僕と夜会話 そのいち
ヤツ家を騙る海賊船団を撃破したエルフィンド号は、行きと比べるとやや緩やかな速度で、舳先で白く砕ける波を割って悠々と海原を滑る。
乗組員たちは興奮冷めやらぬ様子で肩を抱き、つばを飛ばしながら口々に先ほどの戦いを語り合う。
圧倒的多勢をたった一隻で、それも直接手を下すことなく相対するだけ(少なくとも彼らにはそう見えていた)で敵船団は沈んでいった。まるで女神の威光に平伏するように。
乗組員たちはいわば伝説の生まれる瞬間に居合わせた立会人だ。
〝島喰み〟を討ち滅ぼしたのは物証があるため疑っていなかったが、やはり自ら目の当たりにした奇跡ともなると感動もひとしおってことらしい。女神の奇跡だと泣き出す人までいた。
これでまたレピスの名声も稼げるだろう。なんかもう過剰な気がせんでもないけども。
「女神様と原初の魔女様は奇跡の御業でお疲れですわ。皆で祈りを捧げましょう」
とかなんとかレピスが言い出して全員から熱心に拝まれたのには参ってしまったが、おかげでテンションの高い船員たちに揉みくちゃにされることもなく、僕とシャロンはのんびりと船に揺られるだけだ。
ゾエ白爵もいささか疲れが出たようで、白い航跡を見るともなくぼうっと眺め続けている。処断し海へ消えた者たちのことを考えているのかもしれない。
僕にとっては理不尽を働く海賊で、慈悲をくれてやる義理などない悪党であっても、ゾエ白爵にとっては自身の息子もその中に含まれている。奴らが自分の命を狙っていたとしても、やはり思うところはあるのだろう。
そうそう、ヤツ家――じゃなかった。海賊船団の唯一の生き残りである捕虜はというと、足首を頑丈なロープでぐるぐる巻きにされた上で後ろ手に縛られて船の端に拘束されている。顔は袋叩きにされてボコボコに腫れ上がっており、俯いて憔悴している。
抵抗する様子は見られない。けどまあ、仮に抵抗して逃げようとしたところで、海の上には逃げ場なんてないしな。
シャロンやレピスの悪巧みでは、この捕虜から重要な情報を引き出したというていで、後日ヤツ家や、ヤツ家やら利益を得ていた関係各所に睨みを利かせるらしい。
今回のことで艦隊は壊滅、次期当主も喪失という大打撃を受けたあちらが、このまま引き下がるかどうかは微妙なところだ。
大敗を喫したまま引きさがっては沽券にかかわる。それも落ち目のゾエ家にやられたとあっては、周辺貴族からもナメられることになりかねない。
艦隊で踏み込めば為すすべなく蹂躙できると判断したから正面切っての力押しを選んだわけで、それが通用しないとあっては、次の攻勢はもっと巧妙になるだろう。
息のかかった各方面から圧力をかけて商人を寄り付かせなくするとか、借金の取り立てを迫って経済的に干上がらせるとか……。
そうなってしまうと、今回のように向かってきた敵を締め上げるみたいな簡単な対処ではどうにもならない。
だから、捕虜から得た情報で「報復に来たらどうなるかわかってるよね?」「言い逃れできないあれやそれを公表しちゃうよ?」ってな具合に牽制をしておくんだそうだ。
捕虜から直接『言い逃れできないあれやそれ』を引き出せなくとも問題はない。
シャロンやリリィの手に掛かれば、船や物資、金銭の流れなんかの些細な情報から辿って、そこいらの秘密なんて根こそぎ丸裸にされてしまう。
そのへんの腹芸やら裏工作やらは僕の得意とするところではないけれど、彼女らに任せておいたらいい具合に追い込んでおいてくれるだろう。
そんなこんなで新たな島喰みに遭遇することもなく、エルフィンド号は日が沈み始めるより前にササザキ島へと帰投を果たしたのだった。
