第4話 SSR
「ここ、桷の家?」
「シェアハウスな」
鍵を開け、中に入る。
招かれるまま桜も玄関に入った。
リビングでは二人の男女が寛いでいた。
「あ、桷おかえり」
「おかえり……っとおーい、皆!桷が彼女連れて来たぞ〜!」
「阿呆。彼女じゃなくて友人だ。高校時代の」
「なんだ、つまんねえの」
バタバタと階段を駆け下りてくる複数の足音。
廊下から数人が顔を出した。
「どれどれ?」
「どんな子?」
「うわー可愛いじゃん。桷には勿体無い」
急に十個の目に見つめられて顔が赤くなる。
「あ……お邪魔してます」
「彼女じゃなくて友人な。
電車で自殺未遂したから連れて来た。
紫苑、冬夜、悪いけどリビング空けてくれ」
「あらら、いい苦労してるね」
紫苑が笑った。
集まっていた人々がゾロゾロと二階に上がっていく。
アイランドキッチンに立った桷が鍋を火にかける。
数分経って深皿に盛られたのはホカホカと湯気を立てたロールキャベツだ。
「とりあえず食え。食って元気出せ」
「でも……」
「顔に掛けるぞ」
「い、いただきます」
箸で切って一口口に入れる。
キャベツの甘みと粗挽きの挽肉からジュワッと溢れ出る肉汁。
トマトクリームのスープが空腹の胃に優しく染み渡る。
「美味しい……」
ほろりと涙が零れた。
「あ……れ、私……」
何故だろう。
涙がはらはらと落ちていく。
涙は泉のように後から後から湧いて来て、止まる事を知らない。
流れ落ちる涙をそのままに、ロールキャベツを一口、また一口と口に運ぶ。
「美味いだろ?」
「うん」
「おかわりいるか?」
「ううん……ごちそうさまでした」
無心になって食べ終えた桜は箸を置き、きちんと両手を合わせた。
不思議と身体の隅々だけではなく、心まで温まっていた。
差し出された箱ティッシュからティッシュを数枚取り、涙を拭い洟をかんだ。
今度は湯気を上げたココアを差し出された。
「ありがと」
マグカップに口をつけると、甘いココアの香りが鼻腔に充満する。
温かくて、甘くてホッとする味だ。
コーヒーメーカーでコーヒーを淹れながら桷が口を開く。
「なんで今日死にたくなったんだ?」
暫く考えてから桜はポツリポツリと話し始めた。
「死のうと思った訳じゃ無いの。
線路に身体が吸い込まれたんだよ」
「は?」
桷は不可解そうに首を傾げた。
飛び込んだのではない。吸い込まれたのだ。
自分が何を思ったのか、改めて反芻する。
「……桔梗、私と同じ歳なのにインスタに沢山お洒落で綺麗な写真上げてたりとか、旦那さんと旅行行ったとか……キラキラしてて。
毎日充実してるんだなって。凄く幸せそうだった。
それに引き換え、私はコンビニと病院行く以外は寝てゲームしてご飯食べて寝るだけ。
生産性ゼロだなってなんだか虚しくなって」
「病気なんだから仕方ないだろ。休めよ。
てか俺インスタ嫌いなんだよな。あれどこが良いんだ?
インスタ映え〜とか言って行列並んで、結局みんなと同じ飯食って、みんなと同じ写真撮ってるだけじゃん。コピーかよ。個性出せ、個性」
「私は羨ましかったけど。
ああいう生活が送れたらきっとすごく楽しそう」
「お前の性格なら、向いてねえ。他人と比べて疲れるだけだ」
確かにそうかもしれない。
桜は今時珍しくSNSの類を一切やっていない化石のような女子だ。
桷の言う通りかもしれない。
桜はなんとも言えず苦笑した。
桷は黙ってコーヒーをマグカップに注いでいる。
「それで、ホームで電車待ってたら幻聴で悪口が聞こえてきて……毎食おにぎり一個しか食べてないとか、穀潰しとか、死んじゃえとか……それから、飛び込めって言われて、つい……」
「そうか。……だから泣いてたのか。
……キツかったな」
ポンポンと頭を撫でられた。
撫でられた所から身体中に優しさが広がっていく気がした。
「つか、ロールキャベツもう一個食え。
おにぎり一個生活とか栄養失調で死ぬぞ」
「野菜ジュースも飲んでるよ、時々」
「阿呆。どうせアレだろ?
