僕とぬらぬら
苦労した甲斐もあり、貯水槽は島民たちに大歓迎をもって迎えられた。
大歓迎が行きすぎて、崇められたうえに拝まれる始末だ。
シャロンもたまに町や村で『熊殺しの女神』として拝まれ、なんとも言えない表情をしていることがあるけど、僕も実際に体験してみてわかった。これは反応に困る。
彼らはこれまで毎日森の中の小さな川にまで水汲みに行っていた。そのことに対して不便を訴えることはなかったけれど、元の所有者によって足を悪くしていることもあって、やはりそれなりに苦労は大きかったようである。
彼らの足を治すための準備も着々と進んでいる。早ければ、あともう数日ほどで移植にかかれるかな、というところまで培養できている。
移植手術は僕とシャロン、さらにはリリィ、カトレアにもついてもらうつもりでいるので、まあ滅多なことにはなるまい。
万全の体制のもと行うので、手術の失敗はあまり考えなくてもいいとはいえ、術後しばらくはまともに動けない。繋がったばかりの組織が剥がれないように、ゆっくりと時間をかけて機能回復をして、馴らしていく必要があるためだ。
島民全員が一度に動けなくなると彼らの生活が立ち行かなくなるので、手術はひとりずつ、様子を見ながら日をあけて行うつもりだ。全員の足を治せるのはさらにもうしばらく先の話になる。
足が治ってからも便利に使えるとはいえ、貯水槽が役立つ機会はより多いだろう。いやー、よかったよかった。で、この日が終われば良かったんだが。
「へへ……ドジっちまいやした……」
まだ帰ってきていなかったひとりの島民が、ひどい有り様で戻ったのだ。
海に落ちたらしく、全身ずぶ濡れになっている。また、顔の半分から胸のあたりまで、蝕まれたようにべっとりと黒く染まっているではないか。黒くなっている方の目は見えていないだろう。もう片方も擦ったのか、目を細め、かなり辛そうにしている。
「お前これどうしたんだ、呪いか!?」
「主様、それがわかんねぇんです。見たことねぇ魔物が魚籠から出てきて……気付いたらこのザマでさぁ……」
「落ち着いてください。ただの墨です」
見た目がひどいので焦ったが、体に害はないこと、洗えば落ちることをシャロンが冷静に指摘。目はとくに入念に洗浄したほうがいいとのことで、貯水槽の初仕事は風呂水の供給となった。
風呂桶に移した水に魔術をブチ込み適温にし、他の島民たちもついでに身を清めているあいだ、僕とシャロンは墨を放った『見たことねぇ魔物』とやらを探すことにする。
島民たちはみんな、「もちろん護衛についていきますぜ」「主様、奥様が強ぇのは知っとりやすが、我らも盾代わりにはなります」などと闘志を滾らせていたのだが、僕とシャロンのふたりなら、もし何かあってもすぐに逃げられるから、と宥めすかし、半ば逃げるようにしてなんとか置いてきた。
あいつら、忠誠心が強いわりにあんまり僕の言うこと聞いてくれないよな……。命令するつもりもないからいいけどさ……。
「――あれか」
「そのようです」
魔物が出たという件の魚籠は海岸に転がったままになっていた。隣でシャロンが小さく頷く。
木の枝を編んで作られた蓋つきの魚籠は、釣り上げた魚を入れておくためのものである。魚籠には長い蔦が括り付けてあり、反対側の端を手や腰に結んでおき、魚籠は海の上に浮かべておく。そうしておくことで中には海水が供給され、釣った魚を生かしたまま捕まえておけるのだ。
「まだ中に居ますね」
「わかった。まずは慎重に出方を窺……――ってシャロン!? そんな不用心に近づいたら!?」
シャロンはさして警戒する様子もなしに、歩調を緩めるでもなく近づいていく。そのまま魚籠をむんずと掴みあげた。かと思うと、ぶんと勢いよく振る。すると、べしょりと中に居たそれが地面に落ちた。
「うわっ」
なんだこれ!? ……なんだこれ!!?
