僕らとはじめての青
寄せては返す、波の音。
昼下がりの日差しを眩しく照り返す水面。
ざざーん、ざざーんと、規則正しく繰り返されるそれを前に、僕らはただ立ち尽くす。
「海、ですね」
海。
海沿いの街を、ガルレムまで戻る中継点に選んでいたのだから、いずれは行き当たる予定ではあったそれ。
しかし。思っていたより。あまりにも。
「カーくん」
「うん」
「デカない?」
「うん」
恐る恐る、問い掛けてくるアーニャの心境がよくわかる。
そうなのだ。デカいのだ。
とにかくデカい。それ以外に言い表しようがないほどに、デカい。あと太陽が反射してかなり眩しい。
「いっぱいお水があるの、すごいの。
ここなら喉が乾いても困らないの。
ほらラシュ、起きて起きて。すごいの」
「海は塩の溶けた水です。
喉が乾いたときに飲んではいけません」
荷台で寝ているラシュを起こしにいったアーシャに対し、冷静に答えを返すシャロンも、眼前に拡がる海の景色に釘付けとなっている。
それほどまでに、海というものは大きな存在だった。
なにせ、いま馬車を停めている崖下から、前面視界の限りが海なのだ。
この海の先には、別の国があるということを知識の上では知っている。寄せては返す波の間を航行できる規模の船がある、ということも。
しかし、実際にはじめて目にした海は。その威容は。一言で形容し難いものだった。
「シャロンさまのお目めの色みたいに、とってもとっても青いのっ」
「塩って、そんなもん、こんなけの水に誰が振り掛けてんな。勿体ないわー」
感じ方は、それぞれであるようで。
馬車の荷台で寝ていたラシュも目を擦りこすり、やって来る。
そして、目を真ん丸に見開き、驚愕を示した。
「あにうえさまより、おっきい」
「なんでも僕を判断基準にするの、やめない?」
「あねうえさまよりも、おっきいよ」
「そもそもシャロンより僕の方が大きいからね、そりゃね」
白っぽいもふもふした尻尾をせわしなく振り回し、ラシュは感動を表現しているようだ。
なお、この呼ばれ方は、僕とシャロンがこれからずっと一緒にいるよということを説明して以来、ラシュは僕らのことをこう呼ぶようになった。彼にとって、ずっと一緒にいる存在というのは家族であるらしい。
ちなみに、アーニャやアーシャは『ねーちゃん』および『シャーねーちゃん』と呼ばれているのに、なぜかシャロンは『あねうえさま』だった。はじめて聞いた時にはアーニャは何かもんにゅりした顔をしていた。
「らっぴーにも、見せてあげるの」
アーシャは、自らの首に着けられた、漆黒の真新しいチョーカーに触れると、高らかに宣言する。
「"開け、なの!"」
その言葉に反応し、首輪の中央に嵌め込まれた紫色の宝石が鈍い光を放つ。
よくよく見ると、宝石だけではなくチョーカーの前面に刻まれた模様もうっすらと輝いていたりする。
本来、発声の必要はない。だけれども、念じるよりも声に出すほうが、アーシャとしては楽しいらしい。
そうして、鈍い光はすぐに収束してアーシャの手元に薄紫色の魔法陣を形作る。
アーシャは躊躇いなくそれに手を突っ込むと、突っ込まれた部分である肘から先が消失したような形になった。
「よいしょ、なの」
やがてアーシャが魔法陣から腕を引き抜くと、魔法陣は消え、その小さな掌には丸っこいラピッドクルスが乗っている。
名前はらっぴー、命名者はアーシャである。
「らっぴー、海なの」
「ピ」
対して、らっぴーは海に対してはわりとどうでも良さそうな様子であった。
アーシャの掌で短く鳴いた後、ばささっと羽ばたくと、ラシュの頭の上に舞い降り、そこで再び丸くなる。
ラシュの耳はもふもふなので、ここ最近のらっぴーのお気に入りスペースなのだった。
乗られている当人たるラシュも別段気にしたふうもなく、尻尾をわさわささせながら海を眺めていた。
「待って。カーくん、ウチ、無理や。ほんま。ほんまにウチの弟可愛い」
「アーニャはもうちょっと落ち着いてもいいと思う」
妹や弟の可愛さが、アーニャの中での限界を超えると、最近こんな感じで僕に報告してくる。
