最終話 明日=明るい日
春になった。
久しぶりに札幌駅のスタバで桜と桷と桔梗の三人でお茶をすることになった。
「二人ともブラックコーヒー?
勿体無っ。てか、桜まで?」
「うん、ダイエット中だから」
「全然細いじゃん」
「薬の副作用で太りやすいんだとよ」
「へー、大変だねえ。ファイト!桜」
「ありがと」
席に座った桔梗がにっこり笑った。
「ジャジャーン」
そう言って桔梗が見せてきたのは一冊の本。
表紙には『マンガでわかる!統合失調症 家族の対応編』と書かれている。
「あれから本買って勉強したんだ、桜の病気の事。
家族じゃないから対応はちょっと違うかもだけど、あたしがなんか嫌な事したら教えてね。
そういうの、言ってくれなきゃ分かんないからさ」
そう言って桔梗が明るく笑う。
ほろりと桜の目から涙が溢れた。
「さ、桜?ど、どうしたの?
どっか痛い?辛い?大丈夫?
っていうかあんま心配し過ぎるのも良く無いんだっけ。
あたし何か出来る?」
「ううん、嬉しくて。
まさか桔梗が私の為にそこまでしてくれるなんて思わなかったから」
「あんたねー……」
桔梗が溜息を吐いた。
ペシッと軽く桜の額にデコピンする。
「何の為の友達だと思ってんの?
困った時には力になりたいに決まってんじゃん」
「うん、ありがと。
桔梗ってそういう良い奴だったなって改めて感動してるの」
少しだけデリカシーに欠けるけれど、友達の為なら一生懸命で優しい。
お節介が空回りする事もあるけれど、なんだか憎めない。
そんな桔梗が桜は大好きだった。
それを改めて思い出したのだ。
「もう、大袈裟だなー、桜は」
「良かったな、桜」
桷が微笑んだ。
「ネットでも調べてみたけどあんま分かんなくてさー。文章堅くて。
前に会った日の帰りに駅前の紀伊國屋で一番読みやすそうな本買ったわ。
あたし、本は漫画かファッション誌しか読まないからさ」
「ぐすっ……そっか。嬉しい」
「桜は病気になってから泣き虫になったな」
「仕方ないじゃない。
感情が大きく動くようになっちゃったんだから」
桜がむくれる。
桷がハンカチを貸してくれ、桜の頭をポンポンと撫でた。
統合失調症は脳に身体も心も振り回される病だ。
病気のせいだから仕方ないのだ。
「へー……ほー……ふーん。
何、二人共あたしの知らない所で会ってるの?」
「職場が一緒だからな」
「うん、桷の紹介でね」
「桜、仕事復帰出来たんだ!おめでとう!
でも、バーでしょ?桜絡まれたりしてない?」
「あ、バーに併設されてる工房でトンボ玉作ってるの。昼間はカフェ」
「昼間カフェでバーに工房?変わってるね。
でも、トンボ玉かあ。
美大出身のスキルが活かされてるって訳ね」
桔梗がなんとかフラペチーノを一口飲む。
お洒落な飲み物の名前は覚えていないけれど、もう桜は気後れしない。
お洒落じゃなくていい。
リア充じゃなくていい。
「桜、表情明るくなったね」
「うん、お仕事楽しいから。毎日職場に行くのが楽しみなの」
「毎日頑張ってるんだねえ」
「私は桔梗と逆。
頑張るのを止めたら、明日が『明るい日』になったよ。
上昇志向だけが全てじゃないって思ったんだ」
「うん?……まあ、人それぞれだよね」
やれるだけやってみよう。
頑張り過ぎない程度に頑張る。
駄目な自分で良い。
デコボコのはみ出し者で良い。
今はそんな気持ちだ。
手は抜かないが、楽にやる。
社会の枠に自分を押し殺して無理に嵌めなくて良い。
あれが欲しい、これが欲しい。
もっと上へ、上へ。
憧れのリア充。キラキラした世界。
不甲斐ない現実とかけ離れた理想の自分。
そんな幻想のドッペルゲンガーはもう居ない。
足るを知って諦める事を覚えたら楽になった。
上を向いて生きる事だけが正解じゃない。
「でもさあ、陰性症状だけで良かったよねー。
『死ね』とか聞こえるらしいじゃん。
桜が怖い思いしなくて良かったよ」
「ごめん。実は前に会った時、嘘吐いたの。
本当は幻聴さんも幻覚さんも居るの」
「何故さん付け。てか何で嘘吐いたの?」
「桔梗が引いてたから」
「え?あたし引いてるつもり無かったけど?」
「そう見えたよ」
精神の病気だと知って桔梗の表情は強張っていた。
幻聴・幻覚があるか、腫れ物を触るように尋ねられた。
桔梗は何度か瞬きしてから右上を見た。
「んー……でも、何話して良いか分かんなかったから困ったには困ったな。
鬱の人に『頑張れ』って言っちゃいけないって言うじゃん?