夕飯は例によって例の如く燻製バミ肉である。食欲をそそる匂いを発してはいるものの、いい加減食傷気味だ。アーシャの焼いたふかふかのパンが恋しい。
屋敷に帰りついてからも、ゾエ白爵は顔に深く刻まれた皺を動かすことなく消沈したままだ。
結局、言葉少なに諸々の礼を述べたあと夕食も摂らないまま自室へ引っ込んでしまった。
もともと覇気のある人物ではなかったけど、とぼとぼ去りゆく背中は以前よりも一層小さくなったように感じられる。
滅多なことはない……と思いたいけど、もし思い詰めてなにかを仕出かしたら事なので、リリィに気にかけておいてもらおう。
「なにかが起こる前に意識を奪っておきましょうか」
「いやいやいや、そこまではしなくていい。念のためだよ」
ぶんぶんと手刀の素振りを始めたリリィを慌てて止める。やめたげて。それがトドメになりかねん。
レピスは椅子に深くもたれかかり、時折、こっくり、こっくりと舟をこいでいる。暗殺者やら艦隊やらが片付いたので、張っていた気が緩んだのだろう。
――たまに半目になってるのを見なかったことにしておくくらいの気遣いは、僕にだってできるぞ。
「シャロンはレピスを見ていてやってくれ。いちおう、護衛だしな」
「はい。スカーレットさんはどちらに?」
「ちょっと夜風にでも当たって来ようかな。そう遠くにいくつもりはないよ」
どこか気遣わしげなシャロンにそう言い残して、僕が向かった先は白爵邸を出てすぐ側の岩場だ。
宵に包まれた天蓋には星がまたたき、水面に潜む月が夜闇をひっそりと浮かび上がらせている。
遠目に見える集落には明かりの灯った家がいくつか数えるほどにあるだけで、ほとんどの家はすでに寝静まっているのだろう。
照明用の脂だってタダではない。今はまだバミ肉から取り出したものがたっぷりあるが、わざわざ無駄遣いすることもないし、特別な用がない限りは日が暮れたらさっさと寝てしまうのが一般的な平民家庭の生活だ。
誰に見咎められるでもないので、維持し続けていた幻視術式を解除する。
「ふぅ……」
こぼれた深いため息は少女のものではなく、本来の僕の声だ。
見た目を変えているだけではあるんだけど、あの姿でずっといると、どうにも肩が凝る。
ごきりごきりと肩を回したあと、僕はもう一度深く息をついた。暗闇にやや慣れてきた目が、息の白さを知覚する。そう遠くないうち、冬が来る。
「なんだか、疲れたな」
手頃な岩に腰掛けて、ひとりごちる。
僕の声は寒空に溶け、僕以外の誰の耳朶を打つこともなく消えていく。……いやまあ、もしかしたらシャロンやリリィはお屋敷の中からでも聞いてるかもしれないけども。
潮騒と、時折吹く風の奏でる葉音の他には、虫や鳥の鳴く声すら聞こえない。おおかた、僕の発する気配に怯えて逃げ去った後なのだろう。
そろそろ化け物扱いされるのにもいい加減慣れてきたけれど、それでも若干気持ちは沈む。
慣れてきたといえば、この鼻腔を満たす磯臭さにも随分慣れたものだが、本格的に冬になる前にはガムレルに帰りたいものだ。
自分からひとりになりに来たというのに、すぐに人恋しさを憶える自らの身勝手さに苦笑が漏れる。白い吐息は潮騒に溶けて消えた。
そんなふうにたそがれながら夜風に当たっていると、ざり、と砂を踏みしめる音が近づいてきた。
明かりを持っている様子もなさそうなので、たまに石や木の根につまずき、歩調を乱しながら。けれど、その足取りだけは迷いなくこちらを目指して進み――ようやく、暗闇の中に僕の姿を見つけたらしい。ほぅ、と安堵のような溜め息がかすかに聞こえた。
「あら。こんなところで奇遇ですわね、旦那様」
暗闇に浮かび上がる銀色の髪を撫でつけながら、レピスは僕に向けてほにゃりと微笑んだ。




