第18話 冬夜
いつも十時出勤の冬夜が初めて九時に出勤してきた。
「おはよう、桜ちゃん!」
「おはようございます。今日は早いんですね」
「桜ちゃんに早く会いたくてね」
「それはどうも」
冬夜はにこにこといつも以上に明るい笑顔だ。
表情が輝いている。
作業台の椅子に腰掛けると鼻歌交じりにトンボ玉を作り始めた。
冬夜は一時間ずっと鼻歌を歌っていた。
誰が見ても上機嫌だ。
「冬夜さん、今日はえらくご機嫌ですね。
何か良いことでもあったんですか?」
「わかる?俺、病気治ったんだ!」
「え?」
桜はポカンと口を開けて呆けた。
冬夜は興奮した様子でまくし立てる。
「寝なくても全然平気だし、身体が軽いし、頭もスッキリしてる!
アイデアが次から次へと浮かんで来るんだ。
なんていうか、『ありがとう、世界!』って気分だよ」
「冬夜さん、それって……」
「冬夜、あんたそれただの躁だから。
薬ちゃんと飲んだ?」
今出勤したての紫苑がバッサリ切り捨てた。
冬夜が顔の前で手をブンブンと振る。
「へーき、へーき!だって俺元気だもん。
健康な人より健康な位だよ」
「そうやって薬飲まないで悪化させて何回入院したのさ。
いいから飲む!」
紫苑が両手を腰に当てて凄んだ。
しかし冬夜は陽気に笑った。
「今度はホントに治ったんだって!
それに、薬に甘えて頼り切るのって良くないよ。
西洋医学だけが全てじゃない。
副作用キツイし」
「冬夜さん、辛くてもお薬ちゃんと飲んで下さい。
双極性障害は十数年お薬飲む病気じゃないですか。
入院生活、辛いですよ?」
「えー……俺、元気なのに。
でも、桜ちゃんが言うなら仕方ないなあ」
渋々冬夜は薬を飲んだ。
「桜、グッジョブ。
躁状態の冬夜に薬飲ませるの、滅茶苦茶大変なんだよ」
紫苑が桜の耳元で囁いた。
双極性障害は中々厄介な病気で、元気が有り過ぎる躁状態と元気が無さ過ぎる鬱状態を繰り返す病だ。
発症率は千人に七人位と言われている。
躁と鬱の二つの極端な状態を繰り返す病である為、双極性障害と呼ばれる。
昔は躁鬱病と呼ばれていた為、鬱病の一種と誤解されがちだが、全く違う病気だ。
勿論治療法も異なる。
鬱病だと思って治療していても中々治らず、よくよく調べてみると双極性障害だったということはよくある話だ。
一日中冬夜の躁状態は続いた。
作業中は桜がぐったりする程のマシンガントーク、ガラスロッドを取りに行く時は楽しそうにスキップをしている。
休憩時間には「桜ちゃん、一緒に踊ろう」と言って一緒にくるくる踊らされた。
恥ずかしかった。
夜になっても冬夜の躁状態は治るどころか悪化していた。
「桷、俺カシスオレンジお代わり〜!」
「駄目だ」
桷がにべもなく断った。
冬夜が空になったグラスを手にぶーたれる。
「何でだよ〜!」
「医者に許可されているのは一杯までだろ。
それ以上は飲ませられん」
「うるせえな!良いから飲ませろ!
俺は客だぞ!」
冬夜が怒鳴った。
普段温厚な性格の冬夜の豹変っぷりに桜は固まっていた。
しかし、桷は表情一つ変えずに再び断る。
「駄目な物は駄目だ。
ソフトドリンクでも飲んでいろ」
そう言って桷がソフトドリンクの書かれたメニューを差し出す。
バァン!とテーブルを勢い良く冬夜が叩いた。
びくり、と桜の肩が震える。
「ふっざけんな、桷!
一々余計なお節介焼きやがって!」
「これが俺の仕事だ」
「うるせえ!」
冬夜が桷に掴みかかる。
「冬夜!やめな、桜が怖がってる」
「え?」
冬夜が振り返った。
目が合う。
冬夜の目から怒りが漣が引くように消えていった。
冬夜が大きく深呼吸する。
弱々しく笑った。
「怖がらせてごめん、桜ちゃん。
俺、頭に血が上ってた」
「私は大丈夫です。
それより桷に謝って下さい。
冬夜さんの為を思って止めてくれてたんですから」
冬夜は暫く無言だった。
「……悪かった」
「別に良い。慣れてる」
その夜、気まずい空気の中で飲み会はお開きになった。
翌日から冬夜はパタリと数日出勤して来なくなった。
心配になった桜は、シェアハウスで冬夜と一緒に暮らしている紫苑に尋ねる。
「冬夜さん、今日もお休みですか?