『働いてないから親になるべく負担を掛けたくない。一番安いおにぎりにしよう』とかやってんだろ」
「なんでわかるの?」
「お前が阿呆だからだ」
問答無用でロールキャベツが深皿に盛られた。
言われた通り大人しくロールキャベツを食べる。
話しても良いだろうか。
重くは無いか?
桷を悲しませてしまうだろうか。
まるで喉に魚の小骨がつっかえたようだ。
「言いたい事があるなら言え。全部聞いてやる」
毒を食らわば皿まで。
桷に促され、今まで隠していた気持ちも全て話してしまう事にした。
「……でも、『死』については毎日考えてた。
どんな自殺方法なら失敗し辛いかとか、苦しく無いかとか……ネットで調べてたよ。
あと、ゴミ収集車の中でペシャンコに潰されるゴミを見ていた時、『今あの中に飛び込んだら死ねるな』とか考えてた。
健康だった頃はそんな事考えなかったけど。
ゲームしてる間は忘れられるから、必死に考えないようにしてた」
「そうか。希死念慮があるのか……。厄介だな」
「秘密にしてね。親には心配掛けたくないから」
「ああ、わかった」
桷に聞いてもらったお陰で少しだけ心が軽くなった。
桷が天井を仰ぐ。
「しっかし、統合失調症ねえ……」
「生涯発症率一%だってさ。
宝クジとか懸賞とか当たらないのになんで一%引いちゃうかなあ」
「母数が違うだろ。
つか、一%とかお前SSRだな、病気ガチャの」
「病気ガチャ」
桜は声を上げて笑った。
今日、初めて笑った気がした。
「ソシャゲの一%は当たるんだもん。
そりゃあ病気ガチャの一%を私が引いても変じゃないよね」
「だろ?人生百年の時代だぜ?大体のやつはいつかなんかの病気になるって」
桷が笑った。
「高校の一学年の生徒数覚えてるか?」
「大体三百人?」
「そ、掛ける三学年で九百……一つの学校で九人はなる計算だ」
「結構居るね」
「ああ、実はそう珍しい病気じゃない。
喘息と同じくらいポピュラーな病気だ」
「でも、周りで見たことないよ?」
「統合失調症の就業率は十五%程度と言われている。
そもそも社会に出ていないんだよ。
それにわざわざカミングアウトしないだけだろ。
鬱や発達障害より差別が根強い病気だからな」
ココアのマグカップを両手で抱えながら、桜がポツリと呟いた。
「桔梗、私が精神病だって知ったらちょっと引いてた。
やっぱりって思った」
「あいつ、『普通』の奴だからな。
零れ落ちた奴の気持ちは、零れ落ちた奴にしか分かんねえよ」
「桷には彼女紹介するって言ってたのに、私には声掛けてくれなかったの、寂しかった。
……昔はそういうの声掛けてくれたのに」
「言えば良かっただろ」
「相手方を騙すみたいで悪いよ。
蓋を開けてみたら事故物件だなんて」
「……お前も人の事言えないぞ」
桷が顔を顰めた。
桜が首を傾げた。
「偏見だよ。
同病で苦しんでる奴に同じ事言えんのかよ」
「あ……」
桷に言われて気付いた。
今の桜の発言『事故物件』。
それは統合失調症で苦しんでいる人達にとても失礼だ。
「そっか、そうだよね」
気付きたくなかった。
知りたくなかった。
自分の中に差別の芽があったなんて。
だけど、気付けて良かった。
「気付かせてくれてありがとう、桷」
「言葉はナイフだ。
お前はそうやって自分で自分を傷付けてたんだな。
独りで悩んでたんだろ」
「うーん……確かにちょっとネガティヴになってた」
桜がロールキャベツを食べ切り、ココアを飲み干すと桷が立ち上がった。
「家まで送る」
「ありがとう」
車で夜の道路をひた走る。
さっき車に乗った時とは全く違う気持ちだった。
