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異聞・大東亜戦争  作者: 扶桑かつみ
23/40

■フェイズ十九「デスペレート・フロント」

●ドイツの抵抗


 「ノルマンディー上陸作戦」の成功によって、欧州での戦いにおける関心は、いつドイツが完全屈服するか、これに集約されるようになっていた。


 一九四三年夏以降、Uボートの魔力は失なわれた。

 一九四四年秋に入ると、ドイツの燃料問題が連合国軍爆撃機による精油施設の壊滅という致命的なダメージを受け、連合国軍がフランス上陸した事も重なってで安全な空が減りパイロットの大幅な練度低下をもたらした。

 連合国軍のドイツ本土爆撃は、いまだ数の揃わないジェット戦闘機以外、高射砲に頼る状態となりつつあった。


 当然、シュペーア軍需相が懸命になって維持しているドイツの生産力に、きつい降下線のグラフを描かせるようになった。

 しかも悪い事に、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの暗殺失敗による粛正劇で、ドイツは上層部から下部組織に至るまで大混乱に見舞われ、連合国に付け入るスキを与えた。


 一九四五年のクリスマスを前に全ドイツが連合国の軍靴によって蹂躙されるのは間違いないと考える者に、異論を挟める理性的な人間はごく僅かと言える状態だった。


 英語で言えば「desperateデスペレート」、つまり「絶望的」という言葉がこれ以上相応しい状況は、もはや存在しないだろう。何しろ、あとはどれだけ最後の瞬間を遅らせるかが焦点だったのだから。


 唯一の希望は、枢軸国軍二五〇万人の大部隊が展開する東部戦線がいまだロシア領内で維持されている事だったが、これも総数一〇〇〇万人を越えると見られるソ連赤軍を前にしては、全く楽観できないものだった。


 実質戦力差五対一という差は既に軍事常識の外であり、遅滞防御が主戦法とはいえ、制空権の失われつつある戦場でいまだ戦線が維持されているのは一つの奇蹟だとすら考える者が数多くいたほどだった。


 しかし、いかに奇蹟を現出させようとも、現状では対抗するのが精一杯で、とても優勢に立つことは不可能な状態だった。ヒトラー総統がいかに叫ぼうとも、いかんともしがたい状態だった。


 だが、まったく希望がないわけでもなかった。少なくとも一部の者と特にドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、まだまだ巻き返しは可能だと考えていたと思われる。

 その希望とは、世界第二位の工業国であり、世界一の科学技術を持つとされるドイツ工業界が開発している新兵器の存在だった。


 「V2」の名を与えられた世界初の準中距離弾道弾、世界初の実用ジェット戦闘機「Me262」を始めとするジェット機群、自重六十八トンにも及ぶ「七号重戦車ケーニヒス・ティーゲル」、新世代の潜水艦「U—XXI型」。

 それらすべては技術レベルという点においてなら、連合国の使用する無尽蔵な量産兵器群を十年以上先取りする先進的ものだった。

 しかも、さらに高性能の兵器も開発されつつあった。

 これらすべてが量産兵器として前線に姿を現したとき、それはドイツの復讐開始の瞬間であり、爆撃により吹き飛ばされ、戦場で無念にも倒れた同胞達への鎮魂歌の始まりだと考えられていた。


 そして、それら連合国を圧倒する新兵器が完成し次第、それらに生産の重点を移せるまで、しばらくは持久する方針が決定された。

 そしてクルスク戦がそうだったように、フランスに展開する連合国に対して痛撃を与え、反撃までの時間を稼ぎ出すための作戦が四四年の冬にドイツ総司令部で決定されていた。



 一方連合国側とって、ドイツ崩壊にかかる時間がどれほど先になるのかという点は、ノルマンディーに上陸して以後修正の連続を強いられていた。


 確かに一九四四年も秋に入ろうという頃、欧州の空はその多くが自らの手に入り、西では九月にパリを解放して、そのままの勢いでドイツ国境にジリジリと迫っていた。

 南ではローマを解放してドイツ軍を北イタリアに押し込め、同方面で戦う将兵達はこの年のクリスマスは無理でもあと半年後、遅くとも翌年春のイースターの頃には戦争が終わるのでは、と考えることに大きな異論はないとされていた。


 だが、それに大きな異論を持っているのが、東部戦線の将兵たちだった。



 四四年夏の大攻勢以来、徐々に東欧に向けて進撃 戦での野戦軍主力の壊滅という躓きが四五年に入っても続いていた。

 おかげで、いまだ完全に祖国の奪回をとげることはできていなかった。

 そればかりか、ドイツ東部戦線をささえる三つの軍集団は、拠点防御と遅滞防御、そして機動防御を駆使し、物量にまかせた平押ししかできない部隊を見つけては果敢に反撃してくる有様だった。

