(4)魔学技術、魔技、魔術……その設定、この話に必要なのじゃ?
四人は後ろを振り返った。そこには栗色の髪をした怜悧な容姿の美少女がいた。現れた状況から察するに恐らくは上級生。聖ジョゼット学園ではタイの色が学年によってわけられる。彼女は緑色のタイを付けているから、三年生と見て間違いない。
学院の制服を着ている以上、まだ少女と言うべき年齢であるのだが、知的で大人びた容姿はどちらかと言うと美女と言う形容が相応しいだろう。彼女の外見においてもっとも特徴的なのは少しきつめの眼差しと、それを覆い隠すかのような眼鏡であろう。
彼女は眼鏡のレンズをキラリと光らせ、リュカとヴィーノの顔を見、静かに言った。
「友愛は尊いもの……でもそれはあくまでプラトニックな範疇に収まるべきだわ」
彼女の声音はどこまでも平坦で、そこからなんら感情を読みとることはできなかった。額面通りに受け取れば、アリーチェの発言を咎めているようにも聞こえるし、リュカとヴィーノに釘を刺しているようにも聞こえる。
彼女はどうにも情感の薄い笑みを作ると、四角張った淑女の礼をとった。
「ごきげんよう、女王陛下。新入生の皆さん。三年生のミッシェル・フィリア・ブルーノ・フォレスティアよ」
そう言うと各々が挨拶を返すのを待たずに、リュカの元に歩みよる。
「あなた」
「え」
ミッシェルは右手でリュカの左手に触れた。その冷たい感触にリュカの肩がわずかに跳ねる。
ゆっくりとその感触を確かめるように、ミッシェルの手の平がリュカの左腕を肩にかけてなぞってっていく。繊細な指先はリュカの髪に辿り着き、三つ編みを伝い、その先端を弄んだ。
「枝毛が出来ているわ。髪はもう少し小まめに手入れなさい。魔法使い――特に魔技を究めんと志すならなおさら」
ミッシェルはそう言うと、リュカの三つ編みにそっとキスをした。
「美しきものは上位存在の寵愛を受ける。それは少なからず魔法の力量にも影響するわ。あなたにはその資質がある――ふふ。リューシウス、太陽の匂いのする男の子」
リューシウスは女性のように髪の手入れこそしていない。だが髪といい、肌といい、あるいは衣服といい、清潔ではあった。田舎で暮らしてきた彼は確かにどことなく野暮ったい雰囲気が漂っているが、同時に健康的で溌剌とした生命力を宿してもいた。
それをミッシェルは『太陽の匂い』と形容する。
「あなたのことはメイヴィス叔母様から聞いていてよ。髪の手入れの仕方、今度ゆっくり教えてあげるわ。あなたの教導役として、ね」
「は、はい……」
ミッシェルは人差し指でリュカの胸元に触れた。貧乏領主とはいえ故郷では領主の息子、当人に自覚こそないが、ルミノサス村の少女たちにとっては『憧れの若様』として遠巻きに見られているような存在だ。そんなリュカに異性の免疫などあるはずもなく、あるいは弟妹をあやすような触れ方をされて、リュカは思わずこう口走っていた。
「おねえさま……」
『おねえさま!?』
「な、なんじゃ! なんじゃなんじゃなんじゃ!」
妙な空気を醸し始めたリュカとミッシェルのやり取りに、空気を読まないことに定評のある女王陛下がズカズカと割って入る。
「ず、ずるい! ずるいぞ! わらわもその百合っぽいのやってほしいのじゃ! ほ、ほら! 枝毛! わらわにも枝毛ができておるのじゃァ~~~~~! チラッ! チラッ! チラッ!」
女王が髪の一房を掴んで、その毛先をミッシェルに示した。この女王の欲望の対象はどうやら同性にも及ぶ場合があるらしい。誰にでもバイセクシャル的な要素はある。それを否定してはいけない。ただこの女王に限って言えば、迷惑極まりない話であった。
これに対してミッシェルは上級生らしい寛大な振る舞いを示した。
「あなた」
ミッシェルはアリーチェの元に歩み寄り、その長い黒髪をむんずと掴んだ。
