捕食者
仄暗い海の底にわだかまる闇が、身動ぎする。
そこらの魔物とは一線を画す圧倒的な巨体。発する重圧は周囲に生命の存在を赦さない。
エタリウム諸島王国連合からほど近い海溝を寝ぐらにしているそれは、〝島喰み〟と呼ばれ、畏れられる伝説の怪物である。
しんと静まり返った深海で、〝島喰み〟は無数の脚を蠢かせる。堅牢な外殻に覆われた闇色に揺らめくそれらが掠めるたび、硬い岩盤が、まるで降り積もったばかりの雪をひと掬いしたかのように削り取られていく。
千年以上を生きる〝島喰み〟は空腹によって目覚めると、食欲の赴くまま手当たり次第に生きとし生けるものを食べて、食べて、食べ尽くす。魚、獣、鳥、船、湾岸の村落。選り好みせず、目についたものを片っ端から飲み込み、飲み干し、満足したら数十年の眠りにつく。
しかし、此度の目覚めは少しばかり違っていた。
世界に縫い止められる形で封ぜられていた、強大な存在――〝世界の災厄〟が解き放たれ、漏れ出た力の波動によって叩き起こされたのだ。常人に例えるなら、気持ちよく眠っていたところにいきなり怒鳴り声を叩きつけられ、ビクッとなって飛び起きた、に近いか。
気持ちの良い目覚めではないが、数百年前にもあったことなので〝島喰み〟としては『ああ、またか』と多少イラッとした程度の感慨を抱いたに留まる。ほどなくして〝災厄〟の存在が感じられなくなったのも数百年前と同じだ。
ただ、今回に関しては〝島喰み〟にとって困ったことに、この星の表面に蔓延っていた〝災厄〟の魔力が根こそぎ星の外へと放逐されてしまった。
〝島喰み〟がここまでの怪物に育った要因は〝災厄〟の魔力にある。〝災厄〟の魔力を吸収・蓄積し、また同様に蓄積した者を喰らうことで、〝島喰み〟は大きく、強くなった。
その供給が断たれることは、慣れ親しんだ好物を取り上げられるに等しい。これ以上の成長も難しくなるだろう。何者かは知らぬが、余計なことをしてくれたものだ。
寝直すには若干小腹がすいていたこともあり、〝島喰み〟は周辺海域の魚や船など、知覚内の目についたものをとりあえず摘んでまわった。命乞いをするものも、取引を申し出るものも、分け隔てなく丸呑みにした。
『大激震』以後のエタリウム諸島王国連合の経済や食料事情が大きく傾いたのは、実のところ、この〝島喰み〟のつまみ食いが原因の多くを占める。
その結果、領土拡張の急先鋒たる過激派の勢力伸張を招き、まわりまわって〝島喰み〟はそれとの邂逅を果たすこととなる。
その存在を察知したとき、〝島喰み〟は歓喜した。
食らい甲斐のある餌がやってきた。それも、〝災厄〟の気配を濃厚に漂わせた、極上の。
全身を覆う金属質の鱗を軋らせ、海溝より急速浮上する。餌は船と呼ばれる木の皿の上にいるらしい。〝島喰み〟にとってはあってもなくても同じような、薄い板きれだ。いつも通りに丸呑みにしようとして、
ガギンッ!
硬質な音が響き渡り、〝島喰み〟の食事が邪魔された。
いかな〝島喰み〟とて、口の中に目があるわけではない。食事を邪魔したモノを顎の力でばりぼりごきんと砕き、吐き捨てる。白っぽい岩だった。そこらにある岩よりも多少歯応えがあったが、それだけだ。〝島喰み〟にとっては大した障害にはなり得ない。
〝島喰み〟は理解する。船上の〝災厄〟の気配が膨れ上がっている。捕食に気付き、いかなる術理によってか迎撃してきたのが今の白岩であろう。
〝島喰み〟の急迫によって起こった大波でも船は転覆せず、不自然な姿勢で停止している。なんらかの力が働いているのは明白だ。
(面白い)
〝島喰み〟の食事は一方的なものだ。獲物と定めたものに抵抗されたことも、今と比べてまだ小さく弱かった頃に何度かある程度。久しく忘れていた狩りの楽しみが呼び覚まされる。
〝島喰み〟は獲物を丸呑みにする前に、その姿を見ておこう、くらいの軽い気持ちで海面に姿を表した。
グゥルルルルルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ――――――――!!!
