僕と異国の食文化
「こいつぁたまげたな。このタコ、まだ生きてんのか。どこで手に入れてどう運んだのやら……ンで? まさか見せびらかしておしまい、って訳ぁないわな?」
料理人のティモ氏は、にじみ出る期待を隠そうともせず落ち着きなくチラッチラッとこちらを、正確には壺の中のタコを見ている。でかい図体のおっさんがそれをやっても可愛くはない。
「調理法をアーシャに教えても構わないなら、そっくりそのままくれてやるよ」
「そうこなくっちゃあな!」
「よろしくお願いしますなの」
満面の笑みで腕まくりをはじめたティモ氏に追随して、アーシャも腕まくり。ついでに、むん! と気合いを入れている。こちらはなんとも微笑ましい。
ティモは恐れることなく壺に腕を突っ込むと、ずるんとタコを掴み出した。何本もある触手がティモの腕に逆に絡みついていくが、お構いなしだ。
「あれ、黒くなってる? さっき見たときは茶色かったはずなんだけどな」
「タコってのはそういうもんよ。自分の色を変えられるんだわ。周りの景色に溶け込んで獲物を待ち伏せすんだよ」
「へぇ」
「岩場に潜んでジッとされたらよ、見つけんのはまず無理だわな」
なるほど。こんな見た目をしているわりに、タコというのは実に理にかなった生態をしているらしい。
ティモの受け答えは淀みなく、この食材に対する確かな知識を感じさせる。どんな料理ができるともしれないが、期待できそうだ。
調理台に乗せられたタコは逃げようと触手をうねらせるが、ティモは手早く細長いナイフを目と目の間に突き入れた。
「タコはよ、〆め方で味がグッと変わんだぜ」
「まだ動いてるなのっ!?」
ティモの手元を瞬きもせず真剣に見ていたアーシャが、驚きの声をあげる。
眉間……と言っていいのかわからないが、目の間を貫かれたタコはくたぁっと脱力し、黒っぽかった体色が白っぽくなってきた。しかしアーシャの言うように、まだ黒いままでのたうっている触手が何本か存在する。
ティモは驚く僕らをガハハと笑い飛ばした。
「タコには魂がいくつもあるって言われててなぁ、その分〆てやらにゃならんのよ。嬢ちゃんもやってみっか?」
「ひぇ……が、がんばりますなの」
「俺が刺した場所を狙って、動いてる足のほうに角度をつけて突いてみな」
「にゅるにゅるするの……ふぁあ」
「と、とぁああ!」とか「ひゃあ、なんかぐにってしたの……ほぁぁ」とかなんとか時折奇声を交えつつもアーシャの果敢な挑戦によって、ほどなくタコの全身から力が抜けた。のたうち回っていた触手も全て白っぽくなる。
「……やったか?」
この場にシャロンがいたら『無傷で起き上がってきそうな前振りですね』と言われそうなことを思わず口走ってしまったが、幸いタコはそれ以上動くこともなかった。〆めの作業は無事に完了したようだ。
「へっへ、身も柔こくてこいつぁいいタコだわな。下拵えにもハリが出るってもんだ」
さっきの細長ナイフとはまた違う、刃先の尖った薄いナイフを使い、ティモは慣れた手際で内臓をずるんと取り出した。そのなかのひとつに黒っぽいものがあったが、それが墨袋だという。島で墨を吹いたあとだからか、中身はあまりなさそうだ。
桶に張った水の中でタコをざぶざぶ洗う。澄んでいた水はすぐに濁り、表面に泡がいくつも残った。
「表面の汚れとヌメりがある程度落ちたら、次はこいつだ」
もともと面倒見の良い性格をしているのだろう。アーシャへの調理法の伝授を兼ね、ティモは適宜説明を挟みながら楽しげに下処理を進めていく。
壁にぶら下げられた籠からティモが取り出したのは、薄赤色をした鉱物だ。
「それは?」
「こいつぁ岩塩だな。水だけで落ちねぇしつこいヌメりは塩で落とす。ほんとは海の塩がいいんだけどよ、ここいらじゃ手に入んねぇからなぁ」
「違いがあるのか」
「風味が全然違わぁな」
僕にとってはどっちだろうとしょっぱいだけに感じられるが、料理人にとっては全然違うものらしい。島での塩の生産体制が整ったら、魚とともにティモへ卸してもいいかもしれない。
ガハハと豪快に笑いながら、ティモは表面がごつごつした石に岩塩を擦り合わせるようにして、削った塩の粉をタコにまぶし、揉み込んでいった。
こうして見ていると、いろいろな道具を使って『美味しい』を作り上げていく料理には、どこか魔道具作りに通ずるところがあるように感じられる。
あのにゅるんにゅるんしたやつを食べるなんて、と思っていた僕でさえ、ここから一体どんな料理が出来上がるのだろうかと少しばかり楽しみになってきた。
やがて満足いく仕上がりになったのだろう、ティモは満面の笑みでひとつ頷くと、また別の新しい桶でタコを水洗いする。付着した水を丁寧に拭き取ると、そのでかい図体からは想像できない繊細かつ迷いのない包丁捌きで、触手の一本を薄く切り落としていく。
「うん」
向こう側が透けるほどに薄く切られたそれは、高級な絹糸で織られた薄布か、もしくは白い花弁を思わせる。一切れつまみあげ、ティモは満足そうに頷いた。そして――こともあろうに、それをそのまま口へと運んだではないか!