そして懐から鋏を取り出す。
「枝毛が出来ているわ。目障りだからこの場でばっさり行くわね」
鈍く光る刃が、ミッシェルの手の内でアリーチェの顔を映し出す――。
「首を」
「首を!?」
しゃきりしゃきりと開いたり閉じたりする鋏に命の危険を覚えたアリーチェはその凶刃から逃れんと首をぶんぶんと左右に振った。
「あのう、女王陛下の首はどうでもいいんですが」
「どうでもよくはなくない!?」
「教導役というのは?」
しゃきんしゃきんと鋏でアリーチェを弄んでいるミッシェルに、リュカがおずおずと声をかける。
ミッシェルは懐に鋏をしまうと、リュカの疑問に答える。
「特別な事情を抱えている生徒をフォローする役割を持った上級生のことよ。例えば本当に生粋の平民の出で右も左も分からないような子だったりとか、あなたのように問題のある家柄の出身だったりする場合とかね」
聖ジョゼット魔法学院には王国中から――時には王国の外からも――様々な生徒が入学してくる。その中にはトラブルの火種を抱えた生徒も少なくはなかった。リュカのように都市部に一度も出て来たことがなく、なおかつ他家とまったく交流のないような生徒もその対象に含まれている。そうした生徒には学院側が選んだ上級生が世話役として付けられることになっていた。ミッシェルとリュカの場合、ほぼ断絶状態にはあったものの、従姉弟として血縁があったため、白羽の矢が立ったのであろう。
「メイヴィス叔母様とは手紙でしかやり取りをしていないけれども、あなたは文武両道に長けた子だとは聞いているわ。なんでも自力で魔技を編み出したとか」
言いながら、ミッシェルはアリーチェの髪から手を離した。やっと身の安全が担保されたアリーチェがほっと胸を撫で下ろす。
ルミノサス村は山に囲まれた陸の孤島だ。オ・ディ・ビル王国にも魔学技術を利用した通信網が普及しつつあるが、僻地にまでその恩恵は届いていない。遠方とのやり取りは今も手紙が主流であった。
リュカの母であるメイヴィスは何かと筆まめで、よく行商に手紙を預けていたが、その相手までは把握していなかった。母のメイヴィスは生家の話をほとんどしなかった。特に実家の話となると固く口を噤んでいたから、姪と手紙のやり取りがあったという事実にリュカは少しばかり驚いていた。
とはいえゼファランシア公爵家はとんでもなく大きな一族だった。どこで誰と血縁があったとしても不思議ではない。話を聞いていたヴィーノは、ミッシェルの言葉のうち、別の箇所が気になったらしい。
「ゼファランシア公爵家ってえと、ゼフィランサス流魔剣術、だったか」
ヴィーノは腕を組んで記憶を手繰る。
「ええ。本家のみならずゼファランシア一門に伝道されている、いわば剣技系魔技の代名詞ね」
ヴィーノの言葉をミッシェルは肯定した。
「なぜそんなことを? お父上から剣技を学べばよかったのではないですか?」
ルー・アンがもっともな疑問を口にする。
「それはなんというか、餞です」
リュカは少し考えてからそう答えた。
「断片的ですが、前世の記憶があって。前世はその……変わった職業に従事していたようなんですけど」
前世の記憶がある。それ自体は珍しいことではなかった。幼い子供が母親の胎内の記憶を持っているようなもので、この国では「ふーん、そうなんだ」程度に受け取られるレベルの話である。
ただ、職業であったりとか、具体的なことを把握している人間となると割と限られていた。
「変わった職業というと?」
興味をもったミッシェルがそう尋ねる。諸説あるが、人の魂は別の世界からこの世界にやってくるとする説もある。もしそれが事実だとすれば、この世界に散見される前世の記憶は異世界の姿を探り当てる重要な手がかりとなるだろう。
ミッシェルが関心を持つのはごく自然なことである。
「その、おっさんを……」