凄まじい咆哮が空気を引き裂く。あまりの轟音に耐えかねた海面が大きくうねり、衝撃が甲板を叩きつける。
船員たちがばたりばたりと倒れていくなか、平然と〝島喰み〟を見返してくる存在が、ふたつ。
ヒトの女の形をした金色のなにかと、ヒトの女の形をした紫色のなにかが、とくに身構えるでもなく、さりとて萎縮し震えて縮こまるでもない。
〝島喰み〟は内心で不快感を覚えていた。矮小なる存在が生意気な態度を、と。
グルルァァアアアアアアアアアアアアッ!!
怒りに任せた咆哮をあげ、〝島喰み〟は数本の脚を振り上げた。
〝島喰み〟の脚表面の甲殻は先ほど噛み砕いた白岩の硬度を上回る。脚自体の大きさも1本が船を半ばまで引き裂いて余りある。金属質の硬さと鋭さを兼ね備えたそれは見た目通りの重量を誇る。
紫の女のほうが、わずかに顔を顰める。しかしそれも〝島喰み〟を脅威に感じてというよりは『うるせぇ』とでも言わんばかりの表情で、実際に思っていることもその通りなのだが、そんな態度がまた〝島喰み〟を苛立たせる。
「外骨格は金属質ですが、内側は普通の肉のようです。尿素成分が多めなので、手早く捌かないと食用には向かないでしょう」
「じゃあ肉はいいや。表面はなるべく傷つけないように採取しよう」
「はい。切り離しと回収はお任せください」
女たちの緊張を感じさせないやりとりに、苛立ちが最高潮に達した〝島喰み〟は三度咆哮と重圧を放ち、船に乗しかかるようにして脚を振り下ろした。
「うるっさいなぁもう! ちょっと黙ってろ!」
紫女の金の腕輪が光り輝き、咆哮をあげるために開いていた〝島喰み〟の大口に、〝念動〟術式で制御された砂がざらざらっと送り込まれる。砂は喉を滑り落ちる間に棘だらけの岩に〝創岩〟され、体内から発した未知の痛みに〝島喰み〟は一瞬怯んだ。
動きの止まった脚、その付け根目掛けて今度は〝剥離〟が炸裂。いかに得意技の〝剥離〟とはいえ、強大な抗魔力を発揮する〝島喰み〟相手に大きなダメージは与えられない。
しかし援護するのは魔導機兵。シャロンにとっては小さな隙さえあればそれで事足りる。
外殻のわずかに剥がれた隙間に、シャロンの纏う蒼き閃光が矢継ぎ早に突き刺さる。
全距離対応兵装・〝蒼月の翼〟
シャロンの演算能力で統制された〝蒼月の翼〟は細かな操作もお手のもの。目標まで飛来後、炸裂を保留されていた純ヒュエルによる破壊を周囲に撒き散らす。
〝剥離〟によってわずかに浮いた隙間から侵入した〝蒼月の翼〟は、〝島喰み〟の脚を内側から蹂躙。ほどなく、肉を断ち切られた脚がぼとりと落ちる。落下地点にも分割した〝蒼月の翼〟が先回りしており、海に沈めることなく素材収集も完璧だ。
「ないすー」
「良妻ですからね」
傷を与えられた動揺と怒りから立ち直るより前に、立て続けに数本の脚を持っていかれ、〝島喰み〟は瞠目するも、その驚きによる空白が逆に平静を取り戻す助けとなった。
認めよう。相手はただ狩られるのを待つばかりの哀れな獲物ではない。怒りに染まっていたずらに単調な攻撃を繰り返していては、相手の思う壺である。
〝島喰み〟は女のかたちをした何か変なふたり組を睨みつけたまま、己の内部に意識を集中した。すると、ぬらぬらと染み出してきた闇色の粘液が体表を這うように蠢き、切り取られた脚の傷口を覆い尽くす。蠢く粘液の下からは新たな脚がずるりと生え、与えられたダメージなど最初からなかったかのように修復を終えてしまった。
外から窺い知ることはできないが、飲まされた棘岩による喉部や臓器への損傷も同様に修復している。その証拠に、
グルルル、ルルォオオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――!!!!
