第22話 母はビョーキ
桜は最近、カフェ4Uに休みの日まで入り浸っている。
家に居るより居心地が良いのだ。
特に今日は平日。
共働きの両親は仕事で家に居ない為、家に居ても独りぼっちでつまらないのだ。
カランカランと鳴り響く、涼やかなドアベルの音。
入口には平日の午前中だというのに小学六年生位の女の子がむすっとした顔で立っていた。
学校はどうしたのだろう。
桃花が優しく笑う。
「鈴菜ちゃん、また遊びに来てくれたのね」
「違うよ。逃げてきたの」
鈴菜はドサッと乱雑にカウンター席に座る。
「相変わらず苦労してるわね」
「もうやだ。ママなんか死んじゃえば良いのに」
「そんな事言っちゃダメですよ」
桜がギョッとして言うと、鈴菜に睨まれた。
「どんな事でも言うのは自由よ、桜ちゃん。
辛さは口に出した方が良いわ。
吐き出した方が楽になるし、それも鈴菜ちゃんの大事な感情だから」
桃花が気遣わしげに笑う。
「鈴菜ちゃんのお母さんは統合失調症なのよ。
しかも、病識が無いの」
病識とは、自分が病気だという自覚の事だ。
統合失調症の患者には病識が無い者が多い。
治療を続け、症状が良くなるにつれて自分が病気だという自覚が出てくる。
「それは大変ですね」
「口ばっかり。
あたしの辛さがあんたに分かる訳ないよ」
「そうだね、わからない。
だから話してくれないかい、君の話を」
桜が優しく笑った。
鈴菜は大きく目を見開いた。
桜が笑顔でメニューを差し出す。
「鈴菜ちゃん、何飲む?あ、ケーキも美味しいよ」
「今日は財布忘れたから良い」
「ご馳走するよ」
「じゃあ、アップルティーのアイスと苺のシフォンケーキ」
「……はい、お待ちどうさま。
アイスアップルティーと苺のシフォンケーキよ」
ガムシロップを入れたアップルティーをストローで一口飲むと、鈴菜は話し始めた。
「今日はママ、大声で泣きながら壁を殴ったの」
「怖かったね」
「別に。慣れてる」
どう見ても強がりだ。
鈴菜は震えている。
「強いのね」
桃花は気付かない振りをした。
「鈴菜ちゃんは怪我は無いの?」
「無いよ。いつも殴られる前に逃げるから」
「そう、怪我が無くて何よりね」
「でも、うちの壁は穴だらけなの。
どうして壁を壊すのかな」
「統合失調症患者が壁を殴ったり暴れるのはSOSのサインなんだよ。
辛くて辛くて、辛さから逃げようとする。
でも辛すぎて我慢出来ないから爆発する。
結果的に壁が壊れる。
もしかしたら、壁を殴るのは鈴菜ちゃんに八つ当たりで攻撃しない為かもしれないよ」
「ふーん」
「今日は学校お休み?開校記念日かな?」
「行ってない」
鈴菜の表情が翳った。
「イジメられるもん。ママが頭おかしいから」
「学校の先生に相談はした?」
「したよ。
でも、先生はあたしのママは頭おかしくなんてないし、皆と仲良くしなさいって」
ピンク色をした苺のシフォンケーキを食べながら鈴菜が目を伏せる。
「『あんなに良いお母さんでしょう、頭おかしいなんて言っちゃダメ』って先生は言うの。
ママは先生の前でだけ良い人の振りするの」
「統合失調症って、いつもおかしい訳じゃないんだ。
調子が良い時と悪い時があるの。
キチンとしなきゃって本人が強く意識するとキチンと出来たりするものだよ。
特に、知らない人や親しくない人の前ではね」
「ふーん」
鈴菜が溜息を吐いた。
「先生やクラスの皆から手書きの手紙が来るの。
学校で皆待ってるって。早く学校に来いって」
「何その地獄」
桜が顔を顰めた。
先生は良かれと思ってやっている事だろう。
しかし、不登校の子供にとっては嫌がらせにも等しい。
「そういえば、私のクラスにもあったわ、手紙係。
休んだ子に手書きの手紙とプリントを届ける係で、『うしろのまきちゃん係』って呼ばれてたわ」
「うしろのまきちゃん、懐かしいですねー。
小二の国語でしたっけ」
「手紙は私も迷惑だと思ってたわ。
全然心のこもってない手紙が大して仲良くない子から届くんだもの。
ほっこりするうしろのまきちゃんとは大違いよ」
桃花は目を伏せた。
憂いのある表情は色っぽくて桜は妙にドギマギした。
桜が悪戯っぽく笑う。
「嫌な事からは逃げれば良いよ。
逃げるのは負けじゃないもの。
学校なんて行かなくても良いんじゃない?