 当然ではあるが、局地的に反撃される都度に精鋭部隊の進撃速度も低下し、攻勢作戦は頓挫し、スターリンの怒りは増すばかりだった。


 そしてドイツ本土に近づくにつれて、新型重戦車やジェット戦闘機を始めとするドイツ新兵器の前に、物量差によって圧倒的な制空権を握った筈の空軍は局地的ではあるが翻弄された。

 特にドイツ軍機が執拗に狙った重爆撃機の損害は酷く、為政者の名を冠したご自慢の重戦車もドイツのさらに優れた戦車の前に呆気なく撃破され、完全な制空権を提供できない戦場での進撃速度はさらに低下していた。


 また、四四年末からの急な進撃によって補給線が伸びて進撃速度は低下し前線が乱れてしまい、そこを局地的にドイツ軍につけ込まれた。特にドイツ空軍は、後方の補給部隊の襲撃を執拗に行うようになり、ついに一九四四年十二月にミンスクを目の前にしてソ連軍の進撃は完全に停止した。

 一度徹底的な補給線の回復を図らねば、進撃がままならない状態となっていたのだ。


 そしてソ連にとって腹立たしい事に、西から進撃を続ける米英は、すでにフランスのほぼ全土を奪回してドイツ本土をうかがっているのに対して、自らはいまだ東欧前面でドイツ野戦軍を撃破できずにいた。

 このままでは、ドイツ本土が英米により占領されてしまいそうになっていた。


 これは祖国を蹂躙されたソ連、特に独裁者スターリンにとっては到底受け入れがたかった。

 再三再四、米英に対してソ連側に有利な進撃停止線の決定とドイツ及び東欧地域の分割解放もしくは占領を持ちかけていたが、逆に英米などにソ連赤軍の進撃の遅さを指摘され、満足した結果を得ることが出来ず、苛立ちを募らせるだけに終わっている。


 この頃の英米とのやり取りが、後の冷戦到来を早めたと言われるほどだ。



●バトル・オブ・ユーロ


  ゲルニカ爆撃を先駈けとして、一九四〇年からドイツによって開始された「戦略爆撃」という新たな殲滅戦争の形態は、一九四一年ドイツがソ連に侵攻した事とアメリカが参戦した事を主因として連合国軍の常套手段へと変化していた。


 《ランカスター》《B17》など多数の優れた重爆撃機を擁する連合国軍によって、ドイツを中心とした欧州大陸には、ドイツ西部を中心に膨大な量の爆弾がばらまかれるようになっていたのだ。


 特に有名なのは、「ゴモラ作戦」と呼ばれたハンブルグ連続爆撃だった。この爆撃は一九四三年七月二十四日から八月二日にかけて、Uボートの主要生産拠点の一つだったハンブルク市に対する集中的な爆撃が行われた。

 イギリス、アメリカの両空軍の重爆撃機のべ三〇〇〇機以上が、九〇〇〇トン(九キロトン=初期型原爆が十五キロトン程度の威力)もの爆弾や焼夷弾を投下した。

 爆撃の死者は一万人、負傷者四万人、市内の家屋の半分以上に当たる二十七万戸以上の家屋が倒壊ないしは焼失した。

 つまり一つの大都市が、爆撃により丸々破壊されてしまったのだ。


 この時のドイツのショックは極めて大きく、関係者が様々な対策をとろうとした。

 そしてこの時注目を集めたのが、二種類の戦闘機の存在だった。



 この頃、いや一九四二年秋以降、欧州の空での戦いは枢軸国側に不利となっていた。ドイツ本土は連日、昼はアメリカ軍、夜はイギリス軍の爆撃を受けるようになっていた。

 当然ドイツ空軍は連合国空軍の爆撃を防ぐため、数多くの戦闘機、夜間戦闘機を実戦配備し、総数三〇〇万人もの人員を防空戦に投入した。

 だが、当時レーダーの開発ではドイツはイギリスに若干遅れをとっており、物量の差もあって苦戦は否めなかった。


 そうした中発生したのが、ハンブルグ爆撃だったのだ。そして爆撃を知ったドイツ総統は現地住民の士気を鼓舞しなければならないと即座に判断し、空軍大臣に防空体制の強化を強く指示すると共に、自身が現地激励に赴むくと言い出してしまった。


