僕と受け継がれたもの
『言葉だけなら酔っても吐ける』とはうまいことを言ったものだ。
理屈の上では正しくとも、目に見えないほどの小さな穴を作るなんて芸当は、口で言うほど簡単なことではない。
「あくまで一例ですが、島にある草をオスカーさんの"剥離"で極限まで細かくして濾し取り、逆浸透膜を精製します。今のところの試算ですと4、5年もあれば完成させられるのではないかと」
「そんなに」
「技術体系を何段階もすっ飛ばしていますからね。現在の技術水準からみれば、本来であれば軽く千年は先の技術です」
途方もない時の重みを感じればいいのか、それとも千年もあれば人類はそんなことが普通にできるようになるのかと慄くべきか、微妙なところだ。
思えばこれまで、なんでも短時間でパパッと作れすぎたのだろうな。”全知”さまさまである。本来であれば千年掛かる技術に4、5年で辿り着ける公算というのは、そう言われればお得に感じなくもない。……いや、やっぱ長いな。
あくまで目的は日々の飲み水や生活用水の確保なのだ。すぐに実用段階にならないなら他の手段を考えるべきだ。数日で4、5年分の研究をやりたけりゃ、”六層式神成陣”でもなけりゃどうにもならん。
悠久の時の牢獄にフリージアを閉じ込めていた”六層式神成陣”は、『世界の災厄』との決戦に際して永きにわたるその役割を終え、崩壊してしまった。
僕の右眼に埋まる前の”全知”で構成を視ているので、再現できないことはないだろうけど、あまり現実的じゃないな。あの途轍もない術式を満足に稼働させるだけの魔力を充填しようと思ったら、それこそ千年単位の時間が必要だ。その機能の一部だけを再現するとか、効果領域を狭めるなどの改変を加えればあるいは、といったところ――
「ん? いや待てよ、”六層式神成陣”、改変……もしかしたら、いけるかも」
「なにか思いつきましたか?」
「ああ、ダメで元々だ。とにかくやってみるよ」
結論から言おう。『思いつき』は数度の調整を経て、うまいこと動作した。
貯水槽はエムハオ舎と同じ要領で作った。底と四方の壁を頑丈な石で固められた四角い貯水槽に、絶えず水が流れ込む。淡水だ。
先ほどの単レンズ顕微鏡で同じように水を観察してみると、中にはほとんど何も居ないことがわかる。
風や埃、あとは水が流れてくる経路の問題でどうしても多少の微生物が入ってしまうのは避けられないらしいが、海水中に無数に蠢いていたプランクトンの類はほぼ皆無と言っていい。川や井戸の水よりよほど綺麗なようだし、飲用にも十分堪えるだろう。味に塩っぽさもなし。完璧だ。
貯水槽は僕とシャロンが膝を抱えてすっぽりと納まる程度の大きさで、貯まった水はまだ、半分の、そのまた半分にも満たない程度だ。それでも、波力回転機構が常に少量ずつ海水を引き上げ、淡水化されたものが貯水槽に流れ込んでくるので、半日から1日もあれば満杯になる。この貯水槽の水だけで十分生活できるだろう。島民が増えたら足りなくなるかもしれないが、その時は水を引き揚げる波力回転機を増やしたらいい。現状では1個で十分だ。
満杯になった水は貯水槽の上部に設けた切り欠きから流れ、木製の水路を伝って風呂桶に流れ込むようになっている。これで風呂のために水を運ぶ必要もない。
今のままだと海水と同じ水温なので水浴びしかできず、これから冬に向かうにつれて厳しくなるだろうが、そのうち水路の途中に湯沸かし機構を増設するつもりだ。
しばらくは器で運んでもらうしかないが、エムハオ舎のほうに飲み水用の水路を延ばしてもいいかもしれないな。
干魃を気にせず好きなだけ淡水が使える利点を活かして作物を育てるのもありだろう。まさか海が干上がることはあるまい。
あとはそうだな、落ち葉や砂が入らないように貯水槽には蓋でも付ければいいか。
「いやー、うまくいってよかった」
「まさかこんな方法で淡水化を実現するなんて。さすがオスカーさんです」
「シャロンのヒントがあってこそだけどね」
「私はかつての文明の記録を読み出したにすぎませんが、それをうまく実用に落とし込んだのは誰がなんと言おうとオスカーさんです。発想が柔軟です。まあ私の目が蒼いうちは誰にもなんとも言わせませんが」
シャロンは手放しに僕を誉めそやすので、少しばかりこそばゆい。とはいえ、そう悪い気はしない。自分でもなかなかうまいことやったなという満足感がある。
今回の『思いつき』をひとことで言えば、水を人間にすることだ。――うん。なに言ってるかわからんな。
僕がシャロンと初めて出会った、神継研究所。そこの地下にあった”六層式神成陣”は、いくつもの性質を併せ持ち、それらの性質でもって強度と効果を高めるというすさまじいバランスの上に成り立った結界だった。あの勇者をして『よくこんなものを仕上げたものだ』と呻かせた代物である。
陣の持つ性質のうち、一番意識に残りやすいのが、結界内外での時間の流れが違うというものであろう。内と外とを時空間の隔たる異なる世界と見做すことで、内側で1年を過ごしても外側ではわずか10日しか経過していないというような時差を実現していた。
