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第10話 水の旅ヨーロッパ編

花純(かすみ)が八錠の食後の薬を飲んでいるのを見て桜はあっと声を上げた。


「どうしよう……昨日お薬飲み忘れた」


桜は蒼ざめた。

薬を飲み忘れると、病気が再発しやすくなるのだ。


「一日くらい大丈夫だよ」

「でも……心配なので病院に確認します」


店の外に出た桜は慌てて病院に電話をした。

数コールの後、病院に電話が繋がった。


「もしもし、いつもお世話になっております。

そちらの病院に掛かっている京谷(きょうや)桜と申します。

昨日の就寝前薬を飲み忘れたんですが、どうしたら良いでしょうか?」

「それは良くないですね。

でも、一日くらい飲み忘れても大丈夫ですよ。

くれぐれも二日分まとめて飲んだりしないで下さい。

これからは気を付けて下さいね」

「はい、わかりました。

お手数お掛け致しました。失礼致します」


食堂に戻ると、冬夜(とうや)が明るい調子で尋ねた。


「どうだった?」

冬夜(とうや)さんの言う通り、大丈夫だって言われました」

「桜さん、薬の飲み忘れ防止なら服薬時間にアラームを掛けるといいぞ」


(さかき)がアドバイスしてくれた。


「アラームですか」

「ああ、腕時計でも携帯やスマホでもいいが、決まった時間にアラームを掛けて、アラームが鳴ったらどんな作業でも中断して薬を飲む。

これを徹底すると飲み忘れを防げる。

後はお薬カレンダーも便利だな」

「分かりました。アドバイスありがとうございます、(さかき)さん」


桜は早速スマホにアラームをセットする。

お薬カレンダーとは一日分ずつや毎食分ずつ、薬を仕舞っておけるウォールポケットのような物だ。

薬局に行くと売っている。

しかし、お薬カレンダーを桜は持っていない。


「私は薬を飲んだらツイッターで『#お薬もぐもぐ』って呟いて服薬記録を残してるわ。

二重服薬を防ぐ為にね」


スマホを操作していた花純(かすみ)が言う。


「『#お薬もぐもぐ』?」

「検索しちゃダメよ。自傷画像も一緒に上げている子も居るから」

「あ、ハイ」


桜は血が駄目なので絶対に検索したくない。


「でも、私ツイッターやってなくて……」

「薬袋に日付を書き込むのはどうかしら?」

「あ、良いですね、それ」

「それじゃ、私、先に作業に戻るわ」


食器の乗った盆を手に花純(かすみ)が居なくなった。

訊いても良いだろうか。

いや、失礼だろうか。

……当たり障りのない訊き方なら問題無いだろう。


(さかき)さん……私、お二人の馴れ初め聞きたいです」

花純(かすみ)のような重症患者と結婚した僕が不思議かい?」


図星を指されて桜は困惑した。

(さかき)は悪戯っぽい笑みを浮かべて話し始めた。


「ははは、桜さんは素直だね。

……花純(かすみ)はとても博学で頭の良い人なんだ。

さっきみたいな妄想話もするが、調子の良い時の彼女の話はウィットに富んでいて飽きない。

その上気立ても良く料理上手だ」

「最初は花純(かすみ)の恋愛妄想だったんだけどね、妄想が現実になっちゃったパターン。

大喧嘩してたと思ったらくっついちゃったんだもん。

いやー、皆で笑ったなー」


冬夜(とうや)が明るく笑った。

恋愛妄想とは『自分が愛されている』と根拠も無く思い込むことだ。

ちょっとした顔見知りから、果ては会った事も無い芸能人まで、対象は様々だ。


「最初は鬱陶しかったんだが、彼女の優しさに惹かれてね。

彼女の壮絶な生い立ちに同情して幸せにしてやりたいと思ったのもあるんだが……」

「壮絶な生い立ち、ですか?」


桜が聞き返すと、(さかき)は「独り言だ。気にしないでくれ」と笑った。


