟陣地構築が熱心に行われていた。

 だが、ここを一種の航空要塞にしようと考えていた大本営や海軍は、虎の子の一つとすら言える機械化された設営隊を一九年秋に送り込んで、三つあった飛行場を大幅に拡充した(収容機数約三〇〇機・防爆シェルター多数)。

 さらに多数の高射砲、機銃を軍艦に回すべき分すら回して設置し、洞窟要塞陣地と高射砲による強固な航空要塞と化した。

 一九四五年に入ってからは、戦闘機を中心に常時二〇〇機以上の航空機が駐留するようになり、レイテ戦勝利後の四五年春頃からは再編成の済んだ精鋭航空隊も進出するようになっていた。


 なお硫黄島以外にも、マリアナ諸島各地にも合計五〇〇機以上の航空隊が再び進出していた。本土の帝都近辺を防衛する第三航空艦隊からの援護も合わせると、一〇〇〇機以上の航空機がマリアナ方面に投入可能な態勢が敷かれる予定になっていた。



 だが日本の予想より早く再建された米機動部隊が、六月初旬に硫黄島、サイパン・テニアン、グアムと順に襲来すると、すべてが甘い見通しだった事を思い知らされる。


 機材・パイロットの優劣と物量の差は少々のことで覆る事はなく、内地で懸命に再編成が進んでいる聯合艦隊が到着すると言われた頃には、戦力を完全に消耗してしまった。

 辛うじて増援の間に合った硫黄島が航空基地としての機能を維持しているだけで、マリアナ諸島における日本側制空権は六月半ばまでにほぼ消滅していたのだ。


 しかし、すでにパラオから本土に圧力が加えられている現状を思うと何があってもサイパン、テニアンを明け渡す事はできず、ここに一つの刹那的という言葉を通り越えた作戦が実施に移される。


 そして一九四五年六月二十五日、国力に任せて早期に戦力を再編成したアメリカ軍は再度マリアナへと殺到。

 ここに太平洋戦線最大規模の戦いの舞台が整えられていった。



●リターン・トゥ・サイパン


 一九四五年五月半ば頃に入ると、マーシャル諸島西端部のエニウェトク環礁とパラオ諸島近辺のウルシー泊地は連合国の巨大すぎる艦隊で溢れかえっていた。

 欧州戦線が残すところドイツ本土を目指す陸上戦がほとんどとなったことから、余剰水上戦力のすべてが太平洋に振り向けられた結果である。


 この時連合国最大規模の拠点となっていたウルシー環礁近辺に集結した連合国艦隊は、連合国にとってもすべての海上機動戦力を集めたものと言って間違いないだろう。


 以下がその概要になる。



 ・オペレーション・アイスバーグ


  作戦参加部隊

 上陸兵力:19万4000名

 総数:54万8000名 (含予備・後方部隊)


 総指揮官:R・スプルアンス大将

 ・米第58機動部隊(四群)

 CVB:1 CV:10 CVL:3

 BB:7(CB:2含む)

 ・英太平洋艦隊

 CV:3  BB:2

 ・米第七艦隊

 CVE:24 BB:6(旧式艦のみ)


・上陸部隊

第10軍司令官(S・B・バックナー中将)

 サイパン島上陸部隊(13万3000人)

第24軍団

 ・第27師団 ・第77師団 ・第97師団 

第3海兵軍団

 ・第2海兵師団 ・第6海兵師団

 テニアン島上陸部隊(6万1000人)

第9軍団

 ・第81師団 ・第98師団 他



※1 硫黄島上陸予定兵力(7万5000人)

 ・第2海兵軍団

  ・第3海兵師団 ・第4海兵師団 ・第5海兵師団


※2 パラオでの損害(損耗率約50%)

 ・第1海兵団 ・第77歩兵師団

※3 レイテでの壊滅戦力(損耗率70%以上)

 ・陸軍二個軍団・四個師団

  (第1騎兵、第7、第24、第96師団)