禁句とかあるのかなぁって悩んでた。
それが引いてたように見えたなら謝る。ごめん」
「えっと、私こそごめん。
なんか、勘違いしちゃったみたい」
桜の被害妄想だったのだろうか。
「てか、二人の職場行ってみたいー」
桜と桷が顔を見合わせた。
「良いけど、覚悟しておいた方が良いよ」
「何の?」
「『問題が多い料理店』だからな」
「『問題が多い料理店』?何それ?」
「行けば分かるよ」
桷の車で4Uに行った。
まだ昼間の為、工房を案内する。
「あれ?桜ちゃん、今日友達と会うって言ってなかった?」
「はい。今日はその友達を連れて来たんです」
「あ、その子?
双極性障害の冬夜ですー、よろしくね」
「不安障害と不眠症の紫苑だよ」
次々と始まる、4Uお決まりの自己紹介。
桔梗は目を白黒させていた。
気圧された桔梗は「き、桔梗です」と振り絞るように言うのがやっとだった。
工房を見学し終えた桔梗はカフェで桃花に旦那や仕事の愚痴を聞いて貰っている。
桃花は聞き上手だ。気が合ったらしい。
やがて仕事を終えた冬夜達が合流し、酒盛りが始まった。
ムーンウォークで現れたMJ。
料理をねだるサバイバー村崎。
時々聞こえる棗の音声チックに次々起こる騒動。
桔梗は明らかに引いていた。
しかし、最初は戸惑っていた桔梗も、酒が進む内に笑顔で手拍子しながらMJのステージを見るまでになった。
「なんだ、案外普通だね。
だいぶ変わった人も居るけど。
精神病の患者ってもっと怖い人達かと思ってた」
「皆変だけど害は無いよ」
桜がくすりと笑う。
桔梗がこっそり耳打ちした。
「あと、ごめん。あたしさっき嘘吐いた。
本当は前に会った時、幻聴・幻覚があるとか怖いと思って訊いたんだ。
あの時、桜が正直にあるって答えてたら引いてたと思う。
『クスリ』とかやってなったのかなって思って」
幻覚というと一般的には覚醒剤や麻薬のイメージだ。
原因不明の脳の病で幻覚が見えるなど、身近にそういった病気の人間でもいない限り知らなくても無理は無い。
現に桜は初めて幻覚が見えた時、幻覚だと分かっていながらその事を親に伝えなかった。
突然幻覚が見えるなどと言えば、親に心配を掛けると思ったからだ。
桜は苦笑した。
「やっぱ気のせいじゃなかったんだ。
正直に話してくれてありがと」
桷がニヤリと笑う。
「この店は『差別偏見をお持ちのお方大歓迎』だからな」
「あはは、あたしメッチャ歓迎されてる。
差別なんて良くないって思ってたけど、あたしもそうだったんだねー」
それから数日後。
昼休憩中に桷が現れた。
「桜、今ちょっといいか?」
「あれ?桷。昼間から来るなんて珍しいね」
「今日は特別な日だからね」
冬夜が言った。
「特別な日?誰か誕生日だっけ?」
桜が首を傾げると桷が無表情で淡々と口を開いた。
「俺の姉貴の命日だ」
桷と二人、店の裏の浜辺を歩く。
小石がゴロゴロ転がっていて歩きにくい。
桷はどんどん先に歩いていく。
「桷、お姉さん居たんだね」
「ああ」
立ち止まった桷は短く答えたっきり、暫く黙って小石を海に投げて水切りをしていた。
「桜、お前……今も死にたいか?」
やがて、ポツリと尋ねた。
桷にしては弱々しい声だった。
「ううん、全然。
桷や皆のお陰で毎日楽しいもん。
だけどちょっとだけ……」
桜は一旦言葉を切り、小石を海に向かって投げた。
桷のように上手く水切りは出来ず、小石はぽちゃんと海に沈んだ。
「死ぬのが楽しみになってきたかも」
桜はニヤリと笑った。
「毎日皆で馬鹿やりながら笑って笑って、歳取って、皺くちゃのお婆ちゃんになるの。