明るくはないけれど、スッキリと満ち足りた気分だ。
桜の家に着いた時、桷が口を開いた。
「明日連れて行きたい所がある。
朝迎えに行くから支度しとけよ」
「わかった。今日はありがとう。また明日」
「ああ、またな」
玄関の鍵を開け、家に入ると父と母がリビングでテレビを見ていた。
「ただいま」
「おかえり、桜。遅かったね、今日は楽しかった?」
「うん。良い気分転換になったよ」
「晩御飯出来てるから。今温め直すね」
「あ、食べて来たから大丈夫」
「あら、そう?じゃあこれは明日の朝ご飯にするといいね」
母がにっこり笑った。
洗面所で手を洗い、うがいをする。
自室で服を着替え、就寝前内服薬を飲みにリビングに入ると、テレビを見ながら晩酌していた父が振り返った。
「桜、ちょっとこっちに来なさい」
「ちょっと待って。薬飲むから」
テーブルの上に置いた薬袋から薬を取り出す。
二種類の薬を一錠ずつ取り出してグラスに入った水で飲み込む。
「遊びに行けるんだからそろそろ働けるんじゃないのか」
「ごめん、具合悪いからその話明日にしてもらえる?」
一日中出歩いたせいで体調の悪さはマックスだ。
頭がグルグルとして、目が回りそうだ。
さっき不穏時の頓服を飲んでから四時間以上経っている。
もう一度抗不安薬を飲める時間だ。
「都合の良い時だけ病気を免罪符にするんじゃない」
抗不安薬を一錠取り出そうとしたが、手が震えてシートごと落としてしまった。
「ちょっと、お父さん」
「母さんは黙っていろ」
「本当に具合悪いんだってば!」
感情が爆発した。
ポロポロと堰を切ったように涙が溢れる。
「そうやってすぐ泣く!
病気になったのはお前の心が弱いからだ」
「ちょっとお父さん!誰のせいでもないって病院の先生がおっしゃっていたじゃない。
心じゃなくて脳の病気だって。
桜が悪い訳じゃないの」
母が庇ってくれた。
しかし、父の眉間には深い皺が刻まれていた。
床に落としてしまった薬のシートを拾い、一錠取り出しやっとの思いで薬を流し込む。
「もう寝る。おやすみ」
短く告げると桜は二階の自室に引き篭もった。
ベッドに入り込み、布団を頭の上まで被る。
——働きたい。
焦燥感で胸が焦げ付いた。
悔し涙がじわりじわりと枕を濡らしていく。
元々、父はあんなにイライラする性質ではなかった。
変わってしまったのは、桜が病気になってからだ。
最初は父も黙って見守ってくれていた。
精神科病院を退院してから半年が過ぎた頃だろうか、時々酒が入るとこれだ。
働けない桜を詰るようになった。
病気が治って働き出せば、父も元の優しい父に戻るだろうか。
「馬鹿」
「役立たず」
「今日死ねば良かった」
「折角背中を押してあげたのに」
「死ね」
「明日殺しに行くよ」
幻聴が始まった。
耳を塞ぐ。
声は消えない。
私は布団の中、不安に震え戦っていた。
自然を貫く果てしない叫びを聴いた。
もしもナイフがあったのなら、私はゴッホのように耳を削ぎ落としたのだろうか。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
私は個人的にはリア充なんて幻想だと思ってます。
毎日キラキラ楽しく過ごせている方はとても素敵ですけどね。
きっと努力の賜物なんでしょうね。
精神疾患は心の病気ではなく、脳の病気です。
育て方や心の弱さでなる物ではありません。
なんでも、五人に一人が精神疾患になる時代だとか。
骨折で病院に行くのとは違い、精神科には行きにくい空気がありますよね。
精神疾患は心の骨折です。勝手に治りません。
精神科に対する偏見が無くなると良いんですけどね。