 これは、クルスク戦での勝利がヒトラーを上機嫌にさせていた時期だったから発生した事件だと言われているが、彼は自らの眼前に広がった光景に愕然となる。

 そしてベルリンに帰るなり空軍大臣と軍需相を自室に呼ぶと、これまでになく強い調子で総統命令を発した。


 曰く、「ドイツ本土上空の制空権を、いかなる手段を持ってしても奪回するのだ。最も有効な手段を取れ。これは最優先の総統命令であり、いかなる例外も認める」と。


 そして最優先の総統命令という一札を得たシュペーア軍需相は、命令を文書化してもらうと早速精力的に活動し、二つの戦闘機の実戦化と大量配備を推し進めた。


 この二つの戦闘機が、《メッサーシュミット・Me262》ジェット戦闘機と《ハインケル・He219(ウーフー)》夜間戦闘機になる。


 世界初の実用ジェット戦闘機とされる《Me262》については今更説明も必要ないかと思うが、ここではその影に隠れがちな《ウーフー(梟)》についてだけ少し触れて次に進もう。


 なお、この時のメッサー社とハインケル社との政治的取引により、ハインケル社の持つ《He280》などのジェット機技術をメッサー社にすべて供与する事で《ウーフー》の量産が認められたという背景がある。

 このハインケル社に不利な決定も、ジェット戦闘機量産配備と昼夜双方での制空権奪回に賭けるシュペーア軍需相の決意が伺える。



 《He219(ウーフー)》は世界で初めて射出座席を採用し、胴体下部に火器を集中配置するなどした先進的な双発戦闘機だった。

 その他の応急的な夜間戦闘機より完成度ははるかに高く、配備された一部の機体は現場からは高い評価を受けた。

 だが、ヒトラーやナチスと折り合いの悪いハインケル社の機体だったため、前線からの強い要望があったにも関わらず少数の生産が行われただけだった。


 しかしヒトラーの気まぐれとシュペーアの尽力により、当初の十倍以上の二〇〇〇機以上の量産計画が軍需省の肝いりで承認され、四三年の晩秋に入る頃よりドイツの夜空を大量に舞うようになっていた。


 同機の戦闘力は、夜間戦闘機としては圧倒的の一言に尽きた。連合国の誇る《モスキート》を上回る格闘戦能力、圧倒的な速度と火力など、まさに《ウーフー(梟)》名に相応しい能力を持っていた。

 同機体の数が揃ってくるに従い、連合国の夜間爆撃機の損害は上昇カーブを描くようになった。統計数字上では、最終的に従来機よりも五〇%以上も多い損害を与えるようになったと言われている。

 つまり、仮にそれまで一回につき6%だった損害比率が9%に跳ね上がったと言う事だ。

 これは一〇〇〇機単位による爆撃を連日行う連合国軍にとって、補充を越える数字を示していた。


 しかも、爆撃標識を落としたり編隊防空を行う《モスキート》が集中的に狙われるようになったため、爆撃精度全体も大きく低下した。

 これはより重武装のタイプや対夜間戦闘機用に運動力を上昇させた《ウーフー》の改良型が登場した事で、連合国軍にとってますます状況は悪化していた。


 このため、一時期夜間爆撃を中止しようかという議論がノルマンディー上陸作戦直前まで英本土で交わされたほどだ。

 だが、昼間爆撃の損害もジェット戦闘機の多数登場によって徐々に上昇していた事と、何より大陸反抗の為にドイツ空軍をどのような手段でも消耗させる事は大陸反抗のために是非とも必要だった。

 故に、夜間爆撃に変わる手段がないとして却下された。連合国は、激しい出血を強いられつつも、ドイツ本土爆撃を継続するしかなかった。


 なお、連合国による昼間爆撃の効率が再び落ちたのは、四四年春頃から大量配備が始まった《Me262》がドイツ本土防空戦で奮闘していたからだ。

 金属で鎧われた燕と梟のため在来の機体では損害が増すばかりとなり、アメリカは太平洋にすべて回す予定だった新兵器の《B29(スーパーフォートレス)》を、その半数以上を欧州に持ち込む変化すらもたらしていた。



 なお、ドイツ防空隊の新たな力が充実した時、すでに時期をいささか逸していた。連合国の爆撃が破滅的レベルに達したのが、分岐点となったハンブルグ爆撃だったのは皮肉と言えば皮肉だろう。

