姫君の憂鬱 そのいち
異国の地でサシミと遭遇してはしゃぐレピスはやたらと楽しげだが、普段の彼女は基本的には冷静で物静かな人物である。
このはしゃぎようも一日塞ぎ込んでいた反動のようなものなのだが、彼女の人となりを掴みきれていないオスカーにとって、レピスは『わりといつでもテンションの高いやつ』という認識で固まりつつある。不幸な行き違いだった。
――たとえばこの日の朝にまで時間を戻してみると、レピスにとって今日という日は苦悩と後悔、そして不安から始まった。
「……ぐすっ」
昼に近づき、活気を帯びるガムレルの町が望める場所に位置する天幕のひとつで、寝具に突っ伏したまま、レピスラシアは鼻をすすり、か細い呻き声をあげた。
失態は色々あった。むしろ失態しかなかった。
ケチのつきはじめは、ダルシエル卿――オスカー曰く『小太り卿』――が愛国心の発露と言う名の独断により、彼の来訪を隠してレピスと接触させまいとしたことだろう。
その後の聴取により、細部は不明瞭ながらダルシエル卿の企みの大枠は判明している。
どうも、なし崩し的に彼との決闘に持ち込み、殺してしまえばあとはどうとでもなると考えた模様であった。
ダルシエル卿自身の発案か、はたまた第三者に入れ知恵をされたのか……いずれにしても、ダルシエル家が代々継承してきた全身甲冑『魔術師殺し』があれば可能だと判断を下したのだろう。
オスカーを排除したあとは、その功でもってレピスを娶るところまでダルシエル卿は想像力の翼をはためかせていたようであり、そのことがまたレピスの気持ちを陰鬱なものにしていた。
レピスは立場上、政略結婚することが幼い頃から決まっているし、その必要性を納得もしている。
恋愛を諦めているのともまた違う。レピスは最初からそういうものとして生きてきたので、いまさらそこに何の感慨もありはしない。
舞台や詩人の唄う恋愛譚なんてものは物語の中の存在であり、仄かな憧れを抱いてみたところで、恋愛はレピスにとって架空の物語以上の意味を持たないのだ。
とはいえ。とはいえ、だ。
レピスとて王族という名の国家の装置である前に、ひとりの人間であり、まだ年若い少女である。
必然、個人の好き嫌いはあるし、その尺度で言えばダルシエル卿に娶られるのはかなり嫌だった。
(娶られるどころか実際には毒を盛られたのですけれど)
ダルシエル卿はかかった嫌疑を否認しており、レピスの実兄であるユーズウェル殿下の関与を仄めかしていた。遠く離れた異国の地において、その真偽のほどは一年後の空模様のように定かでない。
真偽は現状なんとも言えないが、レピスを毒殺することで最大の効果が見込めると判断したならば、兄上ならやりかねない……とも思う。そのような冷静な思考をする反面で、動揺もまた大きかった。特別仲が良かったわけでもないが、さして不仲というわけでもなかったからだ。
レピスの持つ――否。持っていた王位継承権第11位という序列は、継承権3位のユーズウェルにとってみれば争う必要の生じないものであるし、その低い継承権でさえレピスは出国の折に返上している。
もし仮にレピスが再び祖国の大地に足を下ろすことになったとて、返上した権利が返ってくることはない。王位継承権とはアクセサリーのように簡単に付け外しが効くものではないのだ。とくにこれといって政治的野心を持つわけでもないレピスにとって、それは大して惜しいものではなく、問題もなかったが。
レピスに王位を争う気など最初からなく、それなのに実の兄弟から毒を盛られる理由なんてそう多くない。
王位継承権を放棄したとて、そしてどれほど王家内での序列が低かろうとも、レピスが王女であった事実に変わりはない。異国の地で命を落とせば、それだけで十分な開戦事由足り得るだろう。送り出した姫が無惨にも殺された仇討ちに、ってな具合に。
(兄上は戦争をなさりたいのね……)
天幕内には、レピスの様子を気遣わしげに窺う侍女や警護の女性騎士の目がある。不穏な胸中を言葉に乗せて吐き出すわけにはいかない。心労は胸の内に積もり続ける。
「はぁ〜……」
漏らせない胸中のかわりに特大の溜息を溢してみたところで、レピスの陰鬱な気分は少しも晴れなかった。
レピスの兄であるユーズウェルを筆頭に、一部の派閥の者たちが戦争を求めて止まないのは、かねてからの祖国の悲願の存在がある。
もっとも、ユーズウェル個人に関しては戦功をあげ王位へ就くことを目的にしているかもしれないが――。
エタリウム諸島連合王国は、その名の通りいくつもの小さな島々が寄り集まって形成された国家である。
領土のほとんどは海に面しており、農業に適した土地がごくわずかしか存在しない。そのため、漁業以外の産業がほとんどないに等しい。そしてその唯一の産業である漁業も芳しいとは言い難い。