もしかして、風邪とかインフルエンザですか?」
「ああ、鬱が酷くてね。
ほら、雪降って寒くなって来たでしょ?
あいつ冬になると症状が悪化するんだよ」
「お見舞いとかは行かない方が良いですよね」
鬱病の人は見舞客が苦手な場合もある。
音に過敏で元気な人の大きな声が駄目だったりするケースもある。
双極性障害の抑鬱もそうなのだろうか。
そう思って尋ねると紫苑が頷いた。
「そだねー。
鬱状態の時にはエネルギー切れで人と会う気力が無いから、そっとして置いてやった方が良いな。
被害妄想も酷くなってるし、ちょっとの事でマイナス思考になるから、慣れてないあんたは戸惑うかも。
躁状態で桷と喧嘩したことで自己嫌悪になっててさあ。ずっと桷に謝ってるよ」
「心配ですね……」
「皆で交代で様子見てるから大丈夫だよ。
少しずつだけど食事もちゃんと摂ってるし、二週間位したらケロッとして出てくると思うよ」
その晩、桜は久し振りにお菓子を焼いた。
作ったのはフラップジャックス。
オートミールやバター、蜂蜜で出来たイギリスの伝統的な焼き菓子だ。
オーブンペーパーで天板より少し小さめの箱を作り、四隅を虫ピンで止めて焼き型を作る。
鍋にバターとグラニュー糖を入れて弱火で溶かし、溶けたら火から降ろして蜂蜜を加えて冷ます。
粗熱が取れたら予めふるっておいた薄力粉とベーキングパウダーを加えて木ベラでさっくり混ぜ、オートミールも加えて混ぜる。
天板に置いた型に生地を流し入れ、冷蔵庫で十分冷やし固める。
最後に百八十度のオーブンで二十分から二十五分焼き、人肌程度に冷ましてから一口大に切り分け、金網に載せて冷ませば完成だ。
久方ぶりのお菓子作りは手際が悪かった。
作り慣れたお菓子の筈なのに、途中で作業工程を忘れ、何度もレシピ本を確認しながらゆっくり作らざるを得なかった。
出来上がったフラップジャックスを一つ齧る。
程良い甘味とオートミールのザクザク食感。
それと相反するややねっとりとしたヌガーのような舌触り。
我ながら良い出来だ。
幾つもの可愛らしい花柄のビニール袋に小分けに入れ、リボンを巻いて可愛らしくラッピングした。
日頃からお世話になっている仲間達の分には小さなメッセージカードを添える。
冬夜の分のメッセージカードを書こうとして、筆が止まった。
『頑張れ』は禁句。
『待ってます』も変に焦らせてしまうかもしれない。
『早く元気になって下さいね』で良いだろうか。
いや、早くは余計だろう。
きっとプレッシャーになる。
ネットでどんな言葉を掛けたら良いのか検索してみたが、分からない。
精神疾患と一口に言っても様々だ。
双極性障害の人の気持ちは桜には分からない。
どんな言葉も陳腐で想いが伝わらない気がした。
結局、迷った末にボールペンで可愛らしく描いた冬夜の似顔絵と四つ葉のクローバーのイラストを描いた。
翌日、普段お世話になっている仲間達にお菓子を配ってから、冬夜の分は紫苑に託した。
十日後に冬夜は出勤してきた。
躁状態でもなければ鬱状態でもない。
至って普通の穏やかな冬夜だった。
「久しぶり、桜ちゃん」
「お久しぶりです。体調はもう大丈夫なんですか?」
「うん、全然オッケー。心配掛けてごめんね。
怖い思いもさせちゃったし」
「病気のせいだから仕方ないですよ」
「お菓子、美味しかったよ。ありがとね。
桜ちゃんって、桷の言う通りお菓子作り上手なんだね」
桜は照れて頬をかく。
「冬夜さん、お菓子食べたいって前に言ってたから」
「覚えててくれたんだ!?嬉しい〜。
初めて食べるお菓子だったんだけど、なんて名前のお菓子なの?」
「フラップジャックスです」
「天才外科医みたいな名前してるね」
「ブラックジャック」
桜は声を上げて笑った。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
ブクマ・感想ありがとうございます!励みになります。
双極性障害の方には数人会った事があるのですが、皆さんとても苦労されてました。
まず、鬱状態が辛い。兎に角辛い。
例えば鬱状態が酷すぎると挨拶しても無視する。
きっと辛くて喋る気力が無かったのでしょうね。
そして躁状態でトラブルを起こし、人間関係にヒビが入る。
病気が起こす『問題』とその人自身を切り分けて考える事はとても難しいので、一面しか見て貰えずそういう『性格』の人だと誤解される。
あくまで悪いのは『病気』。
本人が悪い訳じゃないんです。
パッと治る特効薬でも出来たら良いんですけどね。
フラップジャックスは私の好物です。
小さい頃母が焼いてくれた思い出のお菓子です。