次が、結界が蓄えた魔力によって内部にいる人間の魔力や体力を回復し続ける性質だろうか。肉体の状態を万全に保ってくれるので、食べ物すら必要としない。あれがなきゃ、僕が最初に足を踏み入れた時にぽっくり死んでたのは想像に難くない。
それらの性質に比べれば印象が薄いというか、『そういやそんな効果あったな』くらいの覚えしかなかったんだけど、”六層式神成陣”にはヒト以外の出入りを拒むという性質があったのだ。この性質がゆえに、僕が結界に踏み入ったときにシャロンは中に入れなかったし、白蛇様との神名融合実験の被験体だとかいうフリージアも、内部から出ることが叶わなかった。
ヒトなら通れる。それ以外を通さない。
その性質は、そう、つい先ほどシャロンに教えられた『水だけが通れる穴のあいた膜』と類似した性質なのだ。かの結界は、言うなればヒトだけが通れる穴が空いているに等しい。もちろん穴の大小ではなく、魔術的な判定によって、である。対魔術結界や対物理結界なんてものもあるし、それのもうちょっと複雑な版ってわけだな。僕が着ていた服とかはそのまま通れたし、単純に生物か非生物かで分けているわけでもない。
シャロンと手を繋いで”紫電”を発動して知覚時間と演算能力を大幅に引き伸ばしつつ、右眼の”全知”をちょっぴり解放して再現したそれは、おおよそ『ヒト』たり得る要素を偏執的にまで定義し、そこから僅かでも逸れようものなら一切の立ち入りを拒絶するものだった。『世界の災厄』の脅威が世の中を覆い尽くしていた頃、人間だけが逃げ込める領域を作ることにかけての熱意や期待は並々ならぬものだったのだろう。
復活して間もない、しかも魂の断片だけであれだけの強さを誇っていたのだ。完全だった『世界の災厄』と対峙していたかつての人類には敬意を抱かざるを得ない。まあ敬意を払うことと、その成果物をいい感じに改変して使わせてもらうことは両立するわけだが。
”六層式神成陣”の、ヒトだけを通す性質に改変を加えるなら、純粋な水をヒトの定義に加え、塩やプランクトンを拒絶してやればいい。だからひとことで表せば、『水を人間にする』ってわけだ。
薪を集めたり、”火炎”などの術式で海水を沸かして蒸留する方法に比べると消費魔力は大したことがないし、波力回転機構で生成する魔石で十分に賄える。放っておいても火事になる心配もない。
構成は最初に"抽出"術式でやろうとしていた形に近いと言えば近いが、”六層式神成陣”という見本があったからこその出来映えである。
引き揚げた海水は淡水化結界、先達の名にあやかって”一層式淡水陣”に流れ込み、通った人間、もとい水だけが結界の向こう側に伸びる水路を伝って貯水槽へ。拒まれた高濃度塩水は、傍に設けたそれ用の木桶へと溜まっていく仕組みだ。
木桶の中のどろっとした高濃度塩水はプランクトンも含まれているが、塩分が濃すぎて軒並み死滅している。死骸はそのままだけどね……。
高濃度塩水を常に海へと戻すのは、プランクトンが死ぬし、そうなれば魚の食べるものが減るのであまりよくないらしい。
シャロンによれば、木桶の中身をそのまま撒けば雑草が枯れるほどの濃度だという。波力回転機構までのよく通る道はこれを除草に使ってもいいかもしれん。かなり歩きやすくなるだろうし、周囲の草が減れば虫や蛭に噛まれることも減るだろう。
あとは、晴れた日に薄く伸ばして天日干しにして、塩を精製すればいい。ガムレルに持っていけば売れるしな。岩塩を仕入れている商人との軋轢を産まないように、流通させるのはほどほどの量にしたほうがいいだろう。そのあたりのバランスは、リリィやカトレアに任せておけば悪いことにはなるまい。
「海辺だけでなく、綺麗な水を確保しにくい場所ならどこでも重宝するでしょうね。沼地とか」
「できるだけ荷物を減らしたい冒険者にもいいかもな。コップみたいに掬える形にしてさ」
冒険者稼業では道中での安全な飲み水の確保が存外に困難なのだとかカイマンがボヤいていたっけ。
川があったとしても、その水をそのまま飲んでいいかどうかは別問題で、万全を期すためには火を熾して一度沸かしてからでないと飲んじゃいけないのだとか。
一度飲んで問題がなかった川でその手間を怠り、腹を下して森の中で脱水で亡くなった冒険者の話は、駆け出し冒険者は必ず聞かされるという。それでも似たような事案が後を絶たないらしいが。
考えてみれば、川の上流で血みどろのペイルベアが水浴びしていないとも限らないのだ。綺麗に見えても用心に越したことはない。水の中に目に見えないものが大量に蠢いているのは身に染みて知ったところだ。
「”六層式神成陣”を作った人たちが、今の人類の役に立ってると知ったらなんて言うかな」
「水を人扱いしているのに驚くんじゃないでしょうか」
「それはそうかもしれんけどさ」
あれを作った人たちは、赤衣の勇者を除き、全員もうとっくに骨になっているだろう。ことによっては骨すら朽ちてるかもしれない。最後の最後、骨になっても生かされ続けていたフリージアもすでに解放された。
死んだ人は何も思わない。何も感じない。何かを思ってほしいのは、生きている者の感傷にすぎない。わかってるつもりだ、そんなことは。それでも。
「喜んでるといいな」
そんな風に思うのだ。
意図した形とは全然違うかもしれないけれど、あんたらの作った技術は、たしかにヒトの役に立ってるぞ。