 だが、そうであったとしてもドイツ防空戦闘機隊の活躍により、ドイツ本土に落ちる爆弾の量が一〇%近く低下したという統計資料の存在は特筆に値する。


 なにしろ、一〇%と言っても数万トンの量に達し、それまでの機体を用いるよりも約一五〇〇機も多く重爆撃機を叩き落としている事にもなるからだ。

 そして爆撃で破壊される筈だった施設が稼働したおかげで、ドイツの命脈は三ヶ月から半年は伸びたとすら言われている。



●ラインの守り


 一九四四年の冬、連合国軍の制空権が長い夜と不安定な天候により揺らぐこの時期、ドイツ総司令部は起死回生の反撃を計画する。


 一九四五年までにポーランド=ルーマニア国境前面にまで西に圧迫されていた東部戦線は、ソ連軍の息切れと補給態勢の混乱により戦線が安定していた。

 このため、それよりも脅威度の高い西部戦線での一大攻勢をヒトラーが決意したのだ。


 なお、この時期がドイツの反撃時期に指定されたもう一つの理由は、ルーマニア油田が健在なうちでなければ、燃料問題から大規模な戦闘を行うことは不可能だという切実な理由が存在した。

 既に東欧前面にまで迫っていたソ連赤軍がルーマニアを蹂躙する前に、何としても講和の糸口を見つける、いや反撃のための戦力を整える時間を稼ぎ出す必要があった事も、ヒトラーの決断を即したと言われている。



 作戦は、冬の低気圧が欧州全土を包み込み、連合国の制空権が機能しない間隙を抜く形で連合国前線を突破、事後重要補給拠点となっているアントワープ港を攻略して、西部戦線を安定化させるという、作戦規模はともかく比較的単純なものだった。


 このためドイツは気象情報を熱心に収集し、十二月中に開始されるという前提のもと、連合国の爆撃の合間を縫うように作戦準備を急いだ。

 そしてこの作戦の為あらゆる物資(特に燃料)が優先的に西部戦線に手配され、彼等の冬季攻勢が一段落し、精強部隊が一旦後方に下がったスキを見計らって攻撃は開始される。


 そして、作戦準備のためのドイツ側の計画的戦線整理と再編成のための兵力引き上げを、ドイツ軍の崩壊近しと楽観した連合国将兵が溢れる前線を、かつての勢いを取り戻したかのようなドイツ軍機甲部隊が突破していった。



 十二月十六日から開始された「ラインの守り作戦」は、当初完全に連合国の不意を付いた事から順調な進撃続けた。

 また、久しぶりに燃料問題と制空権問題が作戦を束縛しなかった事もドイツ軍の行動を自由なものとして、連合国が混乱しているうちに距離を稼ぐことに成功した。


 特に対戦車戦闘なら無敵と言ってよいであろう「ティーゲル・ツヴァイ」重戦車を多数装備する、武装SS第六軍の進撃は目覚ましかった。

 目の前に現れる連合国部隊を次々に粉砕しながら、往年を思い起こさせる電撃戦を展開していた。

 戦線によっては、退却する連合国軍をドイツ軍が追い越すという状況すら現出した。この大混乱によってホッジズ将軍率いる米第一軍は、短時間の間その半数が一時的に戦闘力を喪失していた。


 もちろん連合国軍側が、いつまでも混乱しているわけではなかった。

 自らの全般的優勢を信じる英米軍将兵のねばり強い防戦により、ドイツ側の進撃スケジュールは徐々に齟齬をきたし、ドイツ軍先鋒がアントワープを包囲する頃に戦いはクライマックスを迎える。


 ちょうどクリスマスイブを迎えたベネルクスの大地は、アントワープを巡って激しい戦いが行われていた。


 連合国軍は、アントワープに篭もった部隊が海上から補給を受けるだけの状態にまで追いつめられても抵抗を続けた。

 包囲されたアントワープ付近のドイツ軍を後方寸断すべく、パットン将軍の戦車軍団が反撃を開始しようとしていた。

 そして天候が回復した冬の空の上から、連合国のヤーボ(ヤクート・ボマー=戦闘爆撃機)がドイツ装甲集団に牙をむいた事で次なる転機を迎える。


 だが、連合国軍からのドイツ軍へのクリスマスプレゼントは、少しばかり遅かった。パットン戦車軍団は、武装SS第六軍の防衛線に真っ正面から激突して突撃衝力を失ってしまった。

 地上をはい回るだけになったとは言え、依然として精鋭だった空挺部隊すら投入したドイツ軍の無謀とすら言える攻勢の前に、アントワープの城門は遂に破られた。

 それ以外の目的地に達していたドイツ軍各部隊も、現地で防御陣地の構築に入っており、連合国の航空機が激しく攻撃するも効果的とは言い難く、ヒトラーの賭はギリギリのところで成功を収めた。