獲った魚を売って外貨を稼ごうにも、干物にでも加工しなければ日持ちせず、遠くまで運べない。手間暇をかけたぶん売価が高くなれば今度は売れない。
さらに、エタリウムの交易船が魚を売りに行ける範囲の国外の都市は必然的に沿岸都市であり、わざわざ魚を買う必要が薄い。買わずとも、自分たちで穫ればいいからだ。
全く売れないわけでもないが、買い叩かれるため利益はあまり多くない。ただでさえ船は事故も多く、乗組員の損耗も激しい。
自分たちで消費するほかにはわずかばかりの売上をもたらす漁業と、あとは海賊じみた行為でなんとか食い繋いでいる。
私掠行為を国家として認知こそしていないが……公然の秘密というやつだ。政府関係者で知らぬ者はひとりとして居ないだろう。
それがレピスの祖国、エタリウム諸島連合王国の現状である。
もちろん、民の生活が楽なはずがない。
先の見えない貧困から抜け出す未来など描くべくもなく、ただその日その日をやり過ごすように、暗い顔で働く他ない。それができなければ飢えて死ぬ他に道はないからだ。
ゆえに。そのような閉塞した現状を打破すべく、大陸の肥沃な大地を国土に収めることこそが、主戦派の望みなのだ。
カイラム帝国を名乗る新興国にいくつかの小国が併呑されたにも関わらず、大陸中央の諸王国連合がそれを座視し不干渉を貫いたことや、このところの漁獲高の減少による飢饉への危機感が日増しに頭を擡げていることも、彼らの野望を後押ししている一因だ。
あとはそう、侵攻や、切り取った領土防衛を万全のものとするために、噂の『黒き魔剣』を確保しようとした結果、切り札たる『無尽のグリスリディア』を含む魔術師部隊を失い、尻についた火が全身に燃え広がろうとしている。焼死すなわち国家の滅亡である。
(だからといって開戦の口実なんかのために暗殺されるなんて、できれば御免被りたいですけれど)
レピスの口から漏れた、何度目ともわからない深い溜め息が天幕内に溶けて消える。わだかまる感情だけをその場に残して。
「レピスラシア様、そろそろ……その。何か召し上がられてはいかがですか」
「……気分ではありませんの」
「せめて、お飲み物だけでも」
「……けっこうですわ」
「し、失礼いたしました……」
おずおずと提案をした侍女が、泣きそうな顔をして一礼して下がる。
冷たい言い方になってしまったが、レピスにはフォローする余裕もない。声が震えないようにするだけで精一杯なのだ。
レピスは昨日の朝に軽くスープを食べて以降、食事を摂っていない。口にしたのは例の毒茶と、その解毒薬のみ。
解毒薬に含まれていた酒精によって、ふわふわ、ほわほわと少しばかりいい気分で酔払って、そのまま日が暮れる前には寝てしまい、夜半頃に目が覚めた。そして彼がいないことに気付いた途端、心細さに襲われたのだ。
その後の眠りは浅く、何度も魘されては目が覚めた。
そうなってから、ようやくレピスは知る。
彼があまりに平然としていて安心感があったので、レピスに死の恐怖を強く意識させなかったのだと。彼がいなくなった今になってようやく、怖さが実感を伴ってレピスの心を蝕んでいるのだと。
致死毒を盛られたと知ったときも、レピスはたいして取り乱しもしなかった。そのためレピス自身も自らの胆力を誤認していたのだ。
――とはいえ、常日頃の『レピスラシア殿下』を知る者にとっては、異国の少年魔術師に積極的に絡む彼女の姿はかなり意外性を伴うものだったので、まったくの平静というわけでもなく、異常事態によってハイになってはいたのだが。
ひとたび非日常から回帰して落ち着いてしまえば、レピスは慣れぬ旅路の果て、異国の地であわや命を落としかけた17歳の少女としての感性を取り戻してしまう。
食事を摂らなければ、せめて果実水くらいは飲まなければ体は弱っていく一方だ。
そう頭では理解していても、心が拒んでいるのだろう。食欲がまるで湧かないのだ。
無理に口に含もうとしても、手は震え、肌が粟立ち、空っぽの胃が暴れ出しそうになる。
また毒だったら、どうしよう。
ここに彼はいない。今度は助からないかもしれない。
これまで当たり前にしてきた食事が、できない。
夜中に目を覚ましてから何度も魘されたのも、寝ている間に殺されるかもしれない、もう二度と目覚めないかもしれない、と不安に襲われたからだ。
昨日のお礼を口実に会おうとした彼からの断りの返事を、間諜の男がすまなそうに伝えてきたときなんて、あふれそうになる涙が堪えきれそうになくって、そのまま寝具に突っ伏した。以後、今に至る。
(どうしてわたくしの隣にいないのよ……旦那様のばかぁ……)
漏らせない胸中を心の中だけで呟く。レピスの双眸に、ふたたび涙がじわりと滲んだ。