ゾエ家
エタリウム諸島連合王国は大小様々な複数の島から成る海洋国家だ。
島はそれぞれ古くから豪族が治めており、その中でも特に力を持っていたエタル家とトリウム家が結び付き、エタル = トリウム王国が成立。周辺諸島の豪族を恭順させ、エタリウム諸島連合王国となった経緯がある。
現在はトリウム家が王家として君臨しており、レピスラシアの名乗るコルムラード姓は母方の家名である。
エタリウムは君主としてトリウム家を戴いているが、島々を統治しているのは王家に恭順を示す豪族たちであることに変わりはない。
エタリウムにおける貴族、豪族はその規模や王家への貢献に応じた爵位として色が与えられる。白、黄、青などの与えられた色に応じて『白爵家』などと称するのが習わしだ。
貴石などの装飾物は爵位に対応した色を持つことが暗黙の了解となっており、とくに目上の色を身につけるのは軋轢を生む。その中でも紫は王家にしか許されぬ色であり、これを侵せば斬り捨てられることすらある。
〝紫輪〟のハウレルが疎んじられるのには、こういった文化風土の存在が関係ないとはいえない。
ササザキ島を支配するゾエ白爵の屋敷は、かつて栄華を誇ったゾエ家の威容を示すように、白亜の石材を基調とした荘厳な佇まいをしていた。外観だけでなく内装にまで職人による手の込んだ装飾が施されている。
けれどゾエ家が栄えたのも代をふたつほど遡った時代の話であり、手入れが行き届かずに薄汚れ、埃の溜まった壁龕をみれば、その凋落が否応なく感じられる。
「白爵閣下。レピスラシア殿下がもう間もなく港へ到着いたします」
「儂も同行しよう」
「ありがたく存じます」
心地よく耳朶に染む澄んだ声。極上の絹糸も霞む黄金の輝きを宿す柔らかな髪がさらりと流れる。
品のある奥ゆかしい振る舞いで恭しく一礼したのは白爵の家臣の者ではない。
屋敷に数日逗留している異人の女性は名をリリィといい、白爵家の恩人である。
ササザキ島はエタリウムの中では面積こそ狭くはない島だが、そのほとんどが火吹き山から流れ出た溶岩が固まってできた土地だ。農耕に適した土地はないに等しく、食糧や産業はもっぱら海産資源頼りとなる。
しかしこのところ相次いだ海賊による略奪や、領土拡張戦争への派兵を拒んだことを口実に引き上げられた税、行方知れずになる交易船が頻発したために伝説の怪物〝島喰み〟が蘇ったとも囁かれており、怯えた領民は海へ出るのを拒んだ。
島外から買い付けようにも金はなく、借金で賄おうにもすでに白爵家は借金まみれだ。これ以上貸してくれるアテもない。
島では飢饉が発生し、領民の暴動に怯える日々を過ごす中、多額の持参金とともにフラりと現れ、そればかりか鮮やかな先読みと手腕によって出没していた海賊をことごとく殲滅してのけたリリィは、その外見的美しさも手伝ってゾエ白爵にとっては女神にみえた。年頃の、浮世離れした美しい娘が護衛も連れずに単身で海を越えてきたというのだから、女神であったほうが只人であると言われるよりもむしろ納得感がある。表情に乏しいところさえ神性の一端に思えるほどだ。
リリィはレピスラシア殿下への協力を取り付けるために訪れた先触れだといい、ことが終わればこの島を去る。なんとも惜しい。
「のう、リリィや。儂の孫を貰うてはくれんか」
「ご厚意に感謝いたします。ですが、そのお話はすでにお断り申し上げたはずです」
「後生である。儂はもう永くない。そなたにゾエ家を託せれば憂いなくこの世を去れるというもの」
長患いによって痩せこけ、もはや死を待つばかりと考える白爵にとって、美貌も器量も教養も備えた女神を逃すのはあまりに惜しい。
「心に決めた殿方がおりますので」
頷いてくれさえすればすぐにでも家督を譲り渡す覚悟で誘いをかけた白爵は、光の加減か、無表情をわずかにほころばせたかにみえるかんばせに敗北を悟る。
「そなたにそうまで言わしめる傑物であるか」
「わたしが今こうして在るのもあの方のおかげですから。私などほとんど眼中にないのも理解しておりますが」
それならば、と食い下がっても無駄なことは『あの方』について語るリリィを見れば明らかだった。
「それでも、わたしは彼を支えたいのです」
「実に。実に、惜しいな。気が変わったらいつでも言っておくれ」
「ご厚意、ありがたく。それと白爵閣下におかれましては一点訂正がございます。白爵閣下はあと16年はご存命でしょう」
「年数がいやに具体的だが、はは。そなたも気休めを言うのであるな」
