僕らと穏やかな朝
前話の挿絵、誤って古いバージョンのものを掲載してしまっていました。
2017/5/30 21時半頃修正しました。
窓を開けると、白い息が朝焼けに染み込んでゆく。
ある程度の寒さは、徹夜明けでボーッとした頭を動かすための、良い刺激になってくれる。
「ピェ」
窓から吹き込んできた冷たい空気に驚いたのか、ラピッドクルスは短く声をあげると、トテトテとベッドの裏側に入り込んでいった。
傷ついていた翼も"治癒"したのだけれど、こいつが飛んだのを僕はまだ一度も見ていない。
「オスカーさん、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
湯気の立つ、温かい布をシャロンから受け取り、顔を拭う。幾分、スッキリした気分になった。
「どうにかなりそうですね」
「ああ。今日中には、ひとまず肩の荷が下りそうだ」
僕とシャロンの二人は、アーニャが昨日、男爵邸の屋根裏に仕掛けた板越しに聞こえる男爵の怨嗟の声や復讐計画、暗殺者を呼びつけるがなり声なんかを環境音楽に、夜通し工作を行っていた。
もし仮に彼らが再び攻勢をかけてくる気配があった場合、即応できるようにするためだ。
男爵が方々の暗殺者に伝手を辿って声を掛けるよう指示をしていたが、その場で白々しくも応じていたダビッドによると3日は掛かるようである。また、『もし裏帳簿情報が漏れていれば今日にでも身柄を拘束されるでしょうが、賊は獣人にしか興味がなかった様子。まず問題ないでしょう』などと聞こえよがしに嘯いていたため、きっと今日には自由に動けなくなるということの報告だろう。
あのおっさん、僕が男爵の様子を探るなんらかの手段を残していることすら織り込み済みで喋ってるきらいがあった。本当に、食えない人物である。
「こっちはこっちで、旅の準備もある程度形になったし、いい感じだ」
「はい。実に良い仕上がりだと思います」
僕らは、ただ寝ずの番をするのも疲れるし勿体ないので、今後の移動手段となる荷馬車の車輪を作ったり、道具類を整えたりなど、それなりに充実した一晩を過ごしていたのだった。
今回作っていたのは、先日ヒンメルさんに作った馬車の機構を、さらに改良したものだ。前回の機構では、車輪が回転して魔術が発動状態になるまでは荷馬車が重かった。そのため、突然軽くなった荷台に馬がつんのめったり、轢かれたりする恐れがあった。一番最初に試しで引かせてみたカイマンが荷台に追突されていたっけ。
また、あまりに軽すぎるため、停止の時に長い距離をかけてゆっくり止まる必要があった。普段はそれでも構わないが、急停止の必要があるたびに荷台に追突されては馬も嫌だろう。
そのため、"軽量化"は車輪でそのまま発動するのではなく、車輪の回転によって一時的に宝石に魔力を貯蔵し、そこに溜め込まれた魔力を使って馬車全体を軽くしてやるように変更した。この宝石は御者台の下に仕込んだため、魔術の発動するか否かは宝石の着脱によって切り替えられる。
貯蔵された魔力を使うため、走り始めから"軽量化"状態にすることも可能だ。
馬車は"倉庫"に収納する用の板の魔法陣に収まるような大きさではないので、盗まれないようにするのが目下の懸案事項である。ある程度、結界でなんとかなるとは思うのだけれどね。
「結界といえば、アーニャたちの部屋に張った結界には何の反応もなし。
暗殺者やら獣人に手を出そうとする輩とか、いないにこしたことはないから、何もないのはいいことだけどね」
「はい。わざわざアーニャさんたちの部屋を別にとってらしたので、ついに私たちも大人の階段を登るのかな、登っちゃうのかな、なんて期待した私が馬鹿でありましたけれど。
何もなかったのは良いことですね。こちらも何もなかったですけれどね」
シャロンとしては、あまりお気に召さない一夜だったらしい。
今日くらい、姉弟水入らずにしてあげましょう、なんて言うから感じ入ったりしたのだけれど。
「あら。どうやら、アーシャさんが起き出したようですね。
オスカーさんも、朝食にしませんか」
「うん。そうしよう。
にしても、飯時以外ほとんど寝ていたのにアーニャはよく寝るなぁ……。
"治癒"で魔力を使ったっていうのはあるけれど」
「ご妹弟を取り戻されて、安心したのでしょう。
無理もないことです」
たしかに。
アーニャにとっては、ようやく存分にダラけられる状態になったのだ。
少しくらい気が抜けてしまっていても、責められたことではあるまい。
とは思ったものの。
朝食の場でも、アーニャはものすごいダラけっぷりであった。
「おねえちゃんもラシュも、まだ寝ぼけてるの」
「にゃー」
「んー」
冷たい布でアーニャとラシュの顔を拭ってやるアーシャの様子に、どちらが姉なのかわかったものではないのだった。
「はいなの。熱いから、気をつけてなの」
「ん。ああ、ありがとう」
アーシャはぱたぱたとよく働く。
いまも、僕らの朝食をカウンターから運んでくると、配膳までを手早く済ませる。
宿屋の一階でやっている食事処は、ちょうど朝食の時間とあって、それ相応の混雑具合だ。