リュカはそこまで言って言葉を止めた。少し口ごもり、気まずそうに目を逸らす。
「おっさんを?」
ミッシェルがリュカの言葉を復唱すると、リュカは観念したように口を開いた彙。
「その……おっさんを鞭でしばいたりだとか」
「おっさんを鞭でしばく」
リュカの言葉をルー・アンがぽかんとした顔で繰り返した。
「おっさんを執拗に罵ったりだとか」
「おっさんを執拗に罵る」
ヴィーノがリュカの言葉を同じくぽかんとした顔で繰り返した。
「あっ、あの、僕にもよくわからないんですが、とにかくお客さんにそうやってご奉仕を――他にも色々あるんですが、もっと説明した方がいいでしょうか」
前世の断片的な記憶をリュカ自身もうまくかみ砕けていない。その方面に疎いリュカには、サドマゾという概念が理解できていないのだ。
うまく説明できずにリュカがしどろもどろになっていると、
「ま、世の中には色んな仕事があるからの。職業のことは良いわ。鞭の話をせんか。いい加減タイトルを回収せんとせっかく付いたブクマも剥がれるぞ」
意外にもこの話題にまったく興味を示していないアリーチェがざっくりとそうまとめた。
「は、はい。ええと、あ、前世のぼくは女性だったようなんですけど、彼女はどうも鞭の扱いにはお仕事と関係なく拘りがあったようで、それを十分に究められなかったのが心残りだったらしいんです」
アリーチェに話を軌道修正されたリュカは自分で武芸――魔技を編み出した理由をそのように説明した。この国に鞭を使った流派は存在しない。そもそも鞭は根本的に武器ではなく道具だからだ。
リュカの前世の彼女は、競技としての鞭の扱いにいたく執着していた。
前世の自分と、今の自分はあくまで別の人格だ。例えるなら他人の日記帳を覗き見ている感覚に近い。
それでも、記憶の一部を引き継いでいる以上、どうしたって影響は受ける。
職業がどう言ったものであったか理解はできなかったが、どうも彼女が自分の稼業を嫌悪していることだけは漠然と理解していた。その稼業にまつわるもの中で、どういうわけか彼女が鞭にだけ異様な執着を見せていたことも。
だからリュカは幼い頃から鞭を手にしていないとどうにも落ち着かない、そんな子供だった。
別にリュカは魔技を創設しようとしたわけない。衝動のまま、残された記憶を頼りに鞭を振るっていたらそれが魔技の土台になっていた――というだけの話である。
「なるほど、それで餞か」
ヴィーノが頷く。
「では魔技は完全に独学で?」
ルー・アンが尋ねると、リュカは頷いて答えた。
「はい。母は魔技がほとんど使えませんでしたし、父は何かと領地運営や他所の女とのセックスなどで何かと多忙だったもので――」
そう答えるリュカの目は虚ろになり、小刻みに震え始めた。
「いかんのじゃ! 発作が起きるのじゃ! ルー・アン、こんなこともあろうかと用意していた例のものを!」
「はっ!」
アリーチェが閉じた扇をかざして指示すると、ルー・アンが素早く動く。彼女は目にも止まらぬ素早さで野原と青空の書き割りと、四種の手人形を用意した。ウサギを自分の手にはめ、子猫はアリーチェに、小熊はミッシェルに、魚をヴィーノに手渡した。
そして小型の音響機器を床に安置し、BGMを再生させた。
『らららん♪ らららん♪ 今日も楽しいどうぶつランド♪ 愉快な仲間とお友達♪ みんなの笑顔であふれちゃう♪ らららん♪ らららん♪ らんらんらん♪ らららん♪ らんらんらん♪』
即席の舞台を、体育座りをしたリュカが虚ろな瞳で見つめている――。
BGMが終わると、にゅっと子猫の手人形が顔を出した。
「やあ、ボクばコネコくんだよ! 今日はたのしいたのし~~~~いピクニック!(裏声)」
そんなコネコくんの元に、下手からウサギの人形がぴょこぴょこと楽しげな動きでやってくる。
「コネコく~ん(裏声)」
