一方その頃、知らん村では
海を隔てた遠い異国で、オスカーたちが後世にまで語られる一連の伝説を作っている頃。
時を同じくして、大陸の側でも少々厄介な事態が進行しつつあった。
その祠は森と村とを隔てる境界から木々や藪をかき分けて、わずかに森へと踏み入った窪地に、ぽつんと存在していた。
まだら模様の木漏れ日で彩られた簡素な木組みのそれは、村を開拓する際に作られたもので、その後に何度か修復された痕跡がある。
当時を知る者は天寿を全うし、祠が建てられるに至った正確な経緯を知る者はもう誰も残っていない。
年に一度、麦の刈入れを始める前に捧げ物をする時を除き、祠の周辺には人気がまったくない。それというのも、この場所は不可解なことが起こるとして村人たちから避けられているためだ。
誰もいないはずなのに、どこからか視線を感じたり足音が聞こえる、だとか。
その視線や足音がどこまで逃げても、家の中にまでも着いてくるだとか。しまいには耐えきれずに気を病んでしまい、絶叫しながら薪割り斧で家族を惨殺して首を吊った、とか……。
あるいは、夏なのに寒気がして耳鳴りがやまず、病をこじらせてそのまま痩せ死んだ、だとか……。
そういった噂話とも怪談話ともつかぬものを、村人たちは例外なく子供の頃から聞いて育つ。
なかには、度胸試しと銘打って足を運ぼうとする者もいないでもないが、その前後で忽然と失踪を遂げたり……などと数々の曰く付きの場所だった。
村人たちの間で、何か悪いものを祀っているのでは、といった疑念がたびたび持ち上がるのも無理からぬことだろう。
血気にはやった者たちが、老人たちの制止を振り切って祠を打ち壊そうとすること数度。
その後、旱魃、獣害、病魔といった災いが立て続けに起こり、祠が再建されるのも、また同じ数だけあった。
風に舞う木の葉が生み出す旋律を乱す、煩わしい音。
夥しい数の蝿が渦を巻いて飛び回る羽音だ。
「ぜひゅー、ぜひゅぅー……」
祠にもたれ掛かる女の喉は無骨な首輪に締め付けられて、ほとんど空気を取り込めていない。
女の命がもはや燃え落ちる寸前であるのは誰の目にも明らかで、しかしそれを観測する者はこの場にいない。そのはずだったが、ほとんど骸になりかけの女は直感的に理解していた。
なにかが己を観ている、と。
だから女は土気色になった顔で、腐り落ちた片目を笑みの形に歪めて嗤ってみせた。
捧げ物にされていた我が子だったモノを抱いて、狂笑する。
例年であれば、捧げ物は最初に刈り取った麦の一束だった。
けれどこの年は、『世界の災厄』復活騒動に伴い地揺れが頻発していたために、家屋が倒壊したり、それによって怪我人が出たり農具が壊れたりと、様々な悪影響があった。
結果、例年に比べてひどく収穫量が落ち込んでいた。
地揺れは森に入って狩りをするにも支障を来たし、肉が獲れない分、穀物の消費量も増えてしまった。
このままでは飢饉――食べる物がなくなり、餓死者が出る――が起こる。
そこで一計を案じた村人は、口減らしも兼ねて、村の獣人奴隷の赤子を捧げ物にしたのだ。
女にとっては、憎悪する村人か、あるいは村を訪れた行商か、誰ともわからぬ種で孕まされた子であった。
これまで生まれ出づる前に死んでいった子たちと同様に、なんの感慨も抱いていないはずであった。けれど、生まれてすぐに赤子は女の生きる導となった。
あまりにも弱く儚い命。物心ついて以来、自己肯定感に類するものを欠片も与えられなかった環境にいた女にとって、己の庇護がなければすぐにでも死んでしまうその弱い存在を抱いているときだけが、生を実感できる唯一の時間だった。
だから、女は嗤う。”隷属の首輪”の戒めで喉がへし折れようとも狂笑をやめない。
女にとって生まれて初めての幸運が味方して、懐に忍ばせていた炭の火は無事に祠に燃え移った。
長年にわたる酷使で枯れ枝のようになった手で、蛆のわいた肉塊を抱いて、嗤う。
ヒトよ、ほろべ、と――
軋んだ魂の発した狂気的な願いは、迅速に実行に移された。
わずか3日で、くだんの村は廃村となった。
たまたまその村を訪れた行商人は、村中ありとあらゆる場所に転がる骸と血と臓物とに肝を潰したという。
馬を飛ばしてたどり着いた隣の村で話をした行商人はその後寝込んでしまった。
何度か「足音がついてくる」とうわ言をこぼしたが、そのまま目覚めることなく幾日か経って息を引き取る。
行商人の語った隣村の様子は、ことがことだけに俄かには信じられなかったが、語った本人までもが死んだことで噂話が一気に村中を駆け巡った。
そこいらの村に娯楽となるものなんてほとんどない。村人にとって、新しい噂話は格好の娯楽だった。
しかし、その噂が楽しい娯楽であったのは、わずか数日の間だけだ。
「ついてくるんじゃねぇっつってんだろぉがよぉおおおおおおおお!!?」
怒号をあげ、目を血走らせた村人が隣人の延髄を農具で滅多刺しにする事件が発生し、噂話どころではなくなったためだ。
ガムレルの町とその近郊を治めるリーズナル卿の耳に、隣領で発生したこの惨事が届けられることはなかったが、その新たなる災厄の芽はガムレルに着実に迫りつつあった。