茶色っぽいそれの全身は、ぬめぬめ、てらてらとした粘液で覆われていた。
不定形の、名状し難い形状をしているが、ここまで近づいても魔物を探知する術式に引っかからない。どうも魔力を持っているわけではなさそうだ。
そいつは僕の魔力に気付いたようで、攻撃を仕掛けてくるでもなく、ずいりずいりと海へと向けて逃げるように這いずっていく。それをシャロンが素早い動きで掴みあげ、再び魚籠の中に押し込んだ。素手で? あれを?
「身の危険を感じると墨を吐く性質を持つ生物です。魚籠に侵入して魚を捕食している間に引き上げられたのでしょう。かつての文明では、この生物を食用にしていた民族もいたようです」
「うそだぁ……」
魔物ではないのかもしれないが、『災厄の泥』やそれに類似しそうなぬめぬめしたあれを? 食べる?
どちらかと言えば、まだスライムのほうが食べられそうな見た目をしているんじゃなかろうか。
かつての文明ではシャロンのような魔導機兵や、”六層式神成陣”みたいなすさまじい技術の産物が存在したのだから、さぞかし栄えていたのだろうと思っていたけど。まさか、あんなのを食べねばならないほどにまで食料事情がのっぴきならないところにまで追い詰められていたなんて。あらためて『世界の災厄』の侵攻による当時の被害の深刻さを目の当たりにした思いだ。
僕は、ごくりと唾を飲み込む。
「海のものならなんでも食べてしまう変わり者の民族で、致死毒を持った魚を好きこのんで食していたと記録にあります」
「うそだぁ…………」
さすがに正気とは思えない。この謎の生物にしてもそうだが、毒を好んで食っているというのもかなり怖い。常軌を逸している。いやいや。いやいやいや。さすがに実在しないだろ、そんな民族。いても1人か2人くらいの変わり者が、世にある英雄譚みたいに誇張されたものなんじゃなかろうか。僕は訝しんだ。
ドン引きしている僕を尻目に、シャロンは蔦で魚籠をぐるぐる巻きにして、ぬめぬめのその生物が出てこられないように縛ってしまった。
「アーシャさんへのおみやげができましたね」
「うそだぁ………………」
なんてことないような調子でシャロンが言うが、さすがのアーシャも困るんじゃないかな、あんなのが出てきたら。
『オスカー・シャロンの魔道工房』の食事事情を一手に引き受け、リーズナル邸に居候するようになった今も頻繁に厨房に出入りしているアーシャは、こと、食に対してかなり挑戦的である。
食べたことのない料理を出す屋台でも見かけようものなら、すぐさま試してみる。ほぼ必ずと言っていい。そうやって新しい料理や味付けの研究をしているようで、その研究成果がたまに夕飯に並んだりもする。
けど、なにかがまかり間違ってこいつが食卓に並んだとしても、僕には食べる勇気がない。他に何も食べるものがなく、3日ほど腹にものを入れていないみたいな状態ならあるいは、といったところだろうか。なんだかんだ引き伸ばして5日目くらいまで食べる決心がつかない気もするが、その頃には腐ってそうだ。
蔦でぐるぐる巻きにされた魚籠は海水を満たした壺に入れ、さらに外側を念入りに対物理の”結界”で覆ったうえで、僕が手持ちで持ち帰ることにした。
ないとは思いたいが、もし”結界”が粉砕されるようなことがあっても、これで即座に対応できる。倉庫改に放り込んで、中をめちゃくちゃにされちゃ堪らない。
幸いというべきか、”結界”が破られることもなく――それ以前に壺もビクともしなかったが、ともかく無事にそれを持ち帰ることには成功した。
「わぁ……」
調理台の上にべしょりと落ちた、ぬらぬらした生物を目にしたアーシャの感想がこれだ。
僕の背に隠れるようにしてそぉっと顔だけを出し、逃げようとするそれが調理台を這いずるのを見ているが、耳はぺたんと折り畳まれている。