「気休めではございません。レピスラシア殿下とともにおいでになるのは、わたしの妹と、あの方の師匠。スカーレット様でございますから」
馬車を走らせ茜色に染まる港に到着すると、なにやら領民がざわついている。
貴人が訪れたことによる混乱かと思えば、どうも違うようだ。
「なんだこの騒ぎは?」
「わかりません。民衆は怪物がどうのと要領を得ず……」
歯切れの悪い御者の返事に、白爵は眉を顰める。
リリィはそんなことはお構いなしに馬車から降りると、到着したばかりとおぼしき船の側へとまっすぐ歩み寄っていく。護衛の騎士の先導に従い、白爵もそのあとをついて歩いた。
やがて、リリィはひとりの少女の前で足を止めた。
「おひさしぶりでございます、スカーレット様。御加減はいかがですか」
「んぁー……リリィか、おひさ。めっっっっっちゃくちゃだるい」
積み荷であろう木箱を即席の椅子にして、浜に打ち上げられて干からびる寸前の小魚のようにぐでぇっとダレる尊大な少女の態度に、白爵は鼻白む。
海洋国家たるエタリウムにおいて、船酔いするのは軟弱者と相場が決まっているのだ。少女の髪色が目の覚めるような王家の色彩であることも、高貴さと無縁なその態度から印象が悪い。
とはいえ、態度には出さない。いついかなる時でも平静を保つのが、紳士の嗜みである。
「レピスラシア殿下もご機嫌麗しく」
「あ、リリィ義姉妻さま。ご機嫌よう」
「レ、レピスラシア殿下ですと!? こちらが!?」
「ゾエ白爵ですね。此度は世話になります」
スカーレットと呼ばれた少女の側でぱたぱたと布を扇いでいたのは下女ではなく、なんとレピスラシア殿下その人であった。あまりのことにギョッと目を剥いた白爵の気を知らず、レピスラシアは扇ぐ手を止めようとしない。
となると、スカーレットを扇いでいるもうひとりの少女がリリィの妹君だろう。白爵のことをまるで気にする素振りを見せないが、リリィと同じきめ細やかな髪が夕日に染まって黄金の輝きを放っている。
「随分お早いお着きでしたな。船出は2日前だったのでは?」
リリィはレピスラシア殿下御一行と連絡をとる手段を持っているらしく、ある程度の旅程は白爵にも知らされていた。それによるとゼイルメリアの港を出たのが2日前のこと。エタリウムのいくつかの島々を経由し、ササザキ島に船が到着するまでにはあと10日は掛かるはずであった。
2日前に船出したなど出まかせで、すでに近くにまで来ていたのだろうから人が悪い。
殿下を迎える準備にも手間が掛かるんだぞ、と白爵は言外に嫌味を滲ませる。
「それについてはスカーレット様が引っ張ってくださったのですわ。船員たちも限界でしたし」
「ぁ”ー……。あんなデカいの括り付けて普通に運べるわけないからな。運ぶどころか船が沈むわ」
王族の前にあるまじき尊大な態度を改めもせず――というかそれ以前に王族に下女のように煽がせている段階で言語道断なのだが――実に気怠げに少女が言う。
ふわふわした幼げな容姿でありながら声音は凛と一本の筋が通ったようで、言葉遣いは妙齢の子女としてはいささか粗暴。どこかちぐはぐさを感じさせる少女である。
リリィの佇まいは淑女として完璧なので、他国の文化がこういうものというわけでもあるまい。
そこへ、周囲を遠巻きにとりまく民衆の間を抜けてひとりの女性が姿をみせ、ぐでる少女に恭しく一礼した。
「スカーレットお嬢様。場所の確保ができましてございます」
「ミーシャ = ラウルズ!?」
「ええ、そうです。御機嫌よう、白爵閣下」
「あ、ああ。御機嫌よう」
その人物は王家のお歴々の教育係を勤め上げるなど数々の功績を残し、陛下も無碍にはできぬとまことしやかに噂される女性だ。代々の家格ではなく個人で青を赦されており、一部界隈では女傑と渾名されている。
白爵よりも年配であるはずなのに、まるで老いを感じさせぬ、背筋を伸ばしてきびきびとした立ち居振る舞いに、自然と身が引き締められる。
必要とあらば王族を相手に退かずに諫言し、腐敗に靡かぬ真摯な姿勢から、彼女を慕う者も畏れる者も数多い。
そんな人物がスカーレットなる少女に礼を尽くしているという事実。白爵は思わず目眩を覚えた。
しかしその直後に思い知る。この程度の目眩など、かわいらしいものであったのだと。
「そんじゃまあ……最後にもうひと踏ん張りするかぁ」
少女がつぶやくと同時。これまでの生涯で感じたことのない怖気が全身を貫いた。
ぶわり。全身から嫌な汗が吹き出し、体温が一気に下がる。
それだけではない。船のすぐ側から天を貫かんばかりの巨大な水柱が噴き上がったではないか!
