姫君の憂鬱 そのさん
町は活気に満ちていた。大幅な減税の効果で俄に商業が活発化した影響だ。
町には商人が増え、商人が運んできた多種多様な商品が並び、商人や護衛が泊まる宿屋、馬車を停める厩舎、彼らの利用する飯屋や娼館が儲かり、洗濯婦や炭焼き、肉、薪を調達する冒険者の仕事も増える。
仕事が増えれば金が回る。手元に金が回ってくれば、新しい服を用立てたり、少し良い武器を買ってみたり、帰り道の屋台で串焼きを頬張ってみたり、広場の芸人や酒場の吟遊詩人におひねりを投げ込む余裕もできる。
こうして町全体が明るく、活気づいていた。
もしレピスたちが南門から入って町の中を突っ切ろうとしていたら、ごった返す人混みに巻き込まれて相当に時間を浪費することとなっただろう。
レピスの故郷であるエタリウム諸島王国連合の王都エスケでは、年明けを祝う祭りのあいだが一番賑わう。
社に詣る人々で活気づくさまは毎年恒例の風物詩だ。
今のガムレルの賑わいは、それに勝るとも劣らない。祭りがあるわけでもないにもかかわらずだ。
レピスの故郷では島同士の移動にも船を必要とするので、一箇所に集まるのが困難という理由もあるけれど、それを差っ引いてもえらい賑わいようだった。
それに。
(民の表情が軒並み明るいですわね)
希望や楽しみに溢れた、日々の生活に充実した顔だ。
国を出るときにレピスが目にした祖国の民との差は歴然だった。
新しい領土を獲得しないことには、今以上の生活は見込めない。
しかし領土獲得のために若者が兵役で取り上げられると、働き手が減って生活が苦しい。
税は重く、貯蓄と呼べるものもほとんどない。どれだけ身を粉にして働こうとも生活が上向く気配すら見えず、病にでも罹ろうものならギリギリで保たれているバランスが崩れ、一気に生活が瓦解する。
そんな不安と不満の中では、充実した日々なんて夢のまた夢だ。
(わたくしにはなんの力もないから、仕方のないことですけれど――)
自国の民にこんな表情をさせてあげられない己が身の無力が、レピスにはひどく恨めしく感じられた。
町並みを見ながらしばらくのんびりと進むと、馬車はやがて領主の屋敷に辿り着いた。
この町では一番大きなお屋敷だが、豪邸と呼ぶにはやや小ぢんまりとしたものだ。
屋敷の壁の一部にはつい最近補修された跡があり、屋根は黒く輝く珍しい色彩を放っている。
北門からここまで先導してきた憲兵が屋敷の門番とやりとりを交わし、門が開けられた。
馬に乗ったままの騎士が前後を固め、馬車は庭園をゆっくりと進む。
どういった経緯か、彼もここに逗留しているという。
なんとなく気になって、レピスはそわそわ身嗜みを整える。
今日はあいにく忙しいらしいが、彼がお屋敷の中にいないとも限らないし、もしばったり出会ったときに不格好なところを見せたくはない。ただでさえ昨日は酔っ払って醜態を晒しているのだから。
「どう? どこか変なところはないかしら?」
「もう何度も何度も確認したではありませんか。変なところと言ったらレピスラシア様の挙動が一番変ですよ」
「うぐっ……」
「浮ついては軽んじられます。どっしりと構えてくださいませ」
まさに正論であったが、正論はときに人を傷つける。
レピスは侍女の正論から逃れるために視線を窓の外に転じる。すると庭でお茶をしていた令嬢と目があった。
ぱっと見た感じではレピスと同年代くらいだろうか。風に揺れる明るい山吹色の髪は色艶がよく、隅々まで手入れが行き届いているように見受けられる。
令嬢は、レピスと目があったことに気付くとたおやかに微笑んだ。
のんびりしているようでいて、どこか気品が感じられる振る舞いはまるでどこぞのお姫様のようだ。
(どこぞのお姫様、なんて。わたくしがまさか本物の『お姫様』だと知ったら驚かせてしまうかしら)
領主の娘だろう、と判断して目で挨拶を返しながら、相手がまさか異国の――シンドリヒト王国の姫だとは露とも思わないレピスは口許に小さく笑みを浮かべた。