・航空機

 艦載機:約2000機

 基地機:約500機

※1 基地機の過半がB29かB24(稼働率約六割)

※2 パラオ、マーシャル、西部ニューギニアより



 「アルマダ」

 この言葉がこれほど相応しい艦隊は、有史上存在しなかった。

 世界の半分以上の工業力を持つアメリカの、決意と底力を見せつける光景と言えるだろう。


 なお、空母と戦艦以外の詳細な数と各艦艇紹介は除いたが、艦艇すべてを紹介していると枚数がいくらあっても足りないための措置だ。

 本作戦には、上陸用舟艇を含めると何と五〇〇〇隻もの艦艇が作戦に参加しており、アメリカ軍だけが可能な常識を超越した物量の度合いが少しは分かっていただけるだろうか。


 特に凄まじいのは、作戦参加した空母の数だ。高速空母だけでも、日本海軍が開戦以来沈め続けてきた総数と同じ数の大型空母が作戦に投入されていた。

 しかも高速機動部隊を構成する艦艇の95%以上が、開戦後就役した艦艇だった。「CVB」という新たな艦種名を与えられた新鋭空母 《ユナイテッド・ステーツ》に至っては、基準排水量で四万五〇〇〇トンもありながら第一次ミッドウェー沖海戦後の建造開始である事を思うと、目眩すら感じるほどのアメリカのパワーを痛感させられる。


 なお、ここで目立つ点を少し上げておくと、イギリスが有力な艦隊を派遣している事と、注釈で入れたアメリカ軍兵士のここ最近での消耗が異常な数字を示しているという事だろう。


 ちなみにこの一年での戦死者は、太平洋だけで十五万人近くに達している。重度の負傷者を含めると、約二十万人の兵士を失っている事になる。

 これがいかに異常な数字かは、同時期の負傷者数よりも戦死者の方が多いと言う点と、それまでに戦死した太平洋戦線でのアメリカ軍兵士の総数の三倍に達している点からも分かるだろう。


 片や戦力増強要素でもう片方はその逆であり、マリアナに侵攻する連合国にとっては一喜一憂と言う言葉が非常に似合うファクターだった。


 しかし物量に勝るアメリカ軍は、陸上兵力を補完するため戦車連隊を始めとする機甲戦力を通常より強化しているのだから、相対する日本軍としてはうらやましい限りというのが本音だろう。


 一方、この大軍を迎撃する日本側だが、これら大兵力を前にしては本来なら軍事的には抵抗すら無意味と言えるのだが、日本側はここでの戦いを本土決戦のための第一回前哨戦(第二回目は台湾か沖縄での戦い)と見ていた。

 つまり、連合国にどれだけ高い通行税を払わせることが出来るのかというのが、最大の関心事だったのではと思われる。


 手前勝手な楽観主義の渦巻く日本軍上層部といえど、撃退は不可能で負けるための決戦だと考えているところに、この時の戦闘の絶望さと異常さが見て取れる。


 そして、日本軍の中でも絶望的状況に置かれていたのが海軍、いや聯合艦隊だった。


 燃料こそ辛うじて一回全力出撃できるだけ備蓄が聯合艦隊用に割り当てられていたが、絶対数の戦力差を考えるとアメリカ軍の餌食になりにわざわざ出ていくようなものでしかなった。

 以下が四五年六月の聯合艦隊の状況になる。



日本本土

 第二艦隊(横須賀・呉)

戦艦:《大和》《武蔵》《長門》《比叡》《榛名》

重巡:五隻 軽巡:一隻

防空駆逐艦:二隻 駆逐艦:十二隻


 第三艦隊(呉)

空母:《瑞鶴》《葛城》《笠置》 (艦載機:約一六〇機)

軽巡:三隻 

防空駆逐艦:四隻 護衛駆逐艦:六隻


 志摩支隊(輸送任務中)

