(5)学院初めての夜!『クチビルが紫の人』は女王陛下じゃないからの~~~~~ッ! 絶対違うからの~~~~~ッ!
夕食を終えた後、リュカは風呂に入った。
郷里のルミノサス村では湯に浸かるのはよくて週に一度くらいだった。貧乏領地に湯を沸かすための魔学技術製品はまだなく、薪は冬に備えて蓄えておかねばならない貴重品なのだ。
幸い水源は豊かであったから、リュカは毎日冷たい水で丁寧に石鹸で体の垢を落とし、髪を洗っていたのだけれど、その雑な手入れの仕方がルー・アンの不興を買ったらしく、十分ほどリュカは説教を受けた。
石鹸で髪を洗うなんて真似をすれば、当然髪はパサパサになる。リュカの髪は豊かな金髪だった。金髪と言えば、この国では美男美女の代名詞だ。頭と股間が緩い奴の代名詞でもあるが。
とにかくせっかく天から与えられた素材を粗雑に扱っていることについて、ルー・アンはご立腹だったようだ。
ルー・アンの手業は丁寧で、かつ手早かった。
毛先は綺麗に切り揃えられ、リンスで丁寧に保護され、櫛を通された。気付けば爪の先まで綺麗に手入れされてしまっていた。
お陰でまとめて束ねた藁のようだったリュカの三つ編みは、今や見違えるような艶を放っている。
自分の髪や体から漂うさわやかな香草の香りに、却って違和感を覚える。
だが心地が良いのも事実だ。一通り荷物を片付け終えたリュカは、机に向かって書き物をしていた。
リュカの荷物はもともとあまり量がなかったこともあってすでにきっちりと片付けられている。リュカは几帳面な上、段取りが良かった。
ちなみにヴィーノの荷物はまだ部屋の中にざっくりと放置されている。荷物がそこそこあったうえ、ヴィーノは要領が悪かった。この件については一週間経過しても片付いていなければリュカによる強制的なお片付けが執り行われるということで話が付いている。
部屋はまだ明るく、天井の証明が部屋の隅々までをよく照らしていた。寮生が入れ替わる度に改装でもしているのだろうか。学費が高いだけあって、予算も有り余っているのだろう。家具も寝具もすべて新品同様で、実家の“何かしら出そう”なそれよりもずっと上等だった。
今リュカが座っている椅子にしても、学生にはどう考えてももったいない座り心地だった。
「寝ないのか?」
一足先に二段ベッドの上段を占拠していたヴィーノが、頭上から顔を覗かせる。。
リュカは顔を上げて、ちらりとヴィーノの方に視線を向ける。
一瞬だけ、天井が視界に入った。
天井板がかたりと動いたような気がした。気のせいか。うん、気のせいだろう。リュカは気にせずに口を開いた。
「うん。消灯時間までまだあるし、セリーナに手紙でも書こうかなと思って」
「セリーナ?」
「ええと……婚約者だよ」
「ああ」
リュカには婚約者がいる。親同士が決めた婚約ではあるが、不満を持ったことはなく、むしろ好意的に受け止めて来た。だからこそこうして折に触れ手紙のやり取りを交わしてもいる。
「絵姿を見る限りは美人……だと思う。でも会ったことはないんだ」
「そうなのか?」
「うん。彼女が暮らしてるポート・ジェラルディーナは遠いから――一応、ルミノサスまで旅行にきたお義父様と義弟には会ったことがあるんだけどね」
リュカの郷里であるルミノサス村は、オ・ディ・ビル王国北西部の山奥にある。そこからポート・ジェラルディーナに出るには一度王都ダイアンサスまで出て、ディアナ川をさかのぼり、ドルサーレ山脈を越えて、王国東岸部へ向かう必要があった。
