ほの暗い船の底から
更新遅れて申し訳ありません。副反応で沈没しておりました_(:3 」∠ )_
まっくろな海の上、生者と死者とを隔てるたった一枚の船底の板の上。胸の中の腐った空気を追い出すように、男は深く息を吐き出す。
ここは、どこぞの貴族が金にモノをいわせて集めた、裏社会の者どもを乗せた船。死をお届けする厄災の揺りかご。
疲れ果てた男は、厄災をどこかの島に送り届ける船漕ぎ奴隷の一人である。目に光はほとんどなく暗く澱み、枯れ枝のように乾いた肌、痩せ細った手足。満足な栄養が採れていないのは、ひと目見れば誰もがそれとわかる。しかしこの船の漕ぎ手は彼と同じような者か、よりひどい状態の者ばかり。誰しもがその日の生を繋ぐことで精一杯だ。
船漕ぎ奴隷たちには知らされていないが、この船団の目的は別展開している艦隊を揺動として、ゾエ白爵の暗殺を成功させることにある。
艦隊よりも先んじて目的地へと到着していなければならず、積荷は最低限。荷が軽ければ船は速く進むが、削られた荷の中には船漕ぎたちの飲み水や食べ物も含まれる。
男たちは虫のわいた硬いパンを奪いあい、その様子をゲラゲラ笑いながら鑑賞する暗殺者たちの視線を耐え忍ぶ以外に生き残るすべがない。
『態度が気に食わない』と難癖をつけられ、なぶり殺しに遭った不運なご同輩がすでに3人。
3人目が欠けた時点で『左右で漕ぐバランスが崩れるよねぇ』などとわけのわからない理由で、生きたまま船から突き落とされたのが1人。
そうやって食糧を必要とする者が減ったから、奴隷の男たちがまだ生き永らえているというのは、実に皮肉な話だ。
船団に属する他の船にも暗殺者は乗り合わせているが、少なくともこの船では笑いながら人を殺す3人のイカれどもが支配者である。
彼らは互いをコードネームを兼ねた二つ名で呼び合う。
『鉄腕』の名で呼ばれる大男は、愛用の戦鎚で人の骨が砕ける音を聞くのが何より好きという残虐な変態だ。異常に発達した筋肉が隆起した双腕が目を引く。体躯自体も大きく、狭い船内でストレスが溜まるらしい。船漕ぎたちに難癖をつけ、2人を船板の染みに変えたのがこいつだ。
『黒蠍』と呼ばれるのは艶かしい肢体を晒す妙齢の女だが、嗜虐的なギラつく視線でいつも奴隷たちを眺めており、目があってしまった不幸な男の目を暗器で躊躇いなく潰す。いわく、『いやらしい目をされてムカついた』だとかなんとか言っているが、実際は悲鳴を聞くのが好きな変態だ。目を潰されたのはふたりいて、そのうちのひとりはそこから虫が湧いて数日苦しみ抜いて死んだ。もうひとりも昨日あたりから口の中でブツブツと何事かを呟き続けており、もう永くはないだろう。
最後のひとりは『不死身』のデォチ。『黒蠍』とはもとから面識があるらしく、たまに名前で呼ばれていることがあって船漕ぎたちもその名を知った。もっとも、本名である保証もないし、船漕ぎたちにとってそんなことはどうでも良かったが。
デォチが『不死身』と呼ばれるのは、その隻眼に捉えられて生き延びた対象はおらず、そしてどんな過酷な現場からも生きて還ることに由来する。伝説に謳われる『島喰み』に遭遇してさえ生き延びたというのだから、その実力は本物だ。
ヤツ家と手を組んでいた海賊の頭と盃を交わした縁がある、と今回の暗殺沙汰に協力を約束した。
『黒蠍』がバランスどうこうと言い出して船漕ぎを放り出そうとした時、『やめてやれよ、かわいそうだろ?』と言いながら、絶望の中に希望を見出した船漕ぎを海に突き落としてゲラゲラ笑っていた張本人がデォチだ。人の絶望した顔を何より好む変態である。