「そうだ、折角だから僕が入院中抱いていた妄想話でもしようか。

僕はもう寛解(かんかい)してるから、残念な事に新しい妄想話はもう無いんだけど……『水の旅ヨーロッパ編』と皆が呼んでいる話なんだが」


寛解(かんかい)とは病気による症状が好転またはほぼ消え、一時的あるいは永続的に病状がコントロールされた状態の事だ。

日常生活に支障の無い程度まで回復した状態を指す。

つまり、(さかき)は健常者とほぼ同じという事だ。

桜が身を乗り出した。


「『4U七不思議』の一つの?聞きたいです!」

「ははは、そう大層な話じゃない。

あまり期待せず聞いてくれ」


(さかき)がコーヒー片手に語り始めた。


「雨が降り、川になり、海へ注ぐ。

そうして蒸発した水が雲になりまた雨が降る。

僕はその大きな輪の中に身体の半分だけ取り込まれてしまったんだ。

ふわふわと浮かぶ雲になり、雨として降ると、僕はベネチアに居た」


(さかき)がコーヒーを一口飲む。


「色とりどりの仮面で顔を覆った人々が行き交うベネチアの運河を流れ、海へ辿り着く。

そうして僕は再び雲になった。

今度雨として降り立ったのはフランス、パリ。

エッフェル塔やエトワール凱旋門を尻目に僕は川から浄水場に流れ込んだ」

「じょ、浄水場!?」


いきなり急展開だ。


「そう、そして浄水場から家庭へと給水され、下水道を通り、三度目の海へ。

次はロンドンのビッグベン、オランダの風車……様々なヨーロッパを旅して最終的に日本へ帰国したという訳さ」

「景色が見える訳ですか?」

「保護室の真っ白い壁を見ているとふとそんなイメージが頭に浮かんだんだ。

元々、BSでやっているような世界遺産やヨーロッパ紀行なんかが好きだったからね。

その映像が組み合わさった妄想だったのだろうね。

つまらない話を長々と聞いてくれてありがとう。

これはお礼だよ」


そう言うと、チロルチョコを一つくれた。


「ありがとうございます。楽しかったです。

その上チョコレートまで頂いちゃって……」

「この職場は問題も多いが、君が良い苦労を出来る事を願っているよ。

それじゃ、僕は外で一服してくる」


(さかき)は食器を下げ、煙草片手に食堂を出て行った。


(さかき)さんが言ってた保護室ってどんな所なんでしょう……?」

「あー……あれは入らない方が良い。キツイ」


冬夜(とうや)が苦い顔をした。


「そういえば、冬夜(とうや)さんも入った事があるって昨日言ってましたよね」

「平たく言うと、隔離部屋。

真っ白い部屋にベッドとトイレだけがあるんだ。

内側にドアノブはない。

牢屋に入れられた気分だった」

「牢屋……」


桜は想像して顔を曇らせた。

冬夜(とうや)が明るく笑う。


「って言っても必要な措置だったって今ならわかるよ。

自殺しようとした人とか、暴れて他の患者さんや看護師さんに危害を加えそうな患者を落ち着くまで入れる所だってわかってるんだ。

俺の場合はゴミ箱ボコボコに蹴って壊したから入れられたんだけどさ。

だけどアレはなあ……」


冬夜(とうや)は鯖の味噌煮を一口口に入れ、咀嚼する。

飲み込んでから再び話し始めた。

今度はニヤッと笑っている。


「隣の保護室の奴、ずっとB'z熱唱してんの。

ウルトラソゥッ!ヘイ!が耳から離れなくってさあ」


桜は笑った。


「もう片方の隣の子は女の子で、『ごめんなさい!ごめんなさい!看護婦さん!看護婦さ〜ん!』ってずっと泣き叫んでた。『助けて、ここから出して』って。

身体拘束されてたらしい。

後で聞いたけど、凄く屈辱的な気分だったって。

本人曰く、まるで人間扱いされていないみたいな気持ちになったらしい」

「うわあ……」