ゼファランシア家に旅費を捻出する余裕はなかった。一方のポーリア伯爵家は『爵位を金で買った』と言われるような成金貴族だから当然金は持っているだろうが、病弱だというセリーナはそんな長旅に耐えられないだろう。
リュカとセリーナは物理的な距離に隔てられているのだ。
もっともこうした事情は王国において取り立てて珍しいことでもない。リュカも深刻そうな顔はしていないし、ヴィーノからも同情するようなそぶりは見えなかった。
「あ、それと」
セリーナへの手紙を書き終えたリュカは、ふとあることに思い至って机の引き出しから便箋をもう一枚取り出した。
「クチビルが紫の人にも手紙を書かなきゃ」
「クチビルが……何?」
「これだよ」
リュカは再び引き出しを開けると、一枚の手紙を取り出した。
リュカが口にした人物に興味を引かれたらしいヴィーノが体を起こし、二段ベッドの上段から降りて手紙を手に取る。
封筒も便箋もかなり上質なものと一目でわかるものだった。シンプルな象牙色の封筒はそれとない品の良さを感じさせる。
リュカは手紙にまつわる事情を語り始める。
「父上、特産品の研究のためだって母上がへそくりしてた僕の学費を使い込んでてさ」
「お前の父親マジでなんなの? クズなの?」
「母上がキレて父上の腕がもげて――まあそれは翌朝また生えてきてたから良かったんだけど」
「お前の父親マジでなんなの!? 人間なの!?」
「よくわかんないんだけど、本人曰く固有魔法の威力が“チート”なんだって……いや、パパのことはどうでもいいよ」
両親の多少過激な夫婦喧嘩も、その結果父親の腕やら脚やらが生え変わるのもリュカにとっては日常の風景である。そこを気にしても仕方ないのでヴィーノのツッコミを流してリュカは話を続けた。
「どうもこの手紙の主が、こっそり学費を肩代わりしてくれたみたいなんだ」
「そりゃまた奇特なやつがいたもんだな」
そう言いながらヴィーノは封筒を開け、便箋に目を通してみる。希少な固有魔法を持つゼファランシア公爵家に恩を売っておくこと事体は別に不思議でもない。だがリュカの口ぶりだと、手紙の差出人は名前を伏せている。つまり金を出したところで、当人になんの得もないのだ。
どんな人物がそんな奇特な真似をしているのか、ヴィーノも多少興味がある。
『ハロー! ハロー! ハロー!
ゼファランシア公爵家の諸君! 今日も元気に貧乏しておるのかのォ~~~~~!?
スローライフ(笑)を満喫しておるのかのォ~~~~~!?
わらわは快適で便利で優雅で文化的な王都のシティライフを楽しんでおるぞォ~~~~~!
さてッ! そろそろゼファランシア公爵家の長男坊が十六歳になる頃じゃの。
まっとうな貴族なら跡継ぎを聖ジョゼット魔法学院に入学させるところじゃろうが、どうせクソ当主のことじゃから無駄に農業とスローライフ(笑)にこだわって学費の工面に苦心しておるんでないかと思う。てか実際苦労しとるんじゃろ? 税収見りゃもろバレじゃぞ?
じゃが若人の未来をクソ当主の自己満足のために詰んでしまうのはあまりにも酷というもの。そこでわらわは秘密裡にリューシウス・ルミノサス・ゼファランシアの学費を肩代わりしてやることにした。
これは別にゼファランシア家の《治癒》の魔力が継承されないと困るから援助したいとかいう王家の意図とかは一切からんどらんし? 女王に一切感謝とかせんでええからの?
そもそもわらわは女王陛下じゃないからの? 女王陛下じゃないからの?
女王陛下じゃァ~~~~~ッ!
ないからの~~~~ッ!