戦艦:《扶桑》《山城》

軽空母:《隼鷹》《瑞鳳》

防空駆逐艦:一隻 駆逐艦:四隻


 松田支隊(輸送任務中)

戦艦:《伊勢》《日向》

軽空母:《千歳》《瑞穂》

駆逐艦:三隻 護衛駆逐艦:二隻


 各地のドッグ内(修理中がほとんど)

大型艦:《信濃》《金剛》《赤城》《飛龍》

重巡:四隻 他多数


外地(シンガポール、フィリピン・稼働艦艇のみ)

重巡:三隻 軽巡:一隻 駆逐艦:四隻 他



 防御力の大きな戦艦の欠損こそ少ないが、一目みて分かる通り昔日の面影もないほど勢力が減退しているのが分かるだろう。


 もちろんこれ以外にも潜水艦で構成された第六艦隊と海上護衛総司令部が存在し、それぞれ連合艦隊以上に活発な活動を展開していた。

 だが、それらを加味しても、軽巡洋艦以上の大型艦艇の規模は限られていた。特にレイテでの損傷艦艇がいまだに多くドック入りしている事に、当時の日本の状況が垣間見えている。


 なお、シンガポールが軍港として機能しているのは、連合国の長距離爆撃機と潜水艦以外同地域に侵入できるまとまった戦力がなく、またトラック、パラオ、ブルネイと逃走を繰り返している連合艦隊唯一のサーヴィス艦隊がある程度の資材を持ったまま居座って活動しているからだ。

 特に日本海軍唯一の本格的工作艦「明石」以下工作艦・工作船の生き残りの過半が、逃亡先のシンガポール近辺や香港、インドシナ沿岸などで頑張っている事は、船舶の運用において非常に大きな役割を果たしていた。


 機械的に粗悪な戦標船の稼働率は、「明石」などに乗る工員たちによって大きく支えられていたと言っても過言ではないだろう。


 また、この時点で輸送任務に従事していた艦隊が、臨時編成の空母機動部隊として、レイテ戦以後燃料豊富なシンガポール方面にはい付いていた事も、東南アジア地域の制海権維持に大きな効果を発揮していた。

 たとえ空母の格納庫が、がらんどうであったとしてもだ。



 そして海軍艦艇が敵と比較すると戦力としてアテにならないため、マリアナ諸島に対する支援は航空機が主力となる事が決定され、作戦名称は「菊水」とされた。


 「菊水作戦」の骨子は、陸軍の第六航空軍、海軍の第一、三、五航空艦隊の航空兵力をもってマリアナ来攻のアメリカ軍に対して総攻撃を加えるものだった。

 だが、これまでとの作戦で大きな違いは、海軍が「特別攻撃隊」と呼ばれる意図的な自爆攻撃を、軍の作戦として採用した点にあった。


 つまり、パイロット自身が爆弾の誘導装置となる事で飛躍的に命中率を向上させ、敵を一気に殲滅しようというものだ。


 作戦意図としては、今後始まる島嶼攻防戦において敵空母の活動を一時的に封殺するのが目的だった。

 制空権を失いつつある日本にとって、大量の機体を用いた自爆機による飽和攻撃こそが妥当な作戦とされる風潮が強くあったことの一つの証明とされる。


 そしてこの事は、日本の軍事組織が完全な崩壊に向かっている何よりの証拠だった。

 本来「生存」を旨とする組織が「死」を目標とした時点で、日本の組織的抵抗は実質的に終焉していると言って良いだろう。



 第一次マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦で戦力が枯渇した日本軍は、その後アメリカ軍の攻撃に対して、まともな迎撃作戦がとれない状態となっていた。

 特にアメリカ軍の矢面に立ち続けた海軍の消耗は酷く、陸軍は依然として洋上での活動は苦手なため、攻撃においては海軍が矢面に立たねばならなかった。燃料の枯渇もあって局地防戦すらままならない、というのが正直な表現とすら言える状況だった。