「精神障害者って言っても、『何にもわからない』訳じゃないからねえ。

まあ……その子、病院中のハンドソープ飲んで自殺しようとしたから入れられたんだけどね」

「そういえば……病院のハンドソープ、ビデオテープの厚み位しか入ってませんでした。

頻繁に継ぎ足してるから変だなとは思ってたんですけど、飲んじゃう人居るんですね」

「そ。でもポディソープやシャンプーはボトルごと持ち込み可なんだよな。

それはそうと、桜ちゃんは何か無いの、面白エピソード」


冬夜(とうや)に振られて桜は困惑した。

病気になってからの奇行の数々は思い出しただけでも顔から火が出そうだ。

正直、口にするのは恥ずかしい。


「わ、私は、あんまり……恥ずかしいから言いたく無いです」

「そっか、ごめんごめん。困らせるつもりは無かったんだ」



午後からは午前中に作ったミルフィオリでトンボ玉を作った。

午前中をミルフィオリ作りの練習に費やした分、出来上がったトンボ玉は少ない。


「桜ちゃん、明日の分の芯棒、今日の内に作り置きしておくといいよ。

自然乾燥の方が乾かす手間が省ける分作業効率も良いから」

「わかりました」


冬夜(とうや)に言われた通り、離型剤に芯棒を浸す作業を始めた。

一見地味でトンボ玉作りと比べるとつまらない作業だが、トンボ玉の出来を左右する大事な作業だ。

数十本を作り置きし、桜は五時に終業した。


「桜ちゃん、今日も飲もうよ」

「うーん……折角ですけど、ごめんなさい。

お薬、家に置いてあるんです。

飲み忘れが怖いから今日はもう帰りますね」

「そっか、残念。

でもさ、桜ちゃん。薬は持ち歩いた方が良いよ。

大地震とか急に起こって、出先で帰宅難民にでもなったら薬飲めないだろ?」


冬夜(とうや)の指摘は尤もだ。

桜の通勤時間はバスで一時間だ。


「あ、考えた事も無かったです。

今まで家に引き篭もってたから……」

「明日は一緒に飲もう?」

「はい、是非」


桃花から給料袋を受け取り、一言断ってから中身を確認する。

お金はキチンと入っている。

ドアベルが鳴り、振り返ると(ずみ)が入ってくる所だった。


「あ、(ずみ)。今出勤?」

「お前朝八時から来てたのかよ……」

「うん。だーれも居なくてびっくりしちゃった」

「薬の副作用や過眠症で朝起きられない奴も多いからな。

あんまり頑張り過ぎるなよ」

「大丈夫、大丈夫!」

「お前の大丈夫は大丈夫じゃないからなー」

「大丈夫だもん」


家に帰った桜は昨日買った幻覚妄想日記を読み始めた。

病気になってから集中力が続かず活字から離れていたが、元々桜は本の虫。

桜の本棚には芥川龍之介、夏目漱石、太宰治などが所狭しと並んでいる。

桜は夢中になって本を読破した。


スマホのアラームが鳴る。

服薬時間だ。一階に降りて就寝前薬を飲む。


夜九時過ぎ、一通のメールが届いた。

冬夜(とうや)からだ。


『桜ちゃん今日もお疲れ様!お薬飲んだかい?』

『はい、飲みました。わざわざありがとうございます』

『良かった〜。それじゃあおやすみ。

良い夢を見れると良いね☆彡』

『はい!おやすみなさい』


ポチポチとメールを返信した。

冬夜(とうや)の気遣いが嬉しかった。

ここまで読んで頂きありがとうございました。


保護室は私は入った事がないので、人に聞いた話を元に脚色して書きました。

保護室に入った方は娯楽も無い真っ白な部屋に一日中いる事で気が狂いそうだったと皆口を揃えて言います。

もう二度と入りたくない、とも。

重症患者さんは大変ですね。


精神科病院での身体拘束は個人的には反対です。

患者の尊厳を踏み躙る行為だと思います。

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