01
記憶の無い少女は、目の前に立つ謎の男に見入っていた。まるで別世界に住むような、不思議な空気を纏うその男に。
少女は男に問われた『探し物』について考えたが、何の事だか、さっぱり解らない。
少しの沈黙の後、男はスッと立ち上がり、少女の手を取ってゆっくりと上に引き上げた。
今も尚、男の背後から吹き続ける冷風に、少女は身を振るわせる。
「ワタセ様、ワタセ マナ様。何とも不思議なお方だ。この怪しげな番号に電話をする者は大抵、『探し物』が何なのか検討がついているというのに」
ワタセ…マナ。少女には聞き覚えのない名前だったが、男の言い方から、自分の事なのだろうとは思う。
しかし、しかし全く思い出せない。ワタセ マナとは、どんな字を書くのだろうか。
「ワタセ様?」
男の静かな声は、布の下からだと言うのに妙に鮮明に聴こえる。
黙り込む少女を見て、男は握っていた少女の手を放す。
「ああ…ワタセ様。貴方の『探し物』は『記憶』ですか」
少女はハッとした。そうか、そうなのかもしれない。しかし男は何故私の名前を知る?何故私の『探し物』を知る?
「何故、何故貴方は私の事を知っているのですか」
少女は少しだけ、自分の事が聞けるのではないかと期待した。
少女が初めて発した言葉に、男は少々驚く姿勢を見せた。無論、顔は見えないのだが。
「ワタセ様は、大変綺麗な声をしていらっしゃるのですね」
感嘆するように男は呟く。
少女は驚きも、喜びもしなかった。ただ不思議で不思議でならない。
「貴方は私の事を何でも知っているのではないのですか」
男は静かに首を横に振る。
「私は予め電話を掛けてくる相手の名前を把握はしておりますが、それ以上の個人情報は調べておりません。貴方の事も、名前のみ把握しております」
「じゃあ今私の目の前に広がるこの惨状についても、何も、何も知らないのですか」
「はい」
少女は少々呆れた。男にではなく、自分自身に。何故この男に聞けば自分の事を知ることができると思ったのか。
「それじゃあ…」
「今は、」
少女の諦めの言葉は、食い気味に発した男の声に掻き消される。
「今は、知りません。しかし、私は『遺失物相談係』です。貴方が私に依頼をしたのなら、私は貴方の記憶を取り戻すお手伝いをさせていただきます」
男の口調は少しだけ早くなっていた。少女は色々と考えたが、依頼をする他、私ができる事は無いのだろうと、男に先程握られていた手を差し出した。
「私の『記憶』を、探してほしい」
「…契約成立というわけで、宜しいですか」
「勿論」
男は少女の手を暫く見つめてから、しっかりと握った。
冷たい風はいつの間にか止んでいた。
男はズボンのポケットから一枚の小さな紙を取り出して、少女に手渡した。その真っ白な紙は、名刺のようだ。
『遺失物相談係 石津』
「いしつさん」
少女がそう言うと、男は思わず笑った。自分より少し年上であろうその男の、無邪気な子供のような笑い声に、少女は何だか寂しい気持ちになった。
「残念ながらいしつではなく、いしづです。いしつなら面白かったんですけどね」
「…」
「…ワタセ様、貴方は笑わないのですね」
「え?」
落ち着きを取り戻した男の声に、少女はドキッとした。その声にも、『笑わない』という言葉にも。
「どうやら貴方の探し物は『記憶』だけではなさそうだ」
男のその呟きを、少女は聞き逃した。
「さて、ワタセ様。場所を移動しましょうか。私の、遺失物相談係の本拠地へ参りましょう」
呆然と立っていた少女の手を引いて、男は歩き出した。散らかるがらくたも、彼の歩く道をつくっているように見える。
男の背中は想像より大きくて、髪は初めて見た時の印象より更に艷やかだった。
「あ、そうだワタセ様。これを」
男は名刺を出したポケットから、また紙を取り出して、少女に渡す。
『渡瀬 愛』
「わたせ…あい?」
「まな。貴方の名前です、渡瀬様」
渡瀬 愛。相変わらずしっくりくるわけではなかったが、すんなりと受け入れることができた。男に呼ばれた名前は、なんだかさっきより優しい。
「渡瀬様の記憶を取り戻す、第一段階ですよ」
男はふっと微笑んだ、ような気がした。
いつの間にか家を出て、何も無い夜道を歩いていた。星空だけが輝いて、目の前の男の手だけが暖かかった。
その後、どんな道を通って何処に辿り着いたのか、渡瀬は覚えていなかった。気が付いたら真っ白な部屋で眠っていて、そして今目を覚ました。
渡瀬は部屋の白さに少々戸惑いつつ、白いベッドから降りて、白いドアノブに手をかける。
このドアを開けても、白いのだろうか…。と何故か不安になりながら思ったより軽いそのドアを開ける。
「渡瀬様、おはようございます」
ドアの向こうは、普通の部屋だった。えんじ色のフローリングの床、レモン色の優雅なカーテン、群青色の空が深く広がるような壁。随分鮮やかではあるが、至って普通の、整理された部屋だ。