「ええっ、生だぞ!?」
火を通さずそのまま食べられるのは一部の果物くらいのものだ。肉や魚を生で食べようものなら腹をくだし、下手をすれば命に関わる。それくらいは赤子だって知っているというのに!
僕がギョッとしている間に、ティモは、美味ぇ、と呟いて口の端でニヤッと笑った。
「ここいらにゃあ生食の習慣は無ぇもんなぁ。心配せんでもこれだけ新鮮なら生で食える。タコにゃあ妖精も付かんしな」
「……妖精?」
「あー、新鮮な魚で中った場合は、悪戯好きな妖精が悪さをしたんだ、って俺らのとこでは言うもんでな。タコにゃ魂がいくつもあるってさっき言ったろ? 寝てる間も起きてる魂がいるから、妖精が悪戯する隙がねぇんだって信じられてんだよ。ま、どこまで本当の話かは知らんがね、少なくともタコで中ったって話は聞かんよ」
言いながら、ティモは薄切りした生のタコを満開の花のように皿に盛り付けていく。
「サシミって料理だ。タコだからタコサシだな。塩や魚醤を付けてもいいが、このままでも十分美味い。茹でたタコサシもいいもんだが、生のタコサシは祖国でも滅多に食えんご馳走だぜ」
ずい、と差し出された皿は、あのぬめぬめしていたタコがこうなったとは信じられないほどに美しい。けれど、それをすぐ口に運べるかといえばまた別問題だ。ご馳走だと言われても、だって生だぞ?
ごくり、と唾を飲み込む。空腹からというよりは、忌避感から。本当に食べても大丈夫なものだろうか、と背中につぅと汗が伝う。
「い、いきますなの」
僕が躊躇する中、アーシャが動いた。なるべく小さなひときれを選んでつまむ。どうやら覚悟を決めたらしい。アーシャは食に対する好奇心が人一倍に旺盛なのだ。
アーシャはティモと同じく、用意された塩や黒っぽい調味料は付けずに恐る恐るといった様子でサシミを口に運ぶ。
「…………ほぁ」
それは一体どういう感情を示すものか、判別のつかない声が漏れた。
眉を寄せた難しい顔から、どこか不思議そうな表情に転じたアーシャは、しばらくもむもむと頬っぺたを動かし続ける。見た目に反して固いのだろうか。
へにょりと垂れていた耳がぴんと立ち、ぴくぴくと小刻みに動いている。少なくとも不味いということはなさそうだった。やがて、こくんと小さく喉が動く。
「……どうだった?」
「もにょもにょぷりぷりしてたの」
「なるほどわからん」
今度は黒っぽい調味料をつけたサシミに挑戦するようだ。ふた切れ目には先ほどのような迷いがない。
ティモは『タコでは中らない』と豪語するが、もしアーシャが苦しむようなことがあっても僕とシャロンが健在ならいかようにも対処はできるだろう。が、僕まで腹を下してしまってはそれも厳しい。やはり生食は気になるな……と躊躇していると。背中で、からんからん、と澄んだ音が響いた。複数人が扉を潜る気配。
「おう、らっしゃい! どっか適当に空いてるとこに座ってくんな……」
来客か。看板も何も出てないのに客入りがあるものなんだな。
もし新たな客にサシミへの忌避感がなければ、せっかくなので分けてもいいかもしれない。けして僕がビビっているからじゃない。ないったらない。
ティモが目を見開いて口をぱくぱくとさせて固まっているのを視界の端に認めたが、僕は深く考えることなく来客に振り向いた。直後、ティモの硬直の理由が、一歩踏み込めば触れ合える距離で僕を覗き込んでいることを知る。
「ごきげんよう」
「うわっ」
「妻に向かって『うわ』とは結構なご挨拶ではありませんこと?」