追伸
お前の息子イケメンなの? ねえねえイケメンなの? 母親似だって言ってたから多分結構なイケメンだよね? いい加減絵姿だか写真だか送って来んかオカズにするから』
手紙の最後には紫色のキスマークがぶちゅっと添えられていた。
リュカが曰くところの『クチビルが紫の人』とはこのキスマークにちなんだものであろう。なんとなく不健康そうな響きである。
しかしこれはあれである。
誰がどう見たってあれである。
ヴィーノは便箋から顔をあげた。
「いやこれ」
「差出人は不明だけど、手紙の最後に添えられた印にちなんで、僕はこの人物のことを『クチビルが紫の人』って呼んでいる」
「いやこれめっちゃ女王じゃん……」
「? 女王陛下じゃないって書いてあるよ?」
「めっちゃアピールしてんだろこれ……」
「親愛なるクチビルが紫の人」
ヴィーノの指摘をスルーして、リュカは『クチビルが紫の人』に宛てた手紙をしたため始める。
どうやらリュカは手紙の差出人が女王ではないと頑なに信じているらしかった。都合の悪いことはすべてシャットアウトする都合のいい脳みそをしているのかもしれない。
「入学式は滞りなく終わりました。義弟のチェスターは寮が違ったせいかまだ会えていませんが、奇妙なご縁があり女王陛下にはお会いすることができました」
「もう本人に直接言えよ」
「女王陛下はクッッッソ気持ち悪かったです。淫乱に付ける薬はないのでしょうか。罵倒、監禁、洗脳、拷問、貞操帯、薬物の投与、おおよそ考え得るあらゆる方策が逆効果になりそうなのが恐ろしい。鞭は獣の躾に使う道具でもあります。僕の鞭術を究めればあの女王の暴走する性欲をも御することができるのでしょうか。いえ、僕の立場を考えればそれも不遜なことなのかも知れませんね。どうかこのことはお忘れになってください……と」
「発想が怖えよ!」
そう言って、ヴィーノは封筒に書いてある住所を示した。
封筒には差出人の名前こそ記されていなかったが、住所はきっちりと書いてあるのだ。
王都ダイアンサス、グラン・ガル・グライム宮殿と。
「これどうみても女王だろ。ほら差出人の住所、女王の住居じゃねえか」
「ははは、あの女王陛下がこんな婉曲なことするわけないじゃないか。クチビルが紫はきっと王宮に勤めるカッコいいロマンスグレーの紳士な近衛騎士とかなんだよ」
「紳士はよそんちの貧乏を煽ってこないと思うしその紳士な近衛騎士、お前をオカズにしたいって言ってるけどお前本当にそれでいいの?」
ヴィーノの言葉はあっさりとリュカに笑い飛ばされてしまった。
田舎育ちのリュカはヴィーノの予想以上に夢見がちだった。変態発言を繰り返す女王ではなく、足長おじさん的紳士が自分を支援しているのだという主張を崩すつもりはないらしい。
「まあいいか」
ヴィーノは肩を竦める。本人がそれで納得しているのなら別に何も言うまい。女王もそこについては特に触れていなかったし。一応これで隠しているつもりなのだろう。多分ね。
「で、婚約者にはなんて書いたんだよ」
「あ、ちょっと」
ヴィーノはにやりと笑うとリュカが脇によけていた便箋をひょいと取り上げる。これは完全に出歯亀だった。
リュカも口ではヴィーノの行動を咎めて見せたが、本気で嫌がっている様子は感じられないのでヴィーノはリュカが婚約者の宛てて書いた手紙に目を通して見せた。
『親愛なるセリーナ・ジェラルディーナ・ポーリア様。
桜月を迎えたこの時期、ポート・ジェラルディーナからは多くの船が東方を目指して出航するそうですね。
ルミノサス村を出たことがなかった僕は想像することしかできませんでしたが、王都ダイアンサスで初めて海港というものをこの目にし、君が幼い頃より見てきたであろう景色を少しだけ近く感じることができまいた。
体の丈夫でない君は屋敷の窓から船出を見守っているのでしょう。
季節の変わり目のこの時期、君が体を壊していないか心配です。
ドルサーレ地方にゼピュロスの恩恵が届くにはまだ時間がかかると聞きます。夜の寒さには十分に気をつけて、風邪を引くことなどのないようにしてくださいね。
追伸
女王陛下とお話する機会がありました。噂に聞く通り少し変わった方でしたが、とても気さくな方でしたよ』
婚約者に宛てた手紙としては、とても普通だと思う。
女王の実像を知りさえしなければ。
「とても気さくな方」
「……」
ヴィーノが白けた声でそう言うと、リュカは気まずそうに目を逸らした。
「物は言い様だよなあ……」
アリーチェの奇行を思い出したヴィーノは疲れがぶり返したのか軽く伸びをすると、あくびをしてから二段ベッドの上に戻った。
「もうすぐ消灯時間だぞ」
「うん。僕もそろそろ寝るよ」
ヴィーノに促されて、リュカは便箋を折りたたみ、封筒に納めた。手紙は明朝にでも、寮母に頼んで出してもらうとする。
リューシウス・ルミノサス・ゼフィランサスが過ごす、学院生活で初めての夜は、こうして何事もなく更けていった。