 だが、再度マリアナ諸島に襲来した侵攻部隊に対処するには、力の根元である空母機動部隊を封じるため、強力な攻撃力が大量に必要だった。

 そこで考えられた攻撃方法が、ドイツで実用化された自ら命中する安価な爆弾である。


 ただし、そう言った先端技術の欠如する日本の場合、安価な誘導装置は人間そのものがになう事になった。

 このような、狂気とも言える自殺攻撃は日本的とも言えるが、この段階においてまだ抗戦を継続する政府、軍指導部の明らかな失策と暴挙と言えよう。


 そして「特攻」のために考案された特殊な兵器の代表に、『桜花』と呼ばれる初期型のロケット機が存在する。

 それ以外は、既存の航空機が爆弾を抱えたまま突入するというものだった。

 このため、場合によってはそのまま通常爆撃も可能となっているものも多く、このことは自爆攻撃が破壊力や効率の点で相応しくない事の証明とも言えるだろう。


 なお『桜花』は、第二次ミッドウェー海戦後、濃密な敵防空網を簡単に突破できる兵器として開発の進んでいた兵器だ。

 そして特攻兵器としての『桜花』は、もともとは無人の無線誘導爆弾として開発の進んでいたものを、誘導装置の開発が難航したため、人一人が搭乗して操作できるように改良を加えて、短期間で開発されたものだった。

 そして、もともとが初期型対艦ミサイルとして開発されていたため航続距離が二〇海里(三七キロメートル)程度しかなく、当然戦場に到着するまでは大型の母機を必要とした。

 また、機材自体の開発が遅れた事と、運搬するための大型機が戦場での消耗に耐えられるほど存在しないため、ほとんど実戦使用される事はなかった。



 なお、この特別攻撃いわゆる「特攻」作戦は、敵の侵攻艦隊と空母機動部隊を主目標とするため、アメリカ軍がサイパン島に飛行場を整備するまでが勝負とされた。

 戦機は敵上陸から二日以内にあると考えられ、各種の「特攻」作戦を併用した大規模な攻撃計画が立案されていた。


 そして、ここにサイパン島を最後の決戦場とする海軍の総反撃と、本土決戦の時間を稼ぐ陸軍の地上での防戦が開始された。

 なおマリアナ地域での戦闘は停戦まで続き、参加兵力、参加機数、作戦期間とともに大東亜戦争中、最大規模の作戦のひとつとなった。


 それにしても戦争は一つの狂気とされるが、この時日本が採用した作戦は、共産主義国家が使用した督戦隊同様に常軌を逸している。

 このような作戦を採用しなければならないまで戦争をしている時点で、日本政府の窮乏と無策ぶりを見ることができるだろう。

 この点だけは、何度強調してもしすぎる事はない。



●第二次サイパン攻防前哨戦


 一九四五年六月二十三日、連合国による「アイスバーグ作戦」が発動された。

 連合国空母機動部隊の総力を挙げた空襲がマリアナ諸島を席巻し、二日間でのべ四〇〇〇機もの空襲が同地域に行われた。

 さらに遠方からは多数の《B29》《B24》が飛来し、大型戦艦の群は短時間で砲身が摩耗するのではないかというほどの砲撃を続けた(実際摩耗した艦艇も多数あった)。

 それまでの空襲ですでに月面のようだと表現されていたサイパン島とテニアン島はさらに掘り返され、アメリカ軍の目からすればもはや誰も生きていないだろうと思わせる打撃を与えていた。


 また、これに先立つ六月初旬から、米機動部隊全力を投入した、小笠原群島と日本本土に対する激しい航空撃滅戦が行われ、ここでの戦いで初めて「特攻」作戦が決行される。


 最初に「特攻」作戦をしたのは、零戦戦爆、彗星艦爆など合計二十八機とその護衛、戦果確認のための支援部隊を含めた約一〇〇機の航空隊だった。

 「特攻」隊員は、志願者全員をさらに家族構成などから選抜した者によって構成された。


 初の「特攻」作戦は、硫黄島が激しい空襲によって現地航空戦力が壊滅した事を受けて本土防空隊によって決行される事が決まり、関東一円の空軍基地を虱潰しに攻撃してきた米機動部隊に初めて牙を剥いた。