未だうつらうつらしているアーニャやラシュの獣耳や、くるくると動き回るアーシャの動きに合わせ、ぴこぴこと跳ねる尻尾が周りの人の視線を集めている。そんなに不躾にじろじろと見てくる輩が多いというわけではなく、ちらちらと言った程度だ。
暗殺を警戒して、ある程度警備のしっかりした少々良い宿を選んだのだが、獣人に対する排斥を表立って行うような人物も居ないようで、その点でも良い選択だった。
獣人は、町中でもさほど見る存在ではない。娼館なんかではその限りでもないのかもしれないけれど。
むしろこの場では、物珍しさによってアーニャたちに吸い寄せられた視線は、そのすぐ横の優雅に佇むシャロンに固定される者達が続出している。運んできた皿をひっくり返す者、空になっているのにも構わずスプーンを口に運び続ける者、見惚れるパートナーを叱りつけようとして自分まで見入ってしまうカップル、などなど。そんな彼らは、シャロンの流れるような金の髪が揺れると目で追い、鈴の音のような可憐な声が発せられる都度、ほぅと息を漏らすのだった。
一種異様な光景ではあるのだけれど、シャロンにとっては目覚めてから村、町とずっとだいたいいつもこうであったし、アーニャたちはそもそも人里に降りてくることがなかったという。
そのため、この場が異様な状態であることを知っているのは僕だけだったし、その僕としても、こちらに何か害がない限りは放置の構えだ。いちいち目くじらを立てるようなことではないし、それに自らのパートナーが可愛いくて人目を集めてしまうのは、そう悪い気分でもないのだから。
そんな朝食の光景は、突然騒ぎ出したアーニャによって中断される。
「んにゃー……あっつ! これあっつい!」
「もう。おねえちゃん、あついよって言ったのに。やっぱり聞いてなかったの」
呆れ顔のアーシャの様子に、やはりどちらが姉なのかが判断に迷う僕だった。見た目だけなら、完全にアーニャがお姉さんなんだけどな。
今日の朝食は、塩漬けの肉と根菜をよく煮込んだスープだ。スープは、いい具合に肉から出た塩味が効いており、朝の染み入るような寒さに、温かい料理がありがたい。
しかしその温かさは、まだ半分寝ぼけていたアーニャにとっては厳しいものだったようだ。
アーシャの差し出した水をこくこくと飲み干すと、アーニャは神妙に語り出した。
「ウチは火傷した。
必ず、かの邪智暴虐な肉をふーふーせねばならぬと決意した。
ウチには加減がわからぬ。けれども口の中に関しては、人一倍に猫舌であった。ってことで、カーくん冷ましてくれん?」
邪智暴虐って少なくとも肉に使う形容ではなくない?
アーニャにしては、やたらと難しい言葉を使っている。目は覚めたようだけれど、言っていることはわりと変だった。
「氷でも放り込むか?」
指先ほどの大きさの氷の粒を中空にぱらぱらと作り出すと、周りのテーブルからざわめきが広がる。
しまった、こちらが注目されていることを忘れていた。僕も徹夜明けで注意力が落ちているかもしれない。
「いや、なんかそういうんやなくって。
ほら、うちら主従になるわけやん? もうちょい愛のある感じでひとつ」
尻尾をくねりくねりさせながら、はにかむアーニャ。
隣ではアーシャとラシュが『しゅじゅう?』と首を傾げていた。さすが姉弟、動きもタイミングもそっくりだ。
「従者のほうが主人に尽くしてもらうというのは変な気がします。
その点、私は形式上、オスカーさんと対等なパートナーです。私にご飯をふーふーしてあーんしてくださる分には、何の問題もありません」
まわりのテーブルのざわめきが、シャロンの発言に合わせて一瞬シンと静まり返ったかと思うと、また一気に噴出する。再び、皿をとり落す音まで聞こえる始末だ。
氷を作り出したときよりも大きなざわめきに、若干複雑な心境の僕だった。しれっと要求にあーんまで加わっているし。
「さあ、さあ! オスカーさん、あまりにスープを放っておいては、絶好のふーふータイミングを逃します」
周囲の様子などまるで気にせず、ずいずいと自らのスープ皿をこちらに寄せてくるシャロン。
「そうやで! ほらほら、カーくん。はよふーふーしてくれへんかったらスープさめてまう」
反対側からは、アーニャが同じようににじり寄ってくる。
「いや、さめるならそれで目的は達せるんじゃないのか」
「それはどうやろな。
自然に冷めたスープと、カーくんに冷ましてもらったスープ。
それははたして同じもんなんやろか」
またアーニャが変なことを言い出した。
「ええ。その通りです。
そこには明確な違いがあるのです。らぶとか」
僕は知ってるぞ、シャロンはもっと熱いものでも、なんら問題なく食べられることを。
「もう。おねえちゃん、オスカーさまをあまり困らせちゃだめなの。
ラシュだって一人で食べられるんだよ」
「ぼく、じぶんでふーふーできる」
こぶしでスプーンを握り込み、口の周りを汚しながらも、果敢にスープを口に運んでいたラシュにまで若干のドヤ顏を向けられ、アーニャは「うぐっ」と言葉に詰まった。がんばれ、おねーちゃん。
あんまりにあんまりな感じで姉としての威厳みたいなものが失墜している。実はもともとないのかもしれなかったが。
「いや、なんていうか。ウチも一人で食べられんわけではないんよ?