「なっ……あ、ぁ……!?!?」
それは、ところどころに鱗の張り付いた肉塊であった。
誇張抜きで山ほどもある巨体が宙に浮き、剥がれ落ちた鱗が砂浜にどすりと突き刺さる。白爵の目が確かならば、剥がれ落ちた鱗の大きさは、4歳になったばかりの彼の孫より確実に大きい。
そこかしこで阿鼻叫喚の悲鳴があがり、海へ落ちる者まで出る始末だが、その間も肉塊はゆっくりと宙を滑るように移動し、やがて砂浜から近い開けた場所に砂やら何やらを盛大に巻き上げながら地響きとともに着地。動かなくなった。
「ゔぁー。つっかれたぁ……ふぅ」
いつのまにか腰を抜かし、へたり込んでしまっていた白爵は、自身が失禁していることについぞ気づかず、気怠げに首をコキコキ鳴らしながらぼやく少女の姿をしたなにかを見つめ続けた。いついかなる時でも平静を保つのが紳士だというのならば、いくらでも返上しよう。
この少女を装ったなにかがあの肉塊を動かしていた。疑う余地もない。魔術の素養がない白爵にさえ感じ取れるほどの、濃密な力の波動。
「スカーレット様はあれごと船を引っ張って来られたので疲れておいでですわ。急ぎ、宿の手配をお願いできるかしら」
見誤っていた。このような光景を前に、普通に喋ってのけるレピスラシア殿下の評価を、ゾエ白爵はうまく回らない頭で引き上げた。
ちなみにレピスは把握していないが、オスカー疲弊の原因は船と肉塊の運搬と並行して、脚、爪、牙、毛などの剥ぎ取った各種素材を痛まないように加工したり、肉の中に無数に潜んでいた大型犬くらいのサイズの寄生虫を剥がして海に捨てたりといったことを、〝島喰み〟との半日にも及ぶ戦闘の後、夜通しぶっ続けで行っていたせいでもある。
「あ、あれ、は……あの肉塊は、いったい、なんであるか……」
目線はスカーレットから逸らせぬままに、うわごとのように白爵が尋ねる。
「そのまま食うと魔力中毒になりかねないから、魔力抜きするまではやめといたほうがいいぞ」
スカーレットが何か言っているが、聞いていない。そんなことは、聞いてない。
レピスラシア殿下が補足する。
「船員たちは〝島喰み〟と呼んでおりましたわ」
「ま、まさか。〝島喰み〟ですと? あの、伝説の怪物……!?」
そんな馬鹿なと一笑に付すことを許さぬだけの、確かな物証が浜から先を埋めるようにでぇんと鎮座している様は、いっそ悪夢的である。
「スカーレット様とシャロン様がやっつけてくれたのですわ。もう、ほんとに大変だったんですからね」
『大変』のひとことで片付けていい話ではない。断じて。
「は、はは、はははは」
理解を拒否した頭が意識を手放す寸前、白爵は新たな知見を得た。
人間とは、どうしようもなくなると、笑いが勝手に口をついて出るのだと。