 米機動部隊による一連の攻撃により、日本側は硫黄島から関東地方にかけて展開していた海軍の第一、第三航空艦隊が、六〇%以上の損害を受けて一時的に機能を停止した。

 だが、米空母部隊も「特攻」を含む日本側の昼夜を問わない激しい攻撃により、大型空母二隻損傷を始め十隻以上の損傷艦艇を出し、空母内格納庫での損失を含めて二〇〇機以上の航空機損失を受けた。


 特に「特攻」という自爆攻撃に驚いた空母部隊指揮官スプルアンス提督の独断により、日本本土に対する攻撃計画を半分程度も未消化のまま、再度硫黄島とその近辺を攻撃しつつマリアナ侵攻のための補給ポイントへと引き上げている。


 だが、関東一円での米機動部隊の空襲が、日本側のさらに激しい行動を促してしまう。


 つまり、いよいよ航空戦力の枯渇に苦しむようになった日本陸海軍は、大規模な「特攻」を含む航空総攻撃の決定を行ったのだ。

 これが「菊水作戦」だ。



 アメリカ軍の艦隊のマリアナ諸島に向けての動向を捕捉した六月二十日、日本側も「菊水作戦」を発動させる。


 「菊水作戦」は主に航空攻撃を主体とする作戦で第一〜第三段階に分けられていた。

 大規模な「特攻」という予期せぬファクターと気象のおかげでアメリカ軍の不意をうった事と、性急な侵攻を行ったアメリカ軍の側の対策不十分を衝いて相当な戦果を収める。


 この間(六月二十日〜六月二十九日)海軍は、のべ一五〇〇機、陸軍はのべ約三〇〇機の航空機を投入し、五〇〇機の航空機を失って一時的に戦闘力を喪失する。

 この損害のうち約18%(約九十機)が特攻機になり、通常攻撃との相乗効果によって米艦隊は大混乱に陥った。


 特に、アメリカ軍がサイパン島に上陸を開始してから二十四時間後の六月二十六日の空襲は熾烈なものとなった。

 日本側が傍受した無線や電文からもアメリカ軍の困惑と悲鳴が無数に飛び交う惨状を示し、もう一押ししてこれを陸軍の反撃とリンクさせれば再度の撃退も可能性が高いと判断された。


 だが、日本側の航空機の消耗は予想以上に多く、航空兵力による後続が兵力の枯渇から続かなかった。

 また、気象条件の変化からマリアナ近辺での航空機の投入そのものが難しくなった事もあり、「もう一押し」は別の手段に委ねられる事になった。


 なお、初期の特別攻撃はあまりにも調整がとれていた。この頃各地で量産配備が進められていた《紫電改》と、ようやく量産が開始されたばかりの《烈風》戦闘機によって構成された制空隊が切り開いた空路を、五〇〇kg爆弾を抱えた《彗星》隊が通常爆撃で輪形陣の外側の艦艇を撃破して突撃路を切り開き、そこに二五〇kg爆弾を抱えたままの《零戦》戦爆が、空母目がけて多数突入を行ったのだ。


 そして相手の不意を付く形で特攻機の実に半数近くが敵艦に確実にヒットし、一度の攻撃で三隻の大型空母が炎に包まれたりするなど大型空母、護衛空母、大型輸送船を中心とした大きな損害を与えた。