そうやって死んでいくんだって思ったら、死ぬのも何だが怖くなくなった。
皆と一緒に生きていきたいって思えるようになったんだ」
「そうか」
桷が優しく桜の頭を撫でた。
——私は一度絶望した。
ドン底に居た。
ならばもう上がるしかないじゃないか。
「病気になる前より、『生きてる』って感じがする。
全部、桷のお陰だよ。
桷が気付いて助けてくれたから。
……桷って凄いよね。
人の気持ち、何でも分かっちゃうんだもん」
「何でも分かっちゃいねえよ。
もし俺にそんな力があったら、姉貴は死なずに済んだんだ」
桷は大きく深呼吸をした。
「俺の姉貴も統合失調症だった」
「……そうだったんだ」
「回復期になった姉貴は仕事に行って来ると言って出掛けた。
姉貴が弁当を忘れているのに気付いた俺は後を追い掛けたんだ。
改札口を通ってホームに着いた俺の目に飛び込んできたのは……電車に飛び込む姉貴の姿だった」
桜は息を呑んだ。
「遺書も無い。
だから、何故死を選んだのかも分からない。
……改札口で別れたお前の表情が、あの日の朝の姉貴にそっくりだった……それだけの話だ」
桷は再び小石で水切りをした。
「あの時助けて桜は幸せなのか今でも迷ってた。
死にたい桜を生かすのは、俺のエゴなんじゃないかと思ってた。
オランダやスイスでは安楽死が認められてる。
死は一瞬だが、生は一生だ。
苦しみを背負うには余りに長い」
小石が綺麗な放物線を描いて水の上で踊る。
「だが、俺は桜が生きていてくれて本当に嬉しかった。
死なせたくなかった。
幸せそうに笑ってるお前が好きだ」
「ありがと、桷。
私も桷が大好きだよ。友達だから……。
助けてくれた事、一生忘れないよ」
そう言って桜は小石を海に向かって投げた。
石は跳ね返る事なくまた沈んだ。
「下手くそ」
「う、海が石を離さないんだよ」
「バーカ、こうやって投げるんだよ」
桷が投げた小石は何度も水面で跳ね返って、やがて水底に静かに沈んだ。
「見えなくなれば良いと思ってた。
聞こえなくなれば良いと思ってた。
でも今は、妖怪が見えなくなる方が怖いんだ」
桜は快方に向かっているのか、少しずつ幻聴さんも幻覚さんも減っている。
その内完全に消えるのかもしれない。
しかし、それは少し寂しいと思った。
描いた幻覚さんの一人一人が愛おしい。
皆が好きだと言ってくれる、私の幻覚さん達。
幻聴は消えない。
幻覚も見える。
けれど、それでも構わないと思った。
百人に一人しか見えない世界。
普通の人より少しだけ騒がしい日々。
私達は普通の人より、ほんの少し豊かな世界で暮らしている。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
ブクマ・感想・評価ありがとうございます!
皆様の応援のお陰で昨日の日間ランキング現実世界(恋愛)カテゴリで66位にランクインしました!
本当にありがとうございます!
今はまだ恋愛する余裕の無い桜ですが、本編終了後、冬夜と桷、どちらかとくっついて幸せになるのだろうと思います。
コメント欄を見ると冬夜派と桷派両方居たので迷ったというのもあり、余白を残して終わらせました。
読者様の好きな方で脳内補完して頂ければと。
もしかしたら「障害者差別に繋がる!」なんてコメントが来るかも…と炎上覚悟で書いた小説だったのですが、勇気を貰ったとか、共感できた、救われたなどこちらの感想欄だけでなくTwitterのDMでも嬉しい感想を何人もの方から頂きました。
こちらも皆様から元気が貰えました。
勇気を出して書いて良かったです。