「あ、ウサコちゃん!(裏声)」
「今日は楽しい楽しいピクニックだね!(裏声)」
コネコくんとウサコちゃんは踊るようにぴょんぴょんと飛び跳ね、抱き合った。
そこで下手から、今度は小熊の手人形が登場する。
「あ、ウサコちゃん! コグマくんがやって来たよ!(裏声)」
小熊の手人形はコネコくんやウサコちゃんとは対照的にのしのしと重厚な足取りでコネコくん達の元へと近づいてくる。
「我は第二のセフィラ――天王星を頂く万物の叡智であり、至高の父である。我を呼び寄せし自由なる獣、そして地を飛び跳ねる獣よ、我に求む秘義あらば、相応の代償を負わねばならぬ。そのことゆめゆめ忘れぬようにな――(野太い声)」
「今日も元気だねコグマくん!(裏声)」
「あとはオサカナくんだけね!(裏声)」
コネコくんとウサコちゃんはそれはコクマーだろうが! とツッコミを入れたいのをぐっとこらえ、どうぶつランドのノリを死守した。
さて、三人が楽しくピクニックにわくわくして楽しく踊っていると、舞台袖から魚の手人形が登場する。
「ビチッビチッビチッ」
魚は横向きになり、びくんびくんと痙攣していた。
――ここは舞台。わたしたちは女優。
――楽しいどうぶつランドのノリを、なんとしても守り切らねばならない。
「あっ、オサカナくん!(裏声)」
ウサコちゃんが待ってましたとばかりに嬉しげな声をあげる。
「くっ、苦しい……いっ、息ができないヨ~~~~~!(裏声)」
ビクンビクンと跳ねながら、オサカナくんは口をぱくぱくと虚しく開き、何度も仰け反って、宙に向けて胸鰭を伸ばした。
それは、命の最期の灯火。儚き者の尊き足掻き。
リュカはどうぶつランド一座の熱演にすっかり引き込まれていた。
「お、オサカナく~~~~ん! がんばれ~~~~~ッ!」
リュカの声援が届いたのであろうか。オサカナくんに手を差し伸べるものがいた。
「――力が欲しいか?(野太い声)」
コグマくんである。
「どちらかと言うと酸素が欲しいヨ~~~~~!(裏声)」
「よかろう! ならばくれてやる! だが代わりに貴様の魂をいただくぞ!(野太い声)」
「ウワアアア~~~~~ッ!(裏声)」
ガブリ。コグマくんはオサカナくん(シャケ)に食らいついた。
「よ~し、オサカナくんが元気になったところで、会場のお友達もいっしょに、お歌をうたおうね!(裏声)」
コネコくんが強引に話をまとめると、BGMが流れ始める。
『らららん♪ らららん♪ 今日も楽しいどうぶつランド♪ 愉快な仲間とお友達♪ みんなの笑顔であふれちゃう♪ らららん♪ らららん♪ らんらんらん♪ らららん♪ らんらんらん♪』
BGMが終わると即席の舞台の幕が下りた。
ルー・アンが素早く書き割りと舞台一式とを撤収し、他の三人から手人形を回収する。
どうぶつランドは夢の跡。もはや影も形もなかった。
「はっ、僕は一体……」
虚ろな目をしていたリュカの瞳の焦点が戻った。どうやら我に返ったらしい。
我に返ったリュカはアリーチェの肩を掴んで揺さぶった。
「教えてください女王陛下、酸素と引き換えに自らの魂をコグマくんに売ったオサカナくんはどうなってしまうんですか!」
「知らぬわそんなもん! そこの二人が思いつきでやったやつなのじゃ! わらわが知るわけないのじゃ!」
「そんな……」
どうぶつランドで繰り広げられた寸劇はすべてアドリブである。コグマくん役のミッシェルとオサカナくん役のヴィーノがこの先の展開をどうするか、そもそも何か考えていたのかすらアリーチェには知りようがない。
リュカは肩を落としているが、そんな顔をされても困る。
というか、あの寸劇のどの辺りがこの少年の胸をそんなにも打ったのだろうか。ルミノサスのド田舎はそこまで娯楽に乏しいのだろうか。アリーチェには分からない。