ちなみにレピスら使節団一行が通過後、故シンドリヒト王国の生き残りのセルシラーナ姫は、従者リジットに『お姫様みたいな子がいたのです。わたくしが本物の姫と知ったら、きっとびっくりするのです』と語っており、ふたりはいわゆる似た者同士だったりする。
――
領主との面会はとくに紛糾することも険悪な雰囲気に陥ることもなく、粛々と進んだ。
ダルシエル卿が実権を握ったままの状態では、とてもこうはいかなかっただろう。
村を襲撃した部隊および派閥の国内での立ち位置と、騒動の顛末。
ならびに『紫輪のハウレル』に嫁入りしたいレピスラシアの事情と、毒殺未遂について。
明かせる範囲で情報を開示し、襲撃の詫びとして国許より持参した真珠を寄贈。
ハウレル家との仲を取り持つ協力要請はすげなく断られたが、詫びをいれたとはいえ、一方的に襲撃をかけられ敵対した相手が、今度は町の有力者に取り入ろうというのだ。排除に動かないだけで十分な温情だとレピスは認識している。
さらには。
「――――――〜〜〜はぁ〜〜〜っ……! 生き返りますわねぇ〜〜〜……」
たっぷりのお湯の張られた浴槽に肩まで浸かり、レピスは感嘆とも放心ともとれぬ吐息を漏らす。
温情ついでに、風呂まで提供されてしまったのだ。
昨日の毒殺未遂事件以降、レピスは何も飲み食いできていない。食べようとしても手が震え、喉の奥から嘔吐感が迫り上がってくる。もう吐くものすら残っていないであろう、空っぽの腑だというのに。
領主との面会時に振る舞われた茶や菓子にも手をつけられなかったレピスは、よっぽど酷い顔をしていたのだろう。領主リーズナル卿の取り計らいで、屋敷の大浴場を利用する許可が出されたのだった。
食事、睡眠と同様に風呂はかなり無防備になる瞬間でもある。
暗殺の恐れがある現状、抵抗感がないではなかったものの、厚意を断るのも信用していないと表明するようで悪手であるし、なにより久しぶりに風呂に浸かりたい欲求が勝った。
これだけのお湯を即座に用意できる財を示す牽制の意味もあろうが、ありがたいことに違いはない。
実際のところは、魔道具で引き上げた地下水を、これまた魔道具で集めた太陽の光を熱に変換し湯に変えているので、メイドたちが浴槽を掃除する労力くらいしか掛かっていないのだが、そんなことはレピスには知る由もなかった。
なんにせよ、ひさしぶりの風呂だった。
この町までの旅路では潮風や砂埃を存分に浴びてきたし、姫であろうとなんであろうとヒトの身である限り汗はかく。
道中は水やお湯で身体を拭いたり、香を焚いたりして凌いできたものの、やはり万全には至らない。というかそんな状態でわたくしはあの人のお傍に座りあまつさえ腕をとって腹筋を撫でたり頬擦りしたりああああああああああああ
「ぶくぶくぶく」
「レピスラシア様!?」
「……あのひとはわたくしのこと臭いと思ったかしら」
「あの方は、臭いと思ったらすぐそう言う方ですよ。人に気を遣ったりできなさそうですし」
「……あのひとのことわるく言わないで」
レピスの隣で同じく肩まで湯に浸かりながら、侍女は『うわぁ面倒くさい』という顔をする。
普通、主人と侍女が風呂を共にすることはないが、長旅を耐えてきたのは侍女も同じだし、風呂に入っている間の世話をするメイドも領主から貸し与えられている。
もし仮に領主のメイドが刺客であった場合、侍女には傍で守ってもらいたい。
そしてもし――侍女が刺客であった場合。裸体では暗器を忍ばせるにも限界がある。メイドたちが見張っている場では行動を起こしにくいだろう。
騎士たちは男性なので、さすがに外で見張りをしてもらっているが、あきらかに帯剣している彼らが邸内で警戒されずに放置されることはない。
もし、侍女もメイドも騎士も領主もみんなみんながグルでレピスの死を願っているなら――そのときはもう完全にお手上げだ。結局、風呂に入る入らないはさしたる問題ではない。
守ってもらうことを考えながらも相手を刺客かもしれないと疑うなんて、ひどい裏切り行為だとレピス自身思うが、命の危機を発端に一度芽生えた不安はじくじくと心を蝕み、痛む一方だ。