なにを待てばいいのか、なにが無理なのかは不明だ。
今も、頭の上に丸っこいらっぴーを乗せて和んでいる様子の弟の様子を見て、アーニャはこんな状態になっている。ここ最近の気の緩みっぷりが半端ない。
むしろピリピリと気を張っているアーニャのほうが普段の姿ではなく、こうやってダラけているほうがもともとの彼女らしいのかもしれない。
皆思い思いに、それぞれが初めて目にする海を眺めること、しばし。
やがて、シャロンが移動を切り出した。
「馬も多少の休憩はできたでしょう。
もう少しで街に着くと思いますので、移動を再開しましょうか」
「ああ、そうしよう。
ごめんな、シャロン。御者を任せっぱなしで」
「いいえ。全然へっちゃらです。
むしろオスカーさんのお役に立てるのが嬉しいです」
カランザの町からここまで、丸二日ほど。
一頭建の馬車を駈るのはシャロンの役目だった。
僕もちょっとやってみようとはしたのだけれど、微妙に曲がったりだとか、障害物を避けるだとか、そういった指示が全然うまくできなかったため、結局ずっとシャロン任せになってしまっている。
まっすぐ進むだけなら問題ないのだけれど、馬を駈るのは思ったよりも難しいのだった。
いそいそと御者台に乗り込むシャロンの隣に腰掛ける僕。最近の定位置だ。
箱型の荷台には、アーニャ、アーシャ、ラシュがそれぞれ乗り込んでいる。ラシュはらっぴーをまだ頭に乗せたままである。
ラシュは、荷台によじ登るときにらっぴーが転がり落ちないよう、耳で支えてあげているようで、それがめっちゃ可愛いねん、とアーニャが後ろの様子を報告してくれる。ほんま無理、とも報告されるが、何が無理なのかは不明だ。
ごとごと、ごとごとと規則正しい音と、わずかな振動を伝えながら馬車が動き始める。
すぐ側の海の音も相まって、なんだか眠くなってきそうだ。
僕らの旅程を支えてくれている荷台は僕が作ったものだし、馬は冒険者組合で借り受けたものだ。
冒険者組合の各支部では、馬や装備、テントなどの備品を貸し出してくれる。とは言っても購入するよりもどちらかというと割高な値段である。
借り受けたものは、冒険者組合の他の支部に返却することもでき、その際に貸与金を差し引いた額が返還される仕組みとなっている。
馬などが枯渇している支部に返却した場合には、そのぶん色を付けて金額が返却されたりもするのだとか。
冒険者として登録されている者であれば、より優遇された値段で借り受けることもできるという仕組みらしいのだけれど、僕は冒険者登録をしていないので、一般民としての借用となっている。
冒険者として登録すると、町から町への移動を行う際にも申告が必要だったり、有事の際に声が掛かったりなど、優遇以外にも面倒なことがいくつかあったため、冒険者としての登録というものをしないことにした。
それより僕は今の気軽な状態がわりと好きだった。
荒事が必要であれば躊躇するつもりはないが、べつに好ましく思っているわけでもなかったので。
「ふぅ、おしまい、なの。
おねえちゃんのも磨いてあげるの」
「ん。ありがとー、アーちゃん」
荷台のほうでは、アーシャが日課をやっているらしい。
ご機嫌な様子で、なにかの鼻歌を唄いながらカチャカチャという音を立てている。
「随分、気に入ってもらえましたね」
「うん。頑張って作った甲斐があったよ。
シャロンも、手伝ってくれてありがとう」
アーシャが現在磨いているだろうものは、僕とシャロンが三姉弟のために作った首輪だろう。
エムハオのなめし革を基調とし、アリアドネの金糸やアダマンタイトと銀の混合金属で接合した逸品である。
エムハオは、角のある、耳の長い臆病な魔物だ。
その発見も討伐もそう難しくはなく、しかし放っておくと簡単に増えて馬車道を穴だらけにしたりするので、もっぱら初級の冒険者が狩猟して日銭を稼いだりする。その肉は食べられるが、さほどおいしくはない。主に塩漬けにされ、保存食として加工される。
僕の故郷ではそれなりに貴重だったのだけれど、カランザでは冒険者の数も相応に多いのだろう、かなり安価で手に入った。
