第3話 大事な感情
グイッと身体を掴んで引っ張られる感覚に目を開けると、桷の怒った顔が目の前にあった。
「『またね』って言っただろうが、この嘘吐きが!」
怒鳴られて肩が震える。
「桷……なんで……」
「お前が死にそうな面してたから、気になって見送りに来たんだよ。そしたら案の定だ」
心臓が早鐘を打っている。
大きく深呼吸すると、周りを見回す余裕が出てきた。
二人は薄暗く狭い場所に居た。
「ここどこ?」
「ホーム下の退避スペース。
ったく、間に合って良かったぜ」
非常ベルが鳴り響きだした。
乗客の誰かが押したらしい。
その後は大変だった。
まず、列車が遅延した。
桷の口添えで桜が寝不足でふらつき、線路に落ちた事にしてくれた。
おかげで駅員に気を付けるよう厳重注意されただけで済んだ。
そして今、桜は桷の車に乗せられている。
桷は形のいい眉を寄せて、難しい顔で車を走らせていた。
明らかに怒っている。
「ごめん、桷。
一歩間違えたら桷まで巻き込む所だった」
「謝る所が違うだろ。言うなら礼を言え、礼を」
「……」
「桔梗に何か言われたのか?」
「ううん、何も。ただ——」
桔梗に悪気なんて無い。
悪いのは、私だ。
出来損ないの私が悪いのだ。
「ただ、惨めになった。私は役に立たない穀潰しで、何のために生きてるんだろうって」
桷が大きく息を吐き出した。
車が赤信号で停止した。
桷が助手席に座る桜を真っ直ぐ見つめた。
「……お前、母親好きか?」
「うん、好き」
「役に立つからか?」
「違うよ!」
桜は強く否定した。
「お前のお袋が線路に飛び込んだの見たらどんな気持ちになる?」
「……」
桜は黙りこくった。
桷に諭されて、やっと事態の大きさが飲み込めてきた。
幻聴に唆されたとはいえ、なんて事をしてしまったんだろう。
「それに、鉄道員の気持ちになってみろ。
電車が好きで好きで仕方なくて就職した奴に肉片拾わせる気か、お前は。
人身事故になって電車が止まると利用客何万人にも影響が出るんだぞ。
損害賠償金の支払いも遺族に行く。
お前はお前の家族に、お前を亡くした悲しみと罪悪感……色々な気持ちを味わわせる事になる所だった。
自殺の方法としては一番迷惑で最悪だ」
桜を叱る桷の目は見た事がないくらい真剣だった。
「役に立つかどうかなんか関係ねえ。
お前が生きているだけで嬉しい奴がいる。俺もだ。
お前の命はお前のもんじゃねえ。
勝手に死んでいい命なんて一つもないんだよ」
「うん」
「死にたいと思う事は悪い事じゃねえ。誰にでもある。
それもお前の大事な感情だ。
死にたくなったら俺に言え。幾らでも聞いてやる。いいな」
「うん……ありがと」
信号が青に変わった。
「そういや、さっき抗不安薬飲んでたみたいだが……お前、不安障害じゃなくて統合失調症だろ」
「桔梗に聞いたの?」
桜が問うた。
桷が首を振った。
「いや、匂いだ」
「匂い?」
「病気の奴の匂いがする」
「え」
自分で自分の匂いを嗅いでみるが、分からない。
「普通分かんねえよ。俺が敏感なだけ」
「そうなんだ」
やがて車は郊外の大きな一軒家のガレージにするりと滑り込んだ。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
死にたくなる事は誰にでもあります。
珍しい事でもおかしな事でも、恥ずかしい事でもありません。
誰かに聞いて貰いましょう。
誰にでも良いので辛さは口に出すと楽になりますよ。
辛さもあなたの大事な感情。
どうか死だけは選ばないで。