大人になると分かるけど、学校程変な場所ってないよ」
「例えば?」
「先生は皆と仲良くしなさいって言うでしょ?
皆違う人間なんだから、一人一人合う合わないがある。嫌いな子も居る。
それなのに無理に仲良くしないといけないって変でしょ。
『関わらない』って選択肢が無いの。
大人になると皆そうするのに」
桜はココアを一口飲むと言葉を継いだ。
「小学生の頃、意地悪してくる男の子が居てね、先生に相談したの。
そしたら仲良くなるようにって席替えで隣の席にされたの。一年間ずーっとだよ?」
「学校の先生って結構無神経よね。
当然、オーナーのように良い先生もいるけれど」
桜は目を丸くした。
「オーナー、先生だったんですか?」
「ええ。元校長先生よ。
ここは鈴菜ちゃんのような子供達の『第三の居場所』として作られた部分もあってね。
桷が不登校の頃はよく来てたわ」
「へー、そうなんですね。
確かに放課後の時間帯は子供達がよく来ますよね。
話を戻すけれど、『先生は今までの人生で嫌いな人って居なかったんですか?』って訊いたら先生、困ってたよ」
桜が茶目っ気たっぷりに笑った。
桃花がくすくすと笑う。
「私も似たような事を訊いた事があるわ。
先生と話すのが好きで職員室に入り浸っていたから、先生同士でも仲間外れにされてる先生が居るのに気付いたのよ。
『先生、どうして山田先生はいつも一人なんですか。イジメに遭っているんですか?』って訊いたら怒られたわ」
「私なんて、『本ばかり読んでないで外で遊びなさい』って言われたから図書室の本を持ち出して木登りして本を読んだの。
叱られたけれど、『木登りして外で遊びました』って言ったら先生呆れてたっけ。
他の皆には本を読めって言うのに私だけ不公平だと思ってたよ」
鈴菜が声を上げて笑った。
「桜って優等生っぽいのに屁理屈こねるんだね」
「話が脱線したわね。
でもね、学校で学べる事って少ないわ。
人生なんて四則演算とひらがなと『勇気』があれば生きていけるもの」
桃花が人差し指を立てて色っぽく笑う。
「四則演算とひらがなと勇気?」
鈴菜が訊き返す。
「そう。学校で習うお勉強で一番大事なのは四則演算とひらがなだけよ。
最低限の簡単な算数だけは出来た方が良いわ。
文字はスマホで調べれば良い。
常識なんて要らない。おバカさんで結構。
分数の割り算や微分積分なんて大人になったら使わないもの」
「将来工学系に進むつもりなら必須ですけどね。
電子機器を作る時なんかに微分積分は使いますから。
分数の割り算は……あれ、どこで使ってるんでしょう?」
「さあ?数学的な考え方を養う為じゃないかしら」
桃花が首を傾げた。
「次に必要な勇気。
困った時に助けてって声を上げるのにも勇気がいる。
声をかけるのは誰でも良いわ。
必死に声を上げ続ければ、誰かが必ず応えてくれる。
特に、ここに居る皆はあなたの味方よ、鈴菜ちゃん」
桃花がにっこり笑うと、鈴菜もほんの少し笑った。
「あたしも桃花姉みたいに早く一人で生きていきたいなあ」
「あら……私、一人じゃないわよ?」
「そうじゃなくて、大人になりたいの」
「大人って長いのよ?」
「今出来るだけ沢山、楽しい事すると良いよ。
大人になると不思議と子供に戻りたくなるから」
「桜は子供に戻りたいの?」
「時々ね」
「今でも十分子供っぽいよ」
鈴菜は容赦が無い。
「あはは、痛い所突くなあ。
大人になったらなんていうか……もっとこう『大人』になれると思ってたけど、実際は難しいんだ」
子供の頃思い描いていた大人になった自分はもっと賢くて、格好良くて、バリバリ働くキャリアウーマンだった。
しかし、現実は毎日働くことすらままならない。
「うちはどうして普通じゃないんだろう。
あたしが良い子にしてたらパパとママは元通りになると思う?」
「鈴菜ちゃんのせいじゃないわ。
パパとママの問題ね。
それに、鈴菜ちゃんはとっても良い子じゃないの」
要領を得ない顔をしている桜に桃花が耳打ちした。