「薄々勘付いてはいたがこいつもちょっとおかしいのじゃ……」
「陛下が言う筋合いの話ではないと思います」
「それもそうじゃの! わっはっは!」
まったくもってルー・アンの言う通りだったので、アリーチェはからからと笑った。この国に女王アリーチェより頭のおかしい奴がいるのならぜひとも顔を拝んでみたいものだ。
うまいことオチのついたところで、アリーチャは扇でぱしんと手の平をたたく。
「よし、発作を回避したところであれじゃ、ミッシェル嬢、仕切り直しじゃ!」
アリーチェに仕切り直しを指示されたミッシェルは、眼鏡の位置を少し直すと、律儀に最初から言いなおした。
「では魔技は領地運営に忙しかったお父上には教わらずに、完全に独学で?」
「はい。父の技を見て参考にはしたので、完全に独学とは言えませんが……」
「それを独学と言うのですよ」
ルー・アンが少し呆れた顔で言う。自分が規格外であることに自覚がないのも困りものである。
続いてヴィーノが尋ねた。
「自力で魔技を編み出したというと、どの程度なんだ?」
「ええと……三歳くらいの頃から始めて、基本的な技法は前世の記憶を元にほぼ体系化したよ。ルミノサス近辺の山賊盗賊の類は大体駆逐しちゃったかな。そのせいでもう殺す相手がいないって妹が出奔しちゃってさ、ちょっとやり過ぎたかなって思ってる」
「ちょっと待て」
ヴィーノは右の手の平を翳して、一旦リュカの言葉を止めた。
ツッコミどころが多すぎる。
ヴィーノは左の手の平を額に当てて、まず何から問うかを考える。
しばし考えたヴィーノはまずこう尋ねた。
「お前の妹いくつ?」
「今年で10歳だったかな」
「うっひょう幼女だ! ――じゃねえお前んちどうなんってんの!?」
幼女とお近づきになるチャンスにヴィーノは一瞬歓喜し拳を突きあげるが、はっと我に返って叫ぶ。10歳で血に飢えて出奔している少女とかどう考えてもヤバい。異常者だ。
「ナローシュ・ルミノサス・ゼファランシアと言えば鬼子と言われるほどの才覚の持ち主だったから、その後継者たちと考えれば多少規格外でも不思議でもないわね……多分」
ミッシェルがフォローになっているようななっていないようなことを言う。
「ふむ。何にしてもリューシウスは魔法の基本概念を正式には教わっておらんということなのかの?」
アリーチェはゼファランシア家の内情には触れずに話題を切り替えた。どこに地雷が埋まっているか分かったものではないからだ。
「えっと……まあそういうことになりますかね?」
「では魔学技術と魔技と魔術の違いは説明できるかのう」
「すいません、できません」
アリーチェの問いに、リュカは少し考えてから、恥じ入るように頭を掻いてそう答えた。
「よいよい。教わってないならできぬのが当然じゃ。ミッシェル嬢。それくらいの話なら荷物を取りに行く間でも事足りるじゃろ?」
「そうね」
アリーチェに話を振られてミッシェルは頷いた。確かに時間潰しにはちょうどいい話題だろう。
「そもそもこの世界のあらゆる物質と事象は――ああ、荷物はこっちよ。寮母さんが管理しているわ。いきましょう」
そう言うと目線で行く先を示して、ミッシェルは歩き出した一同もそれに続く。
寮母は同じ中央棟、ロビーのちょうど反対側の管理人室に常駐している。ロビーはまだ他の生徒たちでざわついていたので、一同はロビーを迂回して管理人室に向かう。
「粒子と波動で形作られている。わたしたちの肉体も、例えばこの寮の床や壁も、突き詰めれば肉眼では視認できない粒で構成されている。その粒子をエーテルと呼ばれる不可視の力が揺さぶることで現実は刻々と変化していく。このエーテルの流れを恣意的に操作することで現実を望む方向に書き換える力、それが魔法よ――ここまでは分かる?」
ミッシェルの確認にリュカは頷いた。