 ドイツ軍の成功により西部戦線の連合国軍は、半壊した第一軍の再編成とアントワープを起点として構築されていた補給体制の立て直しを余儀なくされた。

 特に補給ラインは、ノルマンディー橋頭堡を突破した頃と変わらない状態に追い込まれて大混乱した。

 この結果ドイツは文字通り一息つき、連合国の進撃スケジュールは最低でも三ヶ月遅れたと言われている。


 そしてこの戦いとクルスク戦、日本軍のマリアナ、レイテでの勝利を合わせると、最低でも半年、最大一年の時間を連合国は失ったと言われた。

 そこでの戦いにより失われた兵士と時間、そしてその遅れを取り戻すために必要なさらに多くの血と鉄量を考える市民の数は徐々に増え始め、主に英米政府は国民の厭戦気分という後背の敵も抱えなくてはならなくなっていた。


 そして大損害の根本的な原因は、連合国が枢軸各国の戦力を見誤り、進撃を急ぎすぎたからだとされた。


 なお、「ラインの守り」とレイテを巡る攻防で失われた連合国将兵は、捕虜も含めると約二十万人にも達し、その八割がアメリカ軍将兵だった点が重要だろう。




■解説もしくは補修授業「其の十九」


 ドイツ・マンセーな人向けのサービス・・・ではなく、連合国の大兵力を少しでも欧州に留め、日本に対する圧力を軽減するための経過を、少しドイツ軍に有利に戦争展開させて叶えるという以上のものではありません。


 また、クルスク戦で躓いているソ連は、史実の半年遅れで戦争をしており、しかもドイツ側の防御戦術が功を奏していまだドイツ野戦軍主力は撃滅できていないため、史実ほど豪快な進撃はできずにいます。

 ここで重要なのは、ロシア戦線の北方軍集団がドイツ本土から分断されていない点ですね。


 そして史実なら一九四五年春頃から大量の兵力が極東へと流れ始めるのですが、ここではそのような状況が訪れるのは、少なくともドイツ野戦軍を撃滅できるであろう時期、つまり史実より半年遅れた一九四五年晩秋という事になります。

 ドイツ・東欧への圧力を減らしてまで満州へ攻め込む理由はどう考えてもないので、ソ連の極東での大がかりな火遊びを阻止するための一手という事になります。


 一方、ルフトヴァッフェにも史実より奮闘してもらうための機材を早く、多く配備させる小細工をしたので、日本が本土爆撃に受ける負担を大きくこちらに吸収してもらいました。

 ジェットや高性能夜間戦闘機に対抗するため、B29の多くもこちらに流れ、その他の要因もあり日本本土爆撃は低調になる可能性が高くなります。



 なお、欧州戦線での細かな違いは、ドイツ本土に対する連合国の爆撃が史実より効果が低い事と、一九四四年冬の時点でドイツがルーマニア油田を保持しているため、ドイツの燃料事情がまだ良好な状態で維持されている事です。

 これにより油を分捕りながら進撃するというバルジ作戦(ラインの守り)のお約束的な様相は現出しなくなります。


 また、西部戦線にいる連合国部隊は、ノルマンディー上陸作戦初期に撃滅した精鋭空挺師団は損害から回復できていないので存在しません。

 だからバストーニュもあれ程抵抗せず陥落し、その他も最初の躓きから数個師団少な目で戦争が推移するので、その分戦力バランスがほんの少しだけドイツ有利に傾いています。これも、ブラッドレー将軍麾下の軍団がドイツ機甲軍を押し止められない要因としています。


 それともう一つ。連合国の主力空挺部隊がノルマンディーで大きな損害を受けているので、マーケット・ガーデン作戦は発生しておらず、両軍、特にドイツ側のこの戦いでの消耗はありません。その戦力もこの戦いで双方ぶつかり、攻撃側のイニシアチブを取るドイツ有利と判定しています。


 それ以外は、だいたい史実と同じと考えてもらえばオーケーかと思います。

 史実とは少し違う道を歩んでいたロンメル将軍も、ヒトラー暗殺未遂で自殺を強要されている事でしょう。こればかりは戦場の事はあまり関係ないのでどうにもなりませんでした。



 あ、そうそう、「ワルキューレ」で総統閣下が暗殺されるというフラグは、火葬戦記としては実に興味深いファクターなんですけど、そう言ったちゃぶ台返し的な戦略的環境の変化は、日本の大東亜戦争をもう少しなぞる上で邪魔なので、今しばらくしませんのであしからず。


 本作はあくまで、大東亞戦争を見ていくものですからね。



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