「鈴菜ちゃんのご両親、離婚してるのよ。
お母さんが発症してからね」
鈴菜はアップルティーのストローをくるくる回す。
「パパは日曜日だけ遊びに連れてってくれるの。
遊園地とか、動物園とか、映画とか。
お小遣いも沢山くれる。会う度一万円。だけど……」
「一緒に暮らしたい?」
桜の問いに鈴菜が頷く。
「その事、お父さんに言った?」
「言ってない」
「じゃあ、頼んでごらん」
「ママと離れるのは嫌。
あたしが居ないとママ死んじゃうもん。
あたしが面倒見てるの」
「え?」
「ママはいつも寝てて、ご飯作らないからあたしが買って来てる」
「食費はどうしてるの?」
「パパの養育費」
鈴菜が短く答えた。
「鈴菜ちゃんがすっごく困ってるってお父さんに伝えたかい?」
「言ってない。パパ仕事で忙しいし、心配掛けたく無いから」
「心配されるの、嫌いかしら?」
「良いんだ。あたしが我慢すれば良いの」
目を伏せ溜息を吐いた鈴菜は小学生には見えない程大人びていた。
「良くないよ。私は心配だよ。
鈴菜ちゃんが、心配。辛いの、我慢しないで」
「桜って変わってるね。
会ったばかりなのに、変なの」
「こいつはこういう奴なんだ」
「桷お兄ちゃん」
「よう、鈴菜」
桷がいつの間にか桜の後ろに立っていた。
「桷、どしたの。こんな時間に」
「桃花に呼び出された。
鈴菜が来てるって言ってな」
「わざわざありがとうね、桷。
でも、4Uの仲間で誰よりも鈴菜ちゃんの気持ちが分かるのは桷だから」
桃花が笑った。
4Uオーナーの藤四郎がバックヤードからひょっこり顔を出した。
「やあ、鈴菜くん。今日もサボりかい?」
「あ、藤四郎おじちゃん。こんにちは」
「こんにちは。今日はどんな苦労があったのかな?」
藤四郎が澄んだ瞳で尋ねた。
「実はね……」
桜達にした話を鈴菜は繰り返した。
口髭を撫で付けると、藤四郎がにっこり笑った。
「これからお父さんに頼みに行ってはどうかね?」
「今から?」
「ああ、もうすぐ丁度お昼休みだ。
お父さんに会うならそのタイミングしかないだろう?」
鈴菜はやや悩んでから頷いた。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
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小学校でいじめっ子と席が隣は実話です。
しかも、担任が変わるまで二年間。
左は気に入らない事があるとすぐに殴る蹴るの太った暴力男子、右は人の悪口しか言わない口から先に生まれたような男の子。地獄でした。
クラス中が彼らの被害に遭っていたのに二人共クラスの皆と遊んでいるので不思議に思っていたのですが、ある時二人が後ろを向いた途端にクラス中が親指を下げる『死ね』のハンドサインでニヤニヤ無言のブーイング。
皆イジメられたくないからご機嫌を取っていただけで本当は二人共友達ゼロ。
『私は辛くても友達がいるけど、あいつら本当に独りぼっちなんだ』。
そう気付いたら無性に悲しくなって涙が溢れました。
二人共大嫌いだけど、百%悪い奴じゃないし優しい所も面白い所もある奴らなのに。
クラスの皆の卑怯さにも嫌気が差しました。
ちなみに、最終的に学級崩壊しました。
統合失調症の急性期の時、私はずっとまくしたてるように色んな話を母に喋り続けてました。
しかし、正常な部分もあって実家のお風呂が壊れ気味だったので、危ないから修理するまで同じマンション内の一人暮らししてる私の部屋のお風呂を使った方が良いよと母に言ったり。
正常と異常が入り混じる私の状況に母は明らかにおかしいけれど……と困惑したそうです。
何か変だけど、私が『二人だけの秘密だよ』と言ってしまったせいで、別に住んでいる私の姉に相談する事も出来ずとても辛かったそうです。
病院に行ったのは発症してから十日後。
母は疲れてぐったりしていました。
統合失調症の家族は本当に大変です。