「魔法は大きく魔学技術、魔技、魔術に分けられるわ。現実を書き換えるためには、エーテルを流すための回路を刻む必要がある。魔法はその回路をどこの刻むかによってカテゴリーが分けられるわ。今もっとも普及しているのが魔学技術ね。無機物にあらかじめ精密な回路を刻んでおくことで誰でも、いつでも、同じように魔法を起動できるようにしておく。――女王陛下の専門分野ね」
視線を向けられてアリーチェは悠然と微笑んだ。こう見えて魔学技術の分野においては神童と呼ばれているのが彼女である。
「二つ目が魔術。これは自分を深い瞑想状態におくことで精神に回路を刻む方法よ。応用力が高い手法だけど、修行も厳しいし危険度も高いから今となっては使い手もほとんどいないわ。この学院の魔術学科もずいぶん前に廃止になったという話よ」
個人による門弟制で学ぶこともできなくはないらしいけど、とミッシェルは付け加えた。
フローラ寮の歴史は聖ジョゼット魔法学院と共にある。当然この建物も築数百年が経過しているはずだが、古ぼけた様子は微塵も感じられなかった。天井、壁、床には異なった色のタイルが敷き詰められており、それらはうっすらと光を放っている。
魔学技術の粋を集めたこれらの健在は何度も最新の研究と緻密な計算に基づいて修繕と改築を繰り返して来たのだろう。ぱっと見渡すだけでは新築の建物のようにも見えた。
「そして三つめが魔技。自分の肉体にエーテルを流す回路として利用する手法よ。魔技使いは型を何度も反復することで回路を馴染ませ、魔法を実現するわ。概ねその方向性は戦闘のそれに限られるけど、実用性は極めて高いと言えるわね。それ以外の生贄だとか上位存在だとかを利用したもっと危険なものもあるけど今のあなたには関係ないわね」
話している内に、一同は管理人室の前に着いていた。
管理人室の小窓には休憩中の札が立てられている。少し来るのが早かったのか、遅かったのか。ミッシェルは小さく肩を竦めた。
「魔技使いは自分の肉体や武器をエーテルの回路にする。それゆえに、魔技を究めんとするなら道具の手入れを怠ってはいけないわ。それは自分の肉体も含めてよ。足の先から毛の先まで、ね」
そう言うと、ミッシェルはリュカの方へ向き直る。
「メルキオーレ・ティラノ・ラッセン」
「え?」
突然出されたその名に、リュカは目を瞬かせる。
「魔技学科の教師よ。あなたたち一年生の担当になるはず」
「その人が何か?」
「あの教師、元々ビアンカ寮の出身でね」
ミッシェルはそう言ってほんのわずかに眉をひそめた。
「わたしは教養科だから詳しくは知らないのだけど、フローラ寮の生徒には何かと当たりが強いっていう評判なの」
床に視線を投げながら、ミッシェルは肩まで伸びた栗色の髪を撫ぜる。
「それだけならまだいいのだけど、ナローシュ叔父様とは学生時代から色々と因縁があるそうよ。目を付けられないようにせいぜい気をつけてね」
「そうします」
「ところでその髪」
ミッシェルはふと思い出したようにリュカの髪にそっと触れた。
「なんなら、わたしが手入れしてさしあげましょうか」
「え、あの……」
花を愛でるようなどこか甘ったるい手つきにリュカは頬を染めた。ミッシェルの触れ方は優しかったが、眠る前に父母がしてくれたようなそれとも違う手つきだった。
何やら妖しげな雰囲気が漂い始めたリュカとミッシェルの間にアリーチェが割って入る。
「ええいっ、未婚の男女がなーにを言うておるんじゃ!! ふしだらな!」
「あら、まさか女王陛下に貞節を説かれるとは思ってもいなかったわね。でも別にいいでしょう、髪を手入れするだけよ? 別にいやらしいことをするわけじゃないわ。ねえ女王陛下。つぼみを付けた薔薇の鉢に水をやる、ただそれだけのことを、あなたはふしだらと言うのかしら。ふふ、おかしな方ね。あなたもそう思わない? ねえ、リューシウス?」