その3人が支配するこの船が、予定にない停船をした。
精も根も尽き、なんとか生きている――まだ死んでいないだけともいう――男たちが深い息をついたのも無理からぬこと。
船が止まった理由は、航路上に船舶が現れたためだ。
普通であればただすれ違って終わるだけだが、あちらの船舶はこちらの船団に用があるらしく呼びかけてきたのだ。
なんらかの魔道具で拡張された、姫を名乗る年若い娘の声。
新たな犠牲者の訪れに、男は奥歯を噛み締める。どうしてやることもできない己が身の不甲斐なさと、支配者たちの興味が逸れることに対する安堵、そして安堵を感じてしまった自己嫌悪ゆえに。
男はもう日付の感覚もなくしてしまったが、それほど遠くないかつての日、男の乗った商船は海賊に襲われた。多くの乗組員が殺され、命乞いをした男たち数名は捕縛された。司法や島主等、誰に訴える猶予などは微塵も与えられることがなく、こうして奴隷落ちして明日をも知れぬ今日を生きる羽目になったのだから。
「うほぉっ! 滅茶苦茶上玉揃いじゃねえのよ。ああいう雌を壊しながら犯んのが最ッ高なんだぜ。はやく戦りてぇなぁ、はやく犯りてぇよなぁ! なぁおい、いいだろ! どうせ仕掛けんだからよぉ、他の船の奴らに取られっちまう前にさぁ!」
「落ち着きなよ、『鉄腕』のダンナ。焦んなくてもあとでた〜っぷりかわいがってやりゃいいさ。興奮しすぎてうっかり捕まえる前に殺しちまわないでおくれよ? あの綺麗な目玉をくり抜いて食べさせてやったらどんな顔するか見たくてたまらないんだからさぁ。なぁ『不死身』の、あんたも……『不死身』の? なぁデォチ、どうしたってんだい」
「あ、ああ……」
喜色を浮かべ、身の毛もよだつ算段をつけ始める同業者たちに生返事を返し、『不死身』を二つ名する男は湧き上がる悪寒に、思わず潰れた側の瞼をさする。
相手はただの老朽艦が、それも一隻だけ。商船一隻に護衛艦二隻に見せかけた船団には、それぞれ名うての暗殺者や海賊が乗り込んでいる。負ける要素など微塵もない。そのはずなのに。
デォチに魔術の才はない。あればもっと真っ当な道でひとかどの人物にもなれたろうが、魔術の才のかわりに直感や虫の知らせといったものに秀でていた。この直感が彼を死地から生還させてきた。
その感覚がかつてないほどの強さで叫ぶのだ。即座に逃げろと。
もっとも、目視できる範囲にまで近付いた魔導機兵から逃げおおせるのは転移魔術でも使わない限りは不可能だし、その転移魔術にしたって転移先を魔力波から探知されるので、本気で追われたら逃げようなどないのだが、そんな事実は彼らにとって知る由もなし。
デォチが逡巡している間に、事態は動く。
船団を組んでいたいくつかの船が相手の船舶を包囲。矢戦の間合いにまで近づき、一斉に火矢を放った。
「投降の意志はないものと受け取りましたわ」
響く女の声はどこまでも冷静で平坦。
まるで、何をしてこようとも無駄であるのがわかっているかのように。そしてそれは、直後に示される。
放たれた無数の火矢が、空中で何かに弾かれたのだ。不自然に狙いが逸れた矢は、その全てが海中へと没する。
「なんだい、今のは!?」
「女がなんか投げたみたいだぜ、矢避けの魔道具でも持ってたんだろうさ」
「へぇ、『鉄腕』のダンナは目もいいんだ。よく見えたね」
「……『黒蠍』に目を褒められんのはゾッとしねぇが、おそろしく速い投擲だったぜ。俺じゃなきゃ見逃しちまわぁな」
得意げに語る『鉄腕』の指摘だが、内容には誤りがある。