妻を自称する厄介ごとの種に至近距離から覗き込まれているにしては、だいぶ穏当な反応だったと我ながら思うわけだが、当人たるレピス――あわや毒殺をされかけて一夜をあけたレピスラシア殿下におかれましては不服だったようだ。ジトッとした視線を僕に向け、つんと唇を尖らせる。
「む。んむむぅ」
その時。アーシャがもごもご言いながら、僕に背中を預けるようにしてレピスとの間にぐいと体を割り込ませてきた。つまんでいたタコサシをまだ飲み込めていないようで、後ろから見える頬っぺたがもにもにと上下している。
シャロンやアーニャならともかく、アーシャにしては珍しい行動に僕が驚いていると、レピスのすぐ後ろに控えていた騎士が食って掛かってきた。
「無礼者!」
「よいのです。下がりなさい」
「しかし――」
「下がりなさいと言いました」
「……御意」
レピスにたしなめられた騎士は頭を垂れて一歩引いた。いざというときのカバーに入れるようにだろう、かわりに侍女がレピスのすぐ側にそろりそろりと進み出た。昨日、レピスに盛られた毒を毒味役として一緒に受けてしまった老侍女ではなく、若い女性だ。
剣呑な空気が幾分やわらいだので、僕も詰めていた息を吐いた。即座に”剥離”を放てるように編み上げた魔力が霧散していく。
それを感じ取ってか、レピスも深く息をついて、間に割り込んできたアーシャに向き直った。
「警戒させてしまったかしら。ごきげんよう、素敵なお嬢さん。わたくしのことはどうぞレピスと呼んでくださいまし。あ、どうぞ食べ終えてからで。ちょうどわたくしたちもお食事をしに来たところで……祖国の料理を出す店があると聞いたものですから。そこでまさか旦那様にお逢いできるなんて、まさに海神様のお導きですわね」
レピスの言葉を信じるならば、僕らが尾けられていたとかではなく全くの偶然らしい。おう恨むぞ海神とやら。
「それにしても、ふふ……つれない態度でしたのに、妻の故国の料理に興味を示してくださるなんて。旦那様ったらいじらしいお方ですこと」
「完全に誤解だし、なんなら妻に迎える気もないけどな」
「またまたー、照れなくたっていいではありませんか。さて、旦那様はいったいどんな料理を――サ、サシミ!? この店にはサシミがあるんですのっ!?」
それまでの落ち着いた佇まいとゴリ押しの妻アピールはどこへやら。よほど故郷の味に飢えているのだろうか、僕に向いていたレピスの興味が完全にサシミに取って代わられた。べつにレピスの興味を惹きたいつもりは微塵もないが、サシミに負けた気がするのだけはなんとなく釈然としない。複雑な心境だ。
「サシミです、サシミですわ!?」
「へぇ、その。タコのサシミでごぜぇます」
レピスの勢いに、料理人ティモはしどろもどろで応じる。
先ほどまでの豪快さをどこかに忘れてきたかのようだが、ティモにとっては自国の王族を相手にしているのだ。緊張するのが当然かもしれない。僕だって自分のところの王族に会ったら……いや、顔も名前も知らんな。
「わたくしもっ! わたくしにもサシミを!」
「いけません姫様」
「いけます!」
「いけません。サシミはお体に障りがあるかもしれません」
「いけます!! ここには致死毒からも救ってくださる頼もしい旦那様がおられます!」
「それでもいけません」
「いきます!」
いきますじゃないが。
「なんか、思ったより愉快な人だったの」
ようやくタコサシを嚥下したアーシャは、侍女との攻防を繰り広げるレピスを見やり、こてんと首を傾げて小さくつぶやくのだった。