この魔物の特徴は、魔力との親和性だ。もともとその革の色は白いのだけれど、魔力を浸透させるとその色を変じさせる。また、その伝導性も極めて高い。
たとえば僕が試しに魔力を込めてみると、毒々しい紫色となった。しばらく放っておくとだんだんと色は元に戻っていくが、変色した状態で熱を加えるとその色が固着し、戻ることはない。
この革に、アーニャたち各人の尻尾の毛を少しだけ編み込んである。
また、各人それぞれの微弱な魔力を僕が抽出し、固着させることで、それぞれのチョーカーの色は異なったものになっている。
アーニャのものは、真っ白。純白、である。元々のエムハオの革の色よりも、なおハッキリと澄んだ白色だった。
当人はウチに似合うかな、と当初こそ恥ずかしそうにしていたものの、贈って二日経った今では気に入ってくれているようだ。
対するアーシャのものは、真っ黒。漆黒だった。アーシャは、アーニャやラシュに比べると多少魔力があるらしい。あくまでも獣人としては、だけれど。
艶やかな光沢を目にしたアーシャは『オトナなカンジなの! かっこいいの!』と喜んでいた。実際、メリハリの感じにくいアーシャの体格に対して、この黒のチョーカーは不思議な色気を醸し出すことに一役買っている。
最後に、ラシュのものは、灰色。月の光をそのまま流し込んだような、優しい色であった。
ラシュ本人としては、僕が試しにやってみせた紫色と同じにならなかったことが多少不満であったらしいのだけれど、シャロンの目を通して壁に投影された自身の姿をみて、すっかりその評価を改めたらしい。
その優しい灰色は、たしかにラシュの白っぽい髪や耳の毛並みとよく親和していたのだった。
わざわざエムハオの革を使い、各々の魔力に適合させたのは無論、意味のあることだ。
獣人は、魔力の量も、質も、またそれを扱う資質に至るまで、かなりその特性を欠いている。
そのため僕が以前に作った板のように、外付けの魔力を糧として、あらかじめ埋め込まれた機能だけなら発揮できるような魔道具に仕立て上げた。
そうして当人たちの意志によって随意発動ができるように、なるべく本人の魔力伝達を妨げないよう、それぞれ専用の素材を用意することとなったのだった。
核となる魔力源の部分には、僕が三日三晩魔力を"抽出"して"錬成"した、紫に燦く宝石が嵌め込まれている。
この宝石は今の僕が作り出せる、会心の出来と言っていい。
アーニャのものは白の生地に黒の刺繍で。
アーシャのものは黒の生地に白の刺繍で。
ラシュのものは灰色の生地に金の刺繍で。
それぞれ、魔法陣と紋様が刻まれている。
効能としては、常時発動のものが、抗魔力と解除制限。
抗魔力は、僕の"剥離"程度の威力であれば防げる。後先考えずに全力で発動すれば、もしかしたら通るかもしれないけれど。
そこいらの人間や魔物よりは高い抗魔力を持たせることができたので、まあいいだろう。
解除制限は、装着された本人しか外すことができない制約だ。こちらも、無理やり魔力を流し込めば取り外すことは不可能ではないと思うけれど、考えなくてもいいだろう。
そんなことをするくらいであれば、首を落として奪い取ったほうが早いくらいだし、無理やりに奪い取ったところで当人たち以外には使い道がない。
仮にアーニャのチョーカーをアーシャが着けても、その機能は使えない。これは、チョーカーに編み込んである魔力パターン以外のものを弾く制御が加えられているためだ。
姉妹でさえそうなのだから、赤の他人が手に入れたところで、特にどうともならないのである。製作者である僕でさえ、そうだ。
また、随意発動型のものが、"倉庫"への接続、制限された念話だ。
"倉庫"への接続は僕やシャロンの持つ板と同じであり、念話に関しては、このチョーカーを着けている者同士での念話が可能となるものだ。
ロンデウッド男爵の屋敷での一幕でも、あったほうが便利だと思い、盛り込んだ。
この機能を無理やり追加しようとしたため、チョーカーの裏側――普段見えない首側の面――にはびっしりと模様が刻んである。