 特に防空能力の低い英機動部隊の損害は甚大だった。

 一時的ではあるが、連合国軍の艦載機の実に四分の一を完全に封殺する事に成功し、第二次マリアナ攻防戦初期段階の最も重要な時間エアカバーが大きく減殺されていた。


 ただ当初から懸念されていた事だが、飛行機による自爆は飛行機自身の持つ空気抵抗が仇となって運動エネルギーが減殺されてしまい、敵に与えるダメージが低下した。

 また魚雷のような水面下に対するダメージを与える事もできないため、アメリカ軍の持つ大型空母を撃沈することは遂に適わなかった。

 しかも特攻以外の攻撃も飽和攻撃が実現できた場合、機材を揃えた通常の夜襲の場合などはうまくいっている事から、特攻の必要はなかったのではと、開始当初から物議も醸しだしている。


 つまり、制空権の有無こそが攻撃成功の要だという、源田大佐の三段論法に対する物議だった。


 だが、そうした物理的事象以上に連合国軍将兵の心理的なダメージは大きく、今までの南洋の島々で見せた「バンザイ・アタック』がついに空でも始まったのかと将兵を恐怖のどん底に陥れた。


 この攻撃は、その後規模を拡大しつつ停戦まで継続され、今まで経験しなかった攻撃によって、アメリカ軍を物心両面で悩ませ続ける事となる。




■解説もしくは補修授業「其の弐拾壱」


 「死戦」。ここまで来ると実にこの言葉が相応しくなってきますね。

 状態としては、史実の沖縄戦が二度目のマリアナの戦いで行われるというのがテーマになります。


 戦力的には、日本の航空戦力が史実の一・五〜二倍ぐらい、海軍は何とか組織的作戦可能で、アメリカ軍(連合国軍)が主に海上機動戦力の面で七〜八割程度しかないという事になります。

 また、マリアナ各地で待ちかまえる日本陸軍は、増援が積み重なった結果史実の数倍の規模で、質の面では沖縄戦よりも充実しています。


 まあ、ここでは次の戦いで使われる戦力の数字を中心にあげていったので、基本的にそれ以上語ることはないですね。



 また、日本の海上交通線はまだ途絶していませんし、連合国軍の日本本土爆撃も低調なので、日本のこの時期の生産力はまだ史実の四四年冬頃のレベルで維持されています。

 史実のこの辺りで開発の止まったり生産の停滞していた兵器が少し早く登場できる下地がある程度揃っています。


 このためいくつかの軍艦が就役しており、新兵器のいくつかが前線に姿を見せるようになっています。


 とは言っても、戦争をひっくり返すような「すーぱーうぇぽん」はほとんど登場しません。

 史実よりもドイツとの連絡潜水艦が行き来している可能性は少しばかり高くなりますが、どのみち日本にドイツの最先端の兵器をそのままコピーして量産する技術なんてありません。

 だから、新兵器が登場しても和製バズーカ(ロタ砲)やタ弾が関の山でしょう。ジェット戦闘機(爆撃機)の量産など思いもよりません。

 これを日本で沢山飛ばすには、最低でも日支事変頃からの時間犯罪が最低必要になるでしょう。


 戦前の日本の基礎工業力では、ドイツ軍の兵器をごく少数なら「生産」できても「量産」は不可能に近いんですよね。

 冶金技術からして一部を除いて大きく遅れています。

 産業状態を調べていると、あと五年か十年あれば話しもだいぶ違ったものになるのではと思わずにおられません。


 と言うわけで、結局日本は特攻作戦を行わざるを得なくなるだろうと判断しました。


 もちろん、期間の問題から規模は史実よりも小さなものでしょう。

 ですが、抵抗力のある時期に本土が叩かれているので、史実のフィリピン戦と沖縄戦の中間ぐらいの規模にまで膨れあがり、対策のとれない連合国軍に大きなダメージを与えることと思われます。

(ただし、史実のように練習機を投入するほどではない筈です)


 全般的な状態としては、航空戦力が一旦壊滅し海上戦力が半減したレイテ戦当時というところでしょうか。だから日本軍は、まだ何とかがんばれるんですね。


 それにしても、この段階でも自力で戦争の幕を引く事のできない日本政府・軍部って変えることできないんでしょうかねぇ・・・。

 結局私は何も思いつきませんでした。この件に関してはお手上げです。


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