僕らのお風呂 そのさん
ちょっと作者のリアル事情がどったんばったん大騒ぎ状態でして、今回は短めです。
オスカー・シャロンの魔道工房、その3階。本来、ただ平坦な屋根部分であったそこは、今、大きくその姿を変じている。
物置部屋となっていた、二階の端の部屋に、新たに木製の簡素な階段を設置。上へとあがれるようになっている。
3階へとあがった先にまず目に入るのは、屋上の中央に、祭壇のように一段高く組まれた煉瓦のスペースだ。
中央には黒々艶々とした円形の、広々とした窪み。その窪みはアーニャが5人分くらい同時に寝そべっても、まだ余裕があるだろう。
窪みの表面を覆う曇りない黒艶の輝きは、横合いから差し込む、沈み往く橙の陽射しを受けてなおその荘厳さを保っている。
窪みの上部には、四隅の支柱で支えられた木製の屋根が備え付けてあり、このやや傾斜のついた新たな屋根は、2階と3階を結ぶ階段の上にまで伸びている。雨の日でも安心だ。
屋根の内側には、現在は点灯していないものの、魔力灯も配備してある。普段の薄紫のものではなく、変光術式を噛ませて橙色に光るようになっており、夜間はこれを利用する。
「ふう、こんなもんか?」
「はい。上々ですね」
壁となるべき部分にも支柱が打たれ、それに沿って、こちらにも小さい屋根が設けられている。壁は煉瓦や材木で塞いでしまうのではなく、本来そういった壁のあるべき場所にはなんと編んだ草を屋根の支柱から掛けてあるだけだ。
上下を固定しているうえ、編んだ草の層は二重になっているために勝手に捲れてしまうことはないが、風を防ぐ効果はほぼ期待できない。しかし水を扱うにあたり、風通しをよくしておくことで汚れや病気を防ぐ狙いがあるのだとか。
「とくに魔術的な加工もしていないのに、本当に向こう側が見えなくなったな」
「はい。
簾と言いまして、ある程度の陽射しは通しつつも目線は遮れるという優れものなのです」
「ラシュの手先の器用さに感謝だなぁ」
3階の、四方をあまねく取り囲む簾の制作のほとんどは、ラシュの手によるものだ。
籠編み用に売られている草を大量に買い求め、あとはちまちま、ちまちまと板状に編み上げたのだ。
この地味な作業に早々に音を上げたのは、アーニャと僕だ。僕はなんとか人手を介さずに魔術で編み上げられないか、とああでもないこうでもないと画策している間に、あれよあれよと言う間にラシュがほとんど編み上げてしまったのである。
「はい。ですが、私も頑張りました。
お褒めいただくタイミングは今でも良いと考えます」
「シャロンも、ありがとうな」
「えへへぇ」
露骨に催促してくるようになってきたシャロンを労うと、小首を傾げて彼女は微笑む。長いまつげの瞼がその蒼の瞳を覆い、橙に照らされた金の煌めきが、さらさらと風に靡いている。
「ぼく、これも、がんばった」
シャロンに対抗してか、自らの力作を誇るラシュ。
それは、猫の形をした像である。
らっぴーより少し大きいサイズの黒猫は、祭壇のようになっている煉瓦造の一角に、ちょこんと鎮座している。
ラシュが粘土を捏ねて造形し、焼き入れをし、薄く薄く伸ばしたテンタラギオス鋼でコーティングしたその黒猫は、目にはお馴染みの僕の魔力宝珠を搭載している。
黒猫を一撫でし、魔力を通す。
すると、その像の口元に描かれた精緻な魔方陣から、澄んだお湯がだぱぁっと溢れ出してきた。
「ピ!?」
いつも通り、ラシュの頭上で寛いでいたらっぴーは、突然湯を吐き始めた黒猫に驚いたのかラシュの頭から飛び降り、そーっと、そーっと黒猫の横に近づき、その嘴で恐る恐るつんつんと黒猫を刺激している。猫の像は黙ってお湯を吐き続けるのみであるが。
これは、ちょうど階下で塩を作って火を焚き続けているため、そこで生まれた熱や湯を汲み上げているのだ。
溢れ出した湯は、勢い良く黒々した窪み——浴槽に流れ込んでいき、沈み往く夕日に白い湯気が立ちこめて、橙の光をぼんやりと拡散させていく。
「ああ。たしかに、よくできてるな。
ラシュも、ありがとう」
「ん」
近くに寄ってきたラシュの頭をわしわしと撫でると、彼は尻尾をわさわさとさせて喜びを示しているようだ。
「ピピピビビビビ」
「あ。らっぴーがびしょびしょになってる」
猫の口から発する湯を覗き込み、頭からもろに湯を浴びてしまったと思しきらっぴーは情けない声を上げた。
猫に湯を吐きかけ続けられるらっぴーを救出にきたラシュにつままれると、しんなりして細くなった身体で精一杯黒猫像を威嚇している。
「なんで黒猫の像から湯を吐かせるようにしたかったんだ?」
