無力な姫の戦い方
それほど大きくはない、ササザキ島の港。漕ぎ手が十人を越える規模の船が五つも停泊すれば埋まってしまうほどのその港には、すぐそばに広場がある。
広場の主な用途は港で積み下ろしたばかりの荷を並べる露店商を開くことである。それ以外ではほとんど閑散としているその場所は、いま、重病人などの一部の例外を除き、この島に住まう民のほとんどが集められている。
結婚や葬式などの催事で村中が集まることはあれど、島に四つある漁村の住民が一同に会する機会など滅多にあることではない。村人全体への通達があっても、それぞれの村の村長が島主に呼びつけられるのが常である。
もしかして島主が変わんべか?
いや、誰かが見せしめに処刑されるのかもしれないぞ。
まさかこれ以上税を引き上げるとか言わねぇよな。
ついに戦だか? いつ出発する? わっしは同行したくねぇだなぁ。
村ごと、知り合いごとにゆるい固まりを形成し、総勢三百と余名の民衆が口々に囁き合う。
その内容に明るい展望はほとんどない。長きにわたる困窮によって、吉報という発想がそもそも湧かないのだ。
ある者は、これから何が始まるのかと不安そうに、またある者は猜疑心もあらわに広場の端に新しく設けられた舞台を見上げる。
昨晩までは存在しなかったそれは、白く重厚な石造りで、表面はつるりとした光沢を持っており、どこか神秘的な祭壇を思わせる。
舞台の両端には篝火が焚かれているのだが、これがまた、ただの松明ではあり得ない。ちろちろと燃える焔の色は紫。王家の色彩だ。
「この島にお住まいのみなさま。お集まりいただき、まことに嬉しく思います」
舞台の中央に現れた、ひとりの少女が声を発する。
落ち着き、堂々とした立ち居振る舞いではあるものの、けして大声ではない。優しくたおやかな声でありながら、広場でざわめく全ての人々に余すところなくはっきりと、その声は届けられる。
広場中に声を届けるように予め仕込まれた拡声魔道具の効力だが、そんなことは露知らぬ民衆の注目を引くには十分だ。
少女は、民衆を見渡して全員の視線が自分に集まったことを確認すると、すぅと深く息を吸った。
「わたくしはレピスラシア=エクシト・ナセ・マリス=コルムラード。この国の王に連なる者ですわ」
一瞬、それまでのざわめきがぴたりと止まり、直後、三百余名からなる島民の叫喚の濁流が押し寄せた。
なにせ、彼らにとって王族なんてものは雲の上の、そのまた上の存在だ。それは舞台を取り囲むように警護している白爵家の私兵にしても同じことで、彼らは皆一様に緊張に身を強張らせる。
兵たちは武器の携行を許されているものの、王族が側にいる状態で剥き身の剣を握っているわけにもいかない。民衆が暴動を起こした場合、対応が一手遅れるのはどうしようもない。
そしてひとたび暴動が起こってしまえば数の差はいかんともしがたい。たとえ武器を持っていようとも、三百の暴徒を前にたった十名足らずの警護が抵抗らしい抵抗ができるだろうか。断言してもいい。無理だ。民衆とレピスラシア姫の距離が近すぎる。
暴動どころか投石ひとつが命取りだ。王家の姫の顔に傷でもつけば、自分たちの首が物理的に飛ぶ。
兵たちは白爵から警護を命じられただけであり、レピスラシアが何をしでかそうとしているのかを知らない。
世間知らずのお姫様が余計なことを言ってくれるんじゃないぞ、と兵たちは祈りにも似た心境で厳しい視線を民衆に向け続ける。
兵たちの危機感はけして大袈裟なものではない。
はっきりいって、ゾエ白爵家の財政は破綻している。
主幹産業もなく、現状打開のために打った手は空振りか裏目に出るばかりで、とどめが出兵協力を拒んだことによる王家からの増税である。ただでさえ高かった島民の税率は、今や脅威の7割だ。
税率7割とは、単純に考えて、魚を10匹獲ったら7匹を納める計算だ。