たまたま居合わせたメイドは悲鳴をあげてすぐさま厨房から逃げ出したので、アーシャの反応はこれでもまだマシなほうだろう。
リーズナル家お抱えの料理人たちは、誰もこの気味の悪い生物の調理法を知らなかった。調理法どころか見たことがある者さえいなかった。
ガムレルの町は海から遠く離れている。行商人でもなければ滅多なことでもない限り町の外に出る機会もない。知らないほうが普通なのだ。
「ほんとに食うのか? これを?」
「僕もそう思うけど、シャロンが言うには食べられるんだってさ」
「で、調理法は?」
「さぁ……」
料理人たちはそれを遠巻きにしながら、どこか迷惑そうに眉根を寄せた。
シャロンも『食用可能』という情報しか持っていなかったので、じゃあどうやって食べるかという話になるとまったくのお手上げなのだ。
ちなみにそのシャロンはと言えば、屋敷に帰り着くや否や、疲れ切った顔をしたリーズナル卿の事務作業の応援に駆り出されて行った。
なんでも、お忍びとはいえ他国の重鎮の来訪によって立て込んでおり、リーズナル卿にカイマン、執事だけではどうあっても事務処理の手が足りないと泣きつかれたのである。
リリィは鉄鉱石の買い付けで町を離れているし、カトレアは町にはいるものの、日中は保育院設立のためもろもろの下準備だとかで東区画に詰めている。
セルシラーナはあれで自称姫なのでそういった政治的な事務仕事もこなせなくはないだろうが、立場上は他国の人間なので、おいそれと機密情報を見せるわけにはいかないのだろう。リジットも然りだ。血に飢えた騎士に事務仕事ができるのかどうかは知らん。
ちなみに、僕には予算だとか有力者の関係性だとかがわかるわけもなく、事務処理能力としてはほとんど戦力にならない。人には得手不得手があるのだ。得意な人、知識のある人に頼るのは何らおかしなことではない。がんばれシャロン。負けるなシャロン。
「これは、ティモさんのとこに持っていくの」
ぬらぬら這いずっていくそれに少しだけ慣れた様子のアーシャが、僕の後ろからひょこりと顔を出して言う。
ティモさんとやらに覚えはないが、アーシャが懇意にしているどこぞの料理人だろうか。もしかしたらこいつの調理方法の知識を持っているかもしれない、とアーシャが判断した人物。
僕は”念動”魔術で調理台の隅っこに逃げ込んでいたそれを壺の中に戻した。
夕暮れが迫っている。
こころなし足取りを弾ませたアーシャとともに、家路を急ぐ人たちをすり抜けながら、壺を片手にぽつぽつと魔石灯の灯りはじめた町をゆく。
大通りを通り、路地を抜け、やがてアーシャが立ち止まったのは平凡な民家の勝手口のような佇まい。うん? なんか見覚えがあるような、ないような。
戸を押し開けると、からんからんと澄んだベルの音色が響く。
「おう、らっしゃい! ――って嬢ちゃんか」
「ティモさん、こんばんはなの」
「はいこんばんは。今日は旦那も一緒かい。どうしたね」
そこは、いつぞやのスパイとの初遭遇時に訪れた、隠れ家的な酒場だった。
あの日以来僕が訪れたことはなかったが、アーシャは何度か通っていたのだろう。いつのまにか店主と顔馴染みになっている。
「ちょっと見てもらいたいものがあるの」
アーシャが促すので、僕は壺の蓋を外した。なるべく近寄りたくないので”念動”魔術で。
途端、壺から溢れ出す、どこか生臭い海の香り。
訝しげに眉を顰めていた店主のティモさんが目を瞠り、すぐに喜色に染まった。
「こいつぁ……立派なタコだな!」
この反応。アーシャの読み通り、どうやらティモ氏は気味の悪いぬらぬら改め、タコとやらの調理法を知っていそうである。
――まあ、なるべく食べずに済ませたかった僕にとっては、喜ばしいか嘆くべきか微妙なところだが!
致死毒を持つ毒魚を喜んで食べるばかりか、摘出した毒の部位を数年かけて糠漬けにしてまで食べる民族がいるらしいですよ。