いやー。我ながらいいものを作ったものだと思う。
ヒンメル夫人から教わった裁縫技術を駆使し、要所要所でシャロンも手伝ってくれていた。
そのため、この魔道具は僕らふたりの合作なのだった。
しかし。当初は不安もあったのだ。
いかに綺麗に、かつ便利な魔道具として作っても、首輪であることには変わりない。
なので、彼女たちには不満を持たれるかも。不快感を示されてもしかたない。とも思っていた。
しかしそれを推してもなお、町中に出たときに余計な苦労を避けるためにも、なんらかの首輪状のものを彼女たちが装備している必要があった。
どう見ても奴隷の首輪には見えず、完全なファッションアイテムのようなチョーカーだったのだけれど、それでも抵抗感があるかもと思っていたのである。
ところが、実際にそれを作り始めると、アーシャやラシュだけでなく、アーニャまで大喜びだった。
その期待っぷりは、宝石を作り出すために魔力を込め続ける僕や、裁縫をするシャロンの様子をこまめに覗き込みにきては、シャロンに追い返されるなどの行動が見られるほどだった。
「おしまい、なの。
ラシュのもやったげるの」
「ピェ」
「シャーねーちゃんありがとー」
以来、暇を見つけてはチョーカーを丁寧に磨くアーシャの姿が散見されるようになった。
少々ごしごしと擦ったところで傷がつくようでは魔道具としての機能に支障があるので、ある程度の強度を持たせてある。なんなら、着けっぱなしでもさほど問題はない。
しかし、アーシャは丁寧に、丁寧に。時間をかけて優しく磨くのだった。
「にしても、あれやな、カーくん。
人間は、ヨメを迎えるときに宝石を渡すんやろ?
これ、もしかしてウチらみんなカーくんの嫁ちゃう?」
荷台から、御者台にいる僕のほうに声が掛けられる。その表情は見えないものの、きっとアーニャはニヤニヤしていることだろう。
なんだかその問答に聞き覚えがあるなと思ったら、シャロンも初対面のときに同じようなことを言っていた。
いつものようにシャロンが何か噛み付くかとも思われたのだが、どうも今回の彼女の思いはそんなふうではないらしい。
「私はそれでも構いませんよ。
第一夫人が私であれば、それで」
これから向かうキシンタの街での、丸一日二人でデートするという約束を(半ば無理やり)取り付けたシャロンさん、余裕の笑みだった。
先日の、アーニャと二人で買い物をして戻ったときに取り付けられた約束なので、違えるわけにはいかないものだ。あのにこにこ笑顔は怖いったらないのだ。
「オスカーさま、シャロンさま。
おろかものですが、よろしくおねがいしますなのっ!」
そこに入るべきはたぶん愚か者ではないと思う。
「ぼく、がんばる。
あにうえさまの、いいおよめさんになる」
そこに入るべきはたぶんお嫁さんではないと思う。
「ウチもウチも。
ほら、獣人の生娘を手篭めにしたら寿命伸びるとかなんとか阿呆供が言うとったやん。
ほらほら。カーくん、寿命伸ばさへん?」
「がんばっててごめになるのっ」
「あにうえさま、てごめってなに? おいしい?
らっぴーも、なる?」
「ピ、ピェ」
なんとも収拾の付かない感じになってしまった。
「僕の意志も勘定してくれ……」
流れる潮風にのせて僕がボヤくと、隣のシャロンがいつものようにこてんと首をかしげる仕草を返してくる。
「あら。オスカーさんは可愛い嫁がたくさんいるのはご不満ですか?」
「いや、そういう、わけでは。ない……ケド……」
「オスカーさんは、にぶちんチキンでいらっしゃいますからねー」
尻すぼみになってしまう僕の返答に、なかなか辛辣なシャロンの追撃が突き刺さるのだった。
そんな僕らを、なおも荷馬車はごとごと、ごとごと。
潮騒とともに、運んでいく。
にぶちんチキンさんの"剥離"が防げるということは、規格外でない魔術師には基本的に手出しできないということです。
ただ、多くの魔術師がやるように、炎などの物理現象として発現した魔術であれば、普通に火傷などダメージを負います。