家族を養うのも、船の補修も、冬の備えも、ほつれた服を縫い合わせる布地も、残った3匹の魚をやりくりして賄わねばならない。
そんな状態が長続きするはずもなく、島では飢饉が発生しており、体の弱い者から死んでいくありさまが現状の島の姿である。
民衆の不満はいつ爆発してもおかしくなく、それをどうにか逸らすためにも常日頃から白爵家は不満の矛先を王家に向けるよう誘導しているくらいだ。
そういった振る舞いがまた中央政府から見放される原因にもなっているのだが、島主のゾエ家一族が生き長らえるにはそうする他ないのもまた事実。
つまり、レピスラシアが何を言うまでもなく、ササザキ島の民衆が抱く王家への心象は下がるところまで下がり切っているのだ。あと少しでも刺激があれば破裂するほどに。
いま、まだそうなっていないのはレピスラシアが名乗っただけというのもあるが、浜に突如として出現した肉塊の影響が大きい。
学のある者など島民の中にはほとんどいないが、それでもこのタイミングの一致に何も思わないほど浅慮な者ばかりでもない。
民衆の敵意に満ちた視線を浴び、その意味をしっかりと認識していながら、それでも白い石の舞台の上でレピスラシアはふわりと微笑みを浮かべてみせた。
レピスラシアは、自分が襲われることはないと楽観しているわけではない。もし襲われても大丈夫だと信じているから、平静を保っていられる。彼女は、彼女が慕う者の力を信じている。
どちらかといえば、本物の姫なのかといった疑義の声が上がらなかったことに、レピスラシアは平静の裏で安堵していたくらいだ。
王位継承権こそ返上したものの、もちろん彼女は本物の王族である。しかしその証明をしようと思えば面倒がある。他の王族による横槍が入る前におおかたの行動を終えてしまいたい今は、とくに。
レピスラシアが動かないことで民の声が少しばかりトーンダウンしたところを見計らい、繊細な銀の髪をふわりと揺らして少女は語り始めた。
「今日このときをもって、みなさまの困窮が終わりを迎えることを、わたくし、レピスラシアの名において宣言いたしますわ」
次に民衆に広がったざわめきは、先ほどまでと違って困惑の色が濃い。
当惑しているのは民衆ばかりではない。警護を担当している白爵家の私兵どころか、計画の細部を知らされていないゾエ白爵も内心は疑問符でいっぱいだ。
もっとも、リリィを介して多額の献金を受け取り、しかもそのうちの結構な額をすでに使い込んでしまっている白爵にとって、レピスラシアの言い分に乗らない選択は選べないのだが。
「すでに多くの方が浜をご覧になりましたでしょう。そうです。あの山ほどもある肉の塊。あれこそが、みなさまを苦しめてきた元凶であり、ゾエ白爵家の協力を得てわたくしたちが打ち果たした〝島喰み〟の姿ですの」
拡声魔導具越しに聞こえるレピスラシアの声に、広場中がどよめく。
そこにレピスラシアは畳み掛けるように〝島喰み〟の伝説を語った。その被害の多さ、呑まれた船の無念、滅ぼされた島の悲哀を伝えた。それはもう、情緒たっぷりに。
〝島喰み〟の伝説はエタリウムの民には馴染みの深いものだ。
海が荒れる原因も、船が難破するのも、海の上で迷うのも、大概が〝島喰み〟のせいにされる。そういう伝説の化け物だ。
中にはいくつか事実無根のものも混じっているが、掛け値無しの化け物として知られていることに違いはない。
そして『島民たちを苦しめてきた元凶』や『ゾエ白爵家の協力』なんてのは嘘も嘘、完全な創作だった。
島民の困窮は白爵家の失策によるもので、〝島喰み〟が狩られたのは船に襲い掛かったところをオスカー・シャロン両名に返り討ちにされただけである。ついでに最大限素材を確保するために再生限界まで粘り、さらには回復薬茶までブチ込まれて搾り取られている。
しかし嘘であれなんであれ、扇動に使えるものは使い、きっちりと演じきるのがレピスラシアの使命だ。その口元にはたおやかな笑みが浮かんでいる。