何度目かになる咆哮を浴びせ掛ける。
貴様ら矮小なる存在がどれほど足掻こうとも、これですべて元通りだ、と。力を誇示し、獲物の心を折りにかかる。
肉体の修復にかかった魔力は、本来使うはずではなかったものだ。その分の苛立ちをぶつけ、相手の絶望する様を味わい少しでも溜飲を下げようとした。
しかし、女どもの心は折れた様子がない――というか、なんだろう、向けられてる視線が先刻よりもギラついているような。それは、強大な敵を前にした覚悟だとか、敵意だとかじゃない。まるでいい獲物を見つけたかのような――
異質な視線に晒され、生涯はじめて気圧された〝島喰み〟がビクりと震える。
もしかして、とんでもない相手を食らおうとしてしまったのではないか。今からでも全力で逃げ去るべきではないか。
しかし。この海域の支配者として長きに渡り圧倒的強者として君臨してきた〝島喰み〟の矜持が、生存本能に待ったをかけて、逃走という選択を躊躇する。
「再生込みで、何本いけるかな」
「魔力減衰から鑑みて、再生は20回以上30回未満でしょう。それと脚は水面下にもまだあと210本ほどあるみたいです」
「修復範囲が広ければその分魔力を消耗するだろうし、ほしい部分だけ切り取らないとな。あ、じゃあ脚だけじゃなく背中の鱗もほしいな。いやぁ、ははは、遠くまで来た甲斐があったなぁ!」
言葉とともに紫女の口許が、にんまりと。笑みの形に、裂けた。
圧倒的強者が向けられるはずのない視線を浴び、〝島喰み〟の巨躯を悪寒が駆け巡る。
あまりに傲慢。あまりに厚顔。あまりに異質。
気圧された己に気づかぬフリをし、それすら苛立ちへと転嫁して。
〝島喰み〟はこれまで一度もとったことのない行動に出た。
『女、貴様ハ、何ダ?』
対話。弱い餌どもに何度望まれても応えなかった〝島喰み〟が、はじめて意思疎通を図ろうとした。
無論、〝島喰み〟の発声器官はヒトのそれとは大きく異なるため、とっている手段は魔力を介した原始的な意志伝達だ。
最終的にはすべて喰らうにしても、不理解を不理解のままに終えたくなかったのだ。それほどまでに、これらの存在は異質だった。
「? 素材が喋ってる。まあいいや、〝剥離〟」
しかし。対話は相手も望まない限りは成り立たない。これまで幾度も〝島喰み〟がとってきた対応である。
矜持をいたく傷つけられた〝島喰み〟は最後の逃走機会を逸したことに、その長大な命が果てる瞬間になって、ようやく思い至った。
半日後。
剥げる限りの素材を剥ぎとり、削げる限りの標本を得たオスカーはほくほく顔で、〝島喰み〟襲来によって気を失っていたレピスは目覚めてすぐ、ぷかぁ……と力なく浮かんで曳航(※紐をくくりつけて船で引っ張ること)される巨大な肉片を目にして大泣きし、そのまま疲れ果てて再び寝た。