この怖さも胸の痛みも、全部全部湯に溶け出して消えてしまえばいいのに。
レピスのその切実な願いは残念ながら誰にも聞き届けられることはなかったが、かわりにレピスの耳が、壁際でこしょこしょと会話するメイドたちの声を拾う。
「ね、さっきの、もしかして殿方の話かしら! ルゥお姉さんは殿方の話だと思います」
「やめなさいルゥナー、お客さまに失礼よ」
「だって! 恋バナよ、新鮮な恋バナの気配よ! このへんにるぅるぅ来るじゃない!」
「るぅるぅ来るってなんなのよ!?」
「このへんにるぅるぅパワーが溜まってきたでしょう?」
「よくわかんないものを溜めないで!」
レピスの風呂の世話に、と領主が手配したふたりのメイドだ。
そのうち片方は、魔術とは異なる体系の癒しの権能を持つ、恋バナ大好きメイドさんことルゥナーである。
レピスがもし怪我でもしようものなら即座に大事に繋がりかねない。念のためにと癒しの力を期待されての配置であったのだが――どうも、レピスと侍女の会話から恋バナの気配を察知したらしい。
「ルゥお姉さんはすべての恋する女の子の味方だから!」
「じゃあ、もし恋する女の子がひとりの男を取り合ってたらどっちの味方するのよ」
「るぅー。ハウレルさまみたいにいっぱいお嫁さんをもらえばいいんじゃないかなと思います!」
「……あれはだいぶ特殊な例だから参考にしてはいけないと思うわ」
メイドたちには、レピスのことは『遠方から来たお嬢さん』という以上の説明はされていない。
ちなみにセルシラーナも似たようなもので、本当の身分を知っているのはリーズナル卿やメイド長ヒルデガルトなどのごく一部に限られる。知りすぎて余計なことに巻き込まれるのも御免なので、家臣たちも弁えたものだ。
湯浴みの世話を任された相手がまさか他国の姫だとは思っていないルゥナーは、遠路遥々婚約者のもとを訪れたご令嬢と解釈していた。たまたまだが、大枠はあながち間違ってもいない。
『ハウレル』の名に反応してレピスが思わずメイドたちの方を振り向くと、彼女らは『あっ、やべっ』という顔をして黙り込んでしまった。
よくよく考えずとも、彼がこの屋敷に逗留している以上、彼女らメイドたちとの関わりが多少なりとも存在するはずだ。もしかしたら彼の趣味嗜好についての情報を握っているかもしれない。レピスが持っている彼の嗜好は『甘えさせてくれる女性が好き』という一点のみだ。ただでさえ、美しさでは女神のような奥方に、女性の色香ではあの踊り子のような獣人の子に惨敗しているのだ。彼についての情報は些細なことでもなるべく仕入れておきたい。
それに、よくよく見てみればこのメイドたちも相応に見た目のレベルが高い。
とくに髪や肌艶の滑らかさやハリには目を見張るものがある。庭で出会った令嬢もそうだった、とレピスは思い出す。
王族の責務として幼少の頃から叩き込まれた審美眼が、レピスに『なにかある』と告げている。
メイドの給金でも手が届く程度の価格で、格別の品質の化粧品が存在するとしたら――その情報はなんとしても手に入れなければならない!
彼のために、という意味がないではないけれど、それだけではない。自分が美しいという状態はそれだけで気分がアガり、充実した日々に繋がるものだ。
「ねえあなたたち、少し教えていただきたいことがあるのだけれど」
権謀術数渦巻く貴族や派閥の軋轢の中で揉まれ、曲がりなりにもこれまで生き残ってきたレピスの手練手管に抗う術は、いち男爵領のお屋敷勤めのメイドが備えているものではない。
あれよあれよという間にノせられ、煽てられ、話を引き出され――そのままの流れでレピスが『人を駄目にするベッド』の次なる犠牲者となるのは、ある意味当然の帰結であった。
忙しい人のための今日のレピスラシア姫
→ 町の偉いさんにお土産を渡してお風呂に入りスライムベッドでスヤァ…( ˘ω˘ )
タコサシ……タコサシが遠い……