あの、でもな、そうやなくて」
「もう。仕方ない、甘えたなおねえちゃんなの。
ふー、ふー。はいなの」
「甘えたねーちゃん」
結局、アーシャに世話を焼かれてしまい、ラシュにも復唱されてアーニャはたじたじになっている。
「う、うぐぐ。
ウチが甘えたなら、シャロちゃんやってそうやん!」
「あら。なんですか?」
あまりに恥ずかしくなったのか、シャロンに水を向けようとするアーニャだったが、そこには丁寧な仕草で今まさにスープを食べ終えたシャロンの姿があった。
見れば、一生懸命に手と口をもごもご動かしていたラシュもそろそろ食べ終えるところだし、そういう僕だって途中からは話に加わらずに、速やかに食事を終えていた。
にこにこしているアーシャに見つめられながら、ばつが悪そうな様子でスープを食べるアーニャの様子は、なんとも微笑ましいものだった。
3人揃って耳をぴこぴこさせる様子が、このテーブルの空気をより和やかなものにしている。
なり行きでアーニャを拾い、蛮族、その黒幕とを倒す上でアーシャ、ラシュを助け出した。
しかし正直なところ、後のことは考えていなかったと言っていい。
「なあ、シャロン。この後は、どうしようか」
「はい。お部屋に戻ってくんずほぐれつしましょう」
「いや。そういうのではなくて。
ていうかシャロンはほんとたまにおっさんっぽいよね」
はて、私にはなんのことやら、と小首を傾げてみせるシャロンの様子に、僕はいつも通り苦笑いだ。
「そういうのではなくって。
思えば、遠いところに来たものだなぁって」
僕らが今滞在している町、カランザは、もともと村を焼け出されたハウレル一家が目指していた地である。
それは十日と少し前ほどの話だったはずなのに、このところの怒涛の展開で、もはやはるか昔のことのように思える。
「疲れてしまいましたか?」
「うーん。どうなんだろう。
やり遂げたのかな、っていう感じはある。
やり残してるなって思うこともある」
たとえば、いまも研究所の地下深くで、閉じ込められたままになっている人のことだとか。
たとえば、僕の両親の葬いだとか。
「では。まずはのんびりしましょう」
「のんびり?」
ようやくスープを食べ終わり、妹弟とじゃれ合いながらダラけ切っているアーニャのように、だろうか。
「はい。のんびり、です。
今までが少し、忙しすぎました。
人生には適度な緊張と、適度な休息が必要です」
「のんびり休息、か」
それも、いいかもしれない。
のんびりしている間に、やらないといけないことが、またいろいろ出てくるかもしれないし。
「アーニャたちを、獣人の里まで送り届けないといけないしな」
「それは、うーん。どうでしょう。
果たして、彼女たちは戻りたがるのでしょうか」
シャロンは少し思案顔で、そんなことを言う。
数日の同行を経て、シャロンもアーニャたちに愛着のようなものが湧いているのかもしれない。
「そりゃまあ、人間の多くいるところは怖いだろうからな」
多くの人間が、この場にいる者たちのように穏やかであるとは限らない。
商品価値のある獣人を、放っておかず、荒事に出る輩だっているだろう。
「それでも、アーニャさんは。
うーん。いえ、いいです。にぶちん"全知"のオスカーさんですもの」
突然、謎の誹りを受けた。
シャロンから向けられるあけすけな好意は相変わらずだが、なんだか僕に対する遠慮のようなものは少し減ったような気がする。
それは僕が望んだことなので、べつに構わないのだけれど。
「それじゃ、しばらくのんびりするってことで。
さしあたっては、買い物だな」
少なくとも、大きめのテントは買わないといけない。
僕の宣言に、頷くシャロン。じゃれあっていた姉弟は、揃って耳と尻尾をぴんと立てていた。
第二章は、もうちょっとだけ続くんじゃ