がなり立てるアリーチェを気にも留めず、ミッシェルはリュカの顎をくいと持ち上げた。
「は、はい、おねえさま」
リュカが頬を染めてそう答えた。
ミッシェルは女性としてはさほど身長が高いわけではない。リュカも十代半ばの少年としては平均程度の背丈はある。リュカの方が十センチ弱背が高いのだが、妙にしっくりとくる図であった。
「そなたの言動はいちいちお耽美なんじゃっ!」
アリーチェが声を張り上げた。
「髪の手入れなぞルー・アンがやった方がいいのじゃ!」
アリーチェはそう言うと自らの侍女であるルー・アンを指さした。
指さされたルー・アンは自信ありげな表情で微笑み一歩前に進み出て、こう言った。
「女王陛下お気に入りのまだ固い薔薇のつぼみ――それを少しずつ綻ばせていくお役目にあずかれるとは光栄の至りにございます。――リューシウス様。髪と言わず、爪の先から肌の隅々にいたるまで、わたくしが磨き上げてご覧にあげますわ。ふふ、わたくし一目見た時から思っておりましたの。あなた様の若い肉体にはきっとしなやかで瑞々しい美が行き渡っておられるのであろうかと」
ルー・アンが侍女らしく控えめな礼をとりそう言うと、アリーチェが地団太を踏んだ。
「じゃ! か! ら! そういういやらしい言い方をやめるのじゃァ~~~~~ッ!」
「女王陛下が嫌がるかなと思って……」
「嫌がらせかッ! 単にわらわへの嫌がらせかッ! なんぞわらわに恨みでもあるのかそなた!」
「死ぬほどありますが?」
アリーチェに問われて、ルー・アンは真顔でそう言い切った。幼い頃からアリーチェの奇行に付き合わされてる身である。そりゃヘイトも溜まろうというものだ。
「わかるゥ~~~~~ッ!」
アリーチェは納得のあまりブリッジをした。
「逆の立場じゃったらめっちゃ恨むも~~~~~ん! ストレスたまるも~~~~~ん! でもそれとこれとは別の話じゃから!」
アリーチェはブリッジした状態から体を戻すと、何かを横に置く仕草をした。
「まあ、ルー・アンは王族に仕えるような一流の侍女じゃからして、高貴な相手の髪や肌の手入れも完璧じゃ。こんなヤツじゃがなんだかんだ世話焼きじゃしの! 原石が原石のままで許されるのは若い内だけじゃぞ! 今の内と思って身の繕い方くらいは覚えておいて損はない! ここはわらわの言葉に甘えておくことを勧めるがの!」
「でも、こんな人のお世話をしているんだから、相当忙しいのでは? 女王陛下のお言葉にはなんだかすべてにおいてくだらない裏がありそうですし」
「好感度マイナススタートじゃのう。まあ今更じゃが」
リュカは素直に女王の申し出を受け取れなかった。家柄のこともあるし、女王が個人的にアレすぎることもある。アリーチェはそんなリュカの反応をすら楽しんでいるようで、閉じた扇で口元を隠してにまにまと笑っていた。
アリーチェは結局リュカに好かれたいのか好かれたくないのか。この態度では不信感は増すばかりだろう。
見かねたルー・アンが助け船を出した。
「リューシウスさん、是非わたくしにお世話をさせていただけませんか。女王陛下は大概のことは自分でやってしまわれるので、存外暇なんですのよ、侍女というものも」
「そうなんですか?」
「ええ。わたくしの顔を立てると思って」
当のルー・アンにこうまで言われては、リュカ無碍にはできない。魔技を究める。それはリュカの本意でもある。身づくろいもその道の含まれるのであればなおさらリュカに断る理由はなかった。
「ええと、じゃあお言葉に甘えることにします」
結局、リュカはルー・アン――アリーチェの申し出を受けることにする。
寮母が戻ってきたのはリュカがそう返事をしたすぐ後のことで、髪の手入れは夕食の後にでもと話をつけ、一同は荷物を手に宛がわれた部屋に引き上げていったのであった。