この機構の発案は、シャロンによるものだ。が、実際に完成した像の口元から湯がとめどなく溢れ出るさまは、なかなかにシュールなのだった。
「はい。
古来より、大きなお風呂ではネコ科の生物の口から齎された湯で満たすというしきたりがあります」
「そういうもんなのか」
「はい。そういうものなのです」
胸を張るシャロンが満足げなので、少々シュールであろうと僕としては構わないけれど。
猫に湯を吐かせるには、僕とシャロンの腕輪か、アーニャたちの首輪のどれかがあれば、動作するようになっている。僕は自身の魔力を注いで代用することもできるけれど。
“倉庫"経由で遠隔起動も可能だ。お風呂に入りたいタイミングで予め階下からの操作ができるのは、いざ使う段になると、存外に便利なものである。
足首の高さ程度にまで湯が張られつつある、陽光煌めく浴槽。
いやぁ、ここに辿りつくまでなかなか大変だったが、わりと楽しかったな。
脱衣や着衣のための場所は設けていないが、“倉庫"にそれ用の棚はしっかり作ってある。隣にオーク肉が転がっていたので、アーシャが憤慨していたけれど。
ともあれ、ついに——
「完成だ」
僕のひとことに、シャロンは優しい眼差しで拍手をしてくれ、ラシュはわー、と喜んでくれる。らっぴーはまだ黒猫像に威嚇をしているが。
「おねーちゃんたち、よんでくる!」
言うが早いか、ラシュは真新しい階段を駆け下りていった。
その様子を、シャロンは浴槽に腰掛け、目を細めて微笑んで見送っている。
室内履きを脱ぎ去り、その白く細い足で水面をばしゃり、ばしゃりとかき乱す彼女は、僕を振り返って手招きをした。
「なんだか、思い出しますね」
「ゴコ村で水遊びしたことか?」
「はい。
『思い出します』と言っただけで同じことを考えているなんて、これはもはや結婚と言っても過言ではないのではないでしょうか?」
「シャロンもご存知の通り、僕らもう結婚してるからね」
「えへへぇ」
シャロンの隣に腰を降ろすと、水面に反射した陽光が彼女の金の髪と相俟って、その笑顔を眩しく彩った。
「ピ……ピェ……」
湯を排出し続ける黒猫像に挑んでいる間にラシュに置き去りにされたことをようやく気付いたらしいらっぴーが、か細い鳴き声でよたよたと近寄って来たので、アーニャにするように魔術で水分を取り除いてやる。
「ピ。ピ?」
突然身体が軽くなったことに驚いたのか、体勢を崩したらっぴーは、そのまま湯船にだぽんと落ち、嘴を半開きにしてぷかーっと浮いているかと思えば、ふたたび黒猫から噴出している湯の奔流に責め立てられた。
「プピピブピペペ」
「ふふっ」
シャロンが助け上げると、らっぴーは湯船から一目散に離れて簾のあたりに張り付いた。
丸々した体は水を吸い、再びしんなりとしてしまっている。
「私、オスカーさんと二人なら」
「うん?」
「あなたと一緒であれば、あの地下での——第七神継研究所での暮らしでもいいと本当に思っていたのです」
「今は、そうじゃない?」
「はい。ええと、いいえ。
ううん、なんでしょう。いまでも、オスカーさんがいらっしゃれば、どこでも暮らしていけますし、それで私は幸せだと思っています。
ですが、もし選べるのなら。選んでも良いのであれば。いま、この場所が一番幸せだと。そう、思っています」
僕を見つめる蒼の瞳は、あの頃からずっと曇りなく。
初めて僕が彼女に出会い、彼女がシャロンになったあの頃から。僕がシャロンに見惚れたあの頃から、ずっと変わらず。
でも彼女の内面は、少しずつ変わってきているように思う。
僕がそう望んだから、彼女は彼女なりに、変わろうとして。
僕と。僕らと共にあるために。
彼女はいまも、成長し続けている。
「……まだまだ、だよ」
「?」
隣に座るシャロンの髪を梳くと、彼女はこてん、と人懐こい表情を僕に向ける。
「まだまだ、もっと。
これが、この場所がまだ一番の幸せじゃない。その絶頂じゃない。
もっとたくさん、幸せを積み重ねていこう、僕らで」
そのために。僕らは夫婦となったのだから。
「オスカー、さん」
ふっと笑ったシャロンは、その目を閉じて。
首を少し傾け、そのぷっくりとした口元を、僕に向ける。
僕は、シャロンの柔らかな肩を左手で。滑らかな金の髪を持つ頭を右手で抱き。
「ひぅっ」
階段の方で上がった、息を飲む声を一瞥しつつ、軽く唇同士を触れ合わせる。ふにっとした柔らかな感触が伝わるかどうかという、本当に一瞬のふれあい。
「——えへへ」
シャロンはそれでも満足気に微笑むと、その場にすくっと立ち上がり、階段のほうを見やると。
覗き見をしていたアーニャたちを手招きした。