魔導機兵・シャロンがなにかを投げたところまでは正解だが、投げたのは魔道具などではなく出掛けに浜で拾ってきた小石である。シャロンは火矢の射角、タイミング、矢に当たった小石が跳弾する弾道を計算し、弾き落とす神業を披露したのだ。
「おい、『不死身』のダンナよぅ。ぐずぐずしてっと女ぁ盗られっちまうだろぉがよォ! 俺たちもいくぜぇ!」
「あ、ああ、いや、しかし……」
「おらてめぇら働きやがれ! それともお前らが先にブッ殺されてぇか!? あァ!?」
気が立ち、目が血走った『鉄腕』に凄まれ、船漕ぎの男たちは竦みあがった。
進路を他の二隻が接舷しようと接近していく老朽船舶に向ける。
出遅れに『鉄腕』が歯噛みする中、先行した二隻からロープが放たれる。
先端には鉤爪のついた錨がついている。矢が通じないならばと、相手の船舶に横付けした船を繋ぎ、そこから白兵戦に持ち込む腹づもりなのだ。
しかし火矢と同じく鉤爪付きロープも撃ち落とされ、そうこうしている間にさらに事態は進む。
「はぁ!?」
「なんだい、ありゃあ?」
接近していた二隻から、人がふわりと浮き上がったのだ。まるで、見えない手によって首根っこを吊り下げられたかのように浮き上がる、船漕ぎたち。叫び声が青い空に広がる。
そして、なんの脈略も予兆もないままに、二隻の船が沈み始めたではないか。
「なんだ!? なにが起こっていやがる!?」
宙に吊り下げられていた船漕ぎたちは、襲いかかっていた船舶の甲板に降ろされてへなへなと座り込み、残された者たちが阿鼻叫喚をあげるなか、浮力を失った二隻の船は呆気なく浸水し、沈んでいく。
「馬鹿な!」
「デォチ! どうなってんだい、これは!?」
「俺が知るかよ! クソ、なんか知らんがやべぇもんはやべぇ。おい逃げんぞてめぇら。さっさと船を――」
言いさして、船漕ぎたちへと振り向いた『不死身』のデォチは絶句した。
なぜなら、この船の船漕ぎ奴隷たちも例外なく宙吊りにされていたから。
「て、てめぇらァ!? 誰の許しがあって浮かんでやがんだァ!? 降りてきやがれ! ブッ殺すぞコラ!」
「や、やばいよ。この船も沈みかけてるんじゃないかい!?」
「はァ!? 最新鋭の船だぞ!? なんの攻撃も食らってねぇのに沈むわけが……み、水がッ!? おい、『不死身』のォ! どうすんだ、どうすんだよこれぇ!? おかしいじゃねぇかよ、こんなのあんまりじゃねえかよォ! 俺たちが何したってんだよ、ええ!?」
見渡す限りに島の影は見えず、船には損傷も見られないのに沈んでいく。
破壊されたわけでもないので木片なんかも見当たらず、しがみつくものもない。
「まいったね、これは」
デォチは少しでも浮かんでいられるように、剣や纏った軽鎧を外そうとしたが、指先に鋭い痛みを感じて手を止める。
恐慌をきたして喚く『鉄腕』や『黒蠍』を無視し、恐る恐る手袋を外すと、綺麗に剥がれた爪と内側の肉が見えた。
予感に従い船底に目をやれば、まるで最初からそうであったかのように、底板が剥がれ落ちている。デォチの指の爪のように、ぱっくりと。
生者と死者とを隔てる境目がなくなり、まっくろい海が生者の領域へと急速に侵犯してくる。
「まいったね」
諦観を滲ませた視線の先には、女の形をした化け物。
堅パンに湧いた虫を見るような目をさらに冷たくしたような視線がデォチを射抜き、荒れ狂った直感がゾクゾクと背骨を駆け巡る。
「次があれば、絶対に近付かないんだがな」
あんたらに次なんてないよ。化け物の海色の瞳は雄弁に語っていた。