部屋の中心に在るソファに深く腰掛けた石津がこちらを見て、恐らくこちらを見ている。
「何故私の居た部屋はあんなに真っ白なのですか」
渡瀬の言葉に石津はくすくすと笑った。
「起きて第一声がそれですか」
「仕方がないじゃないですか。私は起きて一番にあの部屋を見たのですから」
石津はまた肩を揺らして、そして笑いを堪えながら答える。
「ええ、確かにそうだ。あの部屋は貴方の為に用意したのですよ、渡瀬様」
「私の為?それはどういう…」
「さあ、朝食の準備は済ませてあります。こちらへどうぞ」
強制的に話を切った石津は、立ち尽くす渡瀬の手を引いて、食卓へ移動した。
食卓も色鮮やかな空間だった。大きな机と、それを囲む五つの椅子は、どれも色が違い、それぞれが存在を主張しているようだ。
好きな所へ掛けるように言われて、渡瀬はなんとなく真っ黒の椅子に腰掛ける。
「おや、渡瀬様は黒がお好きですか」
食事を運びながら、石津は興味深そうに問う。
「さあ」
「その席は私も好きなんですよ」
渡瀬は石津の顔に被せられた黒い布と、体を覆う黒いスーツをまじまじと見る。そして、何故か今まで気にならなかった事に気が付いた。
「その状態で、前が見えるのですか」
石津の動作が一瞬止まり、そしてまた動き出す。
「随分今更ですね。見えていますよ、しっかりと」
「へぇ」
気になる事ではあったが、渡瀬はそれ以上は詮索しなかった。
「さあ、お召し上がりください」
渡瀬の目の前に広がる朝食は、豪華とは言い難いが、随分と見た目の良い、典型的な和食だった。焼いた鮭は綺麗なピンクで程よく焦げ、白米はふんわり盛られて白い湯気を上げていた。その他にも、ひじき、茄子の漬物、ネギの味噌汁、オクラの和え物、玉子焼き等、どれも素敵に盛り付けられ、渡瀬の空いた腹を魅了する。
「い、いただきます」
しっかり手を合わせてそう言うと、渡瀬は素早く食事を始めた。
「いしつさん、これ、全部貴方が作ったのですか」
「ええ、そうですが…渡瀬様は私が思っているより学習能力が低いのですね」
渡瀬は白米を頬張りながら失礼な、と呟く。
「どういう意味ですか」
「私の名前はいしづです。昨日そう話したではありませんか」
記憶を手繰り寄せても、渡瀬はそんな事を思い出せなかった。思い出せないというより、今は食事の事で頭がいっぱいなのかもしれないが。
「良いではありませんか、そんな事」
黒い椅子の、机を挟んで丁度前にある赤い椅子に石津は腰掛ける。
「そんな事って。良いですか渡瀬様、名前は大事ですよ。私が貴方の事をあいと間違えて呼んでも構わないのですか」
「構いませんよ」
石津は少し呆れた様子で、首を横に振った。
「絶対に呼びませんよ、あいだなんて」
石津は自分で言っておいて、あいと呼ぶ事を否定した。
渡瀬は食事に夢中であった。
食事を終えた渡瀬は、黒い椅子に座ったまま、食器を洗う石津の後ろ姿に話し掛けた。
「『遺失物相談係』なんて、それもこんな独特な…。どれだけの人が利用するのですか」
「利用者は、恐らく想像なさっている通り、あまり多くはありませんよ」
石津の声は布と、流れる水の音にも消されることなく渡瀬の耳まで届いた。
「私の前に利用した方は、いつ頃此処へ来たのですか」
「全員が此処に来るわけではありませんよ。すぐに探し物が見つかる場合が多いですから」
「探し物っていうのは、どんな物があるのですか」
石津は水道の蛇口を閉め、布巾で手を拭きながらこちらへ歩いて来る。しかし今度は赤い椅子には腰掛けず、黒い椅子の右隣に在る、黄色の椅子に浅く腰掛けた。
「あまり詳しくは言えません、渡瀬様はあくまで相談する側、こちらの事情を探る必要はありません」
確かにそうだ。そうなのだが、この妙な『遺失物相談係』という存在は、あまりにも謎が多すぎる。
黙って俯く渡瀬に、石津は囁いた。
「しかし、一つだけ言いますと、記憶を探すにはそれなりの時間が掛かります。私も超能力者ではありませんから、一つ指を鳴らせば他人の記憶を読めるわけではありません」
「超能力者はそんな事ができるのですか」
「いえ、それは知りませんが…。まあ兎も角、貴方の『探し物』が見つかるまで、ここに居て貰うことになります。それでも良いですか」
石津の声は、いつになく真面目だった。渡瀬は躊躇わずに答えた。
「良いも何も、記憶の無い私に、帰る場所も頼る人も無いのです。ここに置いて貰えるのなら、有り難い」
石津はふっと息を零して、立ち上がった。
「では改めて、宜しくお願いします、渡瀬様」
渡瀬も立ち上がって、石津と向き合う。
「宜しくお願いします」
渡瀬はこれまで感じたことの無い安心感に目が眩みながら、しっかりと石津の手を握り締めた。
投稿が遅れました、ごめんなさい。