「〝島喰み〟の脅威から民を救いたいと願う白爵の嘆願に、王家は応じませんでした。いえ、一度は応えようとしましたわ。しかし敵はあまりに強大すぎて、艦隊はまるで木の葉のように容易く粉々に。そうして王家は手を引きましたの」
民衆の理解を待ちながら、されど興奮が冷めぬ絶妙なタイミングを見計らいながら、レピスラシアは巧みに思考を誘導していく。
「王家は、国は、民あってのものですわ。わたくしはひとりでも〝島喰み〟討滅を続けるために王位継承権を返上し、国の外へと赴きました。〝島喰み〟を倒せるだけの力を持つ猛者を求めて。その旅を資金面で支えてくださったのがゾエ白爵であり、その領民たるみなさまですわ。みなさまの献身なくしてあの旅を乗り切ることなどできませんでした。つまりは、みなさまの力添えがあったからこそ、あの〝島喰み〟の打倒が叶いましたのよ。今日お集まりいただいたのは、わたくしがみなさまに直接お礼を申し上げたいという想いもありましたの」
嘘の中に微量の真実が混じっているのがタチが悪い。レピスラシアが国外へ赴いたのも、その前に王位継承権を返上したのも、やろうと思えば裏を取れるのだ。
島民たちは自分たちの困窮が大きな意味を持つものだと知り、否応なく高揚した。
なにせ、広場から少し目線を浜にやれば、この上ない物証がそこにはある。討ち滅ぼした〝島喰み〟の威容が、でぇんと鎮座しているのだ。
あれを、あの怪物の討滅に自分たちは協力したのだ。王家の意向に逆らい、王になる権利を捨ててまで自分たちの味方をした姫の助けになったのだ。そう聞かされて、明日も見えない苦しみにただ耐えるしかなかった日々に意味を与えられて、苦労が報われたのだと諭されて高鳴る胸を、誰が否定できようか。
白爵家の私兵たちがゾエ白爵を見る目もどこか畏敬を孕んだものに変わっている。
失策ばかりの駄目島主というそれまでの評価が、偉業を支えた名君へと一変したのだ。事実無根であると知っているはずのゾエ白爵すら胸を張って己の髭を撫でつける始末。
広場はすでに先ほどまでとは違う熱気に満ちている。いけすかない王家の姫への敵愾心など欠片も残っていなかった。
レピスラシアは、ここで駄目押しの演出を入れることにした。
白石の舞台に跪いて指を組み、祈るように天を仰ぎみる姫の姿に、広場に集まった島民の視線も空へと誘導される。その空から。
「ご紹介いたします。どうか歓声をもってお迎えくださいまし。わたくしの、打倒〝島喰み〟を誓った旅の果て。嘆願を聞き届けてくださった二柱の女神様と、大魔術師スカーレット様ですわ!」
舞い降りるは、海のようにきらめき、空のように深い蒼く輝く翼をまとい、この世ならざる美を宿した金の髪の女神がふたり。そして、鮮烈な紫の髪を持つ少女。シャロン、リリィ、スカーレット嬢に扮したオスカーだ。
3人は空で待機していたわけではなく、直前に合図が出されるまでは舞台付近で”結界”を維持したり拡声魔道具の音量を調整したり、思考誘導を効きやすくするために興奮作用のある香を”念動”で流してみたり、さくらとして潜り込ませたレピスラシアの侍女に民衆の心理を誘導するよう指示を出したりと裏方に徹していた。空から舞い降りたのはただの演出である。
広場は大歓声に包まれた。平伏する者、感極まり隣の人と抱き合って泣き出す者。警護の兵たちも跪いている。
「スカーレット様は、かの〝原初の魔女〟の血を引くお方とわたくしは考えておりまして――ってさすがに反響が大きすぎますわね。シャロン義姉妻さま、なにかお話して神性を下げてくださいません?」
「私が喋ると神性が下がる因果関係がわかりません。スカーレットさん、どうしてそこで笑うんですか。ちょっと」
民衆の熱狂が少し落ち着いて、レピスラシアが〝島喰み〟焼肉大会を宣言するまでは、そこから少しばかりの時間を要したのだった。
王位継承権を返上後にレピスが名乗っているコルムラード姓は、母方の家名です。