僕と目に見えないわしゃわしゃ
扉付きの平坦な屋根を取り付けて、エムハオ舎は完成した。
島民たちの頑張りもあって思いのほか早く片付いたので、日はまだ高い。
彼らはそのまま「みやげに生きのいい魚を持って帰ってくだせぇ!」と意気込んで釣りに出掛けて行ったので、なるべく海には近づかないことにした。僕が下手に海岸に近づくと逃げられるのは、魚でもすでに体験済みである。
自分の非人間性を見せつけられるようで若干へこむが、嘆いたところで生き物に恐れられるのがマシになるわけでもなし。僕としては漁の邪魔にならないように引っ込んでいるしかない。
せっかく作った僕の釣竿が、一匹も魚を釣り上げることなく倉庫の肥やしになるのも不憫といえば不憫だけど、かといって島民にホイとあげてしまうと諍いの種になりそうな気もする。なんか奪い合いとか起きそうじゃない? 僕への忠誠心とか親愛とかそういう思いがやたらと重いんだよな、あいつら。
海辺に近寄らなくてもできることはたくさんある。内陸部への探検もそのうち行ってみたいところだけど、先に生活用水の確保から片付けてしまいたい。そう、途中になっていた海水の淡水化だ。
海水は塩と水からできている。塩を魔術で”抽出”してやれば飲み水が確保できるし、作った塩は売れる。完璧だ! ……なんて簡単に考えていたのだけれど、シャロンによるとそう簡単にはいかないのだという。
「魔術と逆浸透の合わせ技で濾過しましょう。海水には肉眼では視認困難な不純物が無数に含まれています」
「ふーむ」
波力回転機が引き揚げてきた海水を指し、シャロンが言う。
そうは言われても、一瞥した限りではただの水だ。目を凝らせば、わずかに千切れた海藻が浮いているのが認められるけれど、他には何もなさそうに思える。
『妖精亭』の妖精は”全知”を使わないと、その存在を視ることができない。シャロンやアーニャたちは感覚が鋭いので『そこになにかが居る』ということまでは感じ取れているようだけど、目に見えないことに変わりはない。
その類のものかと問えば、シャロンは小さく首を振った。
「魔術や神秘の領分ではありません。もっと単純に、小さすぎて見えないんです」
「”全知”で視えるかな?」
「可能だと思いますが、もっと簡単に視ることもできますよ」
そう言ってシャロンが取り出したのは、砂粒よりは大きいが小石よりは小さい魔石だ。色はほとんどついておらず、透き通っている。黒スライムで太陽の光を集めて作った魔石の中には、たまにあんな色になるものがある。
僕はシャロンに言われるがままに魔石の形を整える。魔石は魔力が結晶化したものなので、魔力を消費した分だけ縮む。元々がかなり小さな魔石なので、ちょっとした魔術でも魔力を使い果たして消滅してしまう。微調整に苦労しながら、できる限り球の形に近づけた。
木片に小さな穴を開け、出来上がった爪の先ほどの透明な球状の魔石をぴったりと嵌め込んだ。魔石が落ちてこないように糊で固定したら完成だという。なんの術式も刻んでいないので、ちっちゃな魔石の嵌まった木片以外の何物でもない。
「では観察してみましょう。屋根をそうしたように、魔術で海水を持ち上げてください。ほんの少しでいいです」
首を傾げつつも、シャロンの指示に従ってコップ一杯分ほどの海水を”念動”で持ち上げる。多すぎると言われたので量を減らしていき、最終的に雨粒のひと粒ほどの量になった。シャロンはその下から指先をぺかーっと光らせた。光を受けて、ほんのちょっぴりの海水が宝石のようにきらきらと自己主張する。
「どうぞ」
シャロンが促すので、木片に嵌まった魔石を覗き込むように目を左目を近づけて――……
「まぶしいな。いや待て、なんか視える……うわ、なんだこれ!?」
眩しさに慣れてきた僕の目に飛び込んできたものは、どうやら妖精ではない。色とりどりの、うぞうぞわしゃわしゃぶよぶよと蠢くよくわからないものたちだった。
糸のような紐のようなものが伸び縮みをして、髭の生えた虫と思しき丸っこいものがたくさんの足をバタつかせる。透き通った蜘蛛のようなものが爪を振り上げたように見え、僕は思わず木片から目を離した。
「単レンズ顕微鏡といいます。もっと小さな魔石を使えば、さらに大きく見えますよ」
「いやもう十分」
どうも驚いた拍子に”念動”の制御が疎かになってしまったらしく、さきほど持ち上げていた海水がなくなってしまったので、また新しい粒を持ち上げて、単レンズ顕微鏡なるもので覗き込んでみる。
「ゔっ……」
やはり先ほどの光景は白昼夢などではなかったらしい。さっきとはまた違った、けれど同じようにわしゃわしゃと蠢く存在が視界中にひしめきあっている。
「魔物じゃないのこれ……」
「かつては浮遊生物と呼ばれていましたが、中には魔物もいるかもしれません」
「とてもじゃないけど、飲む気にはなれないな」
これでは、飲むどころか海に入るのさえ躊躇してしまう。だって、ほんのひと粒の海水にこれだけの数のわしゃわしゃがごわごわしているんだぞ!? ひと掬いどころか、ほんの雨粒程度の海水に、である。『無数に』というシャロンの言は、全く過言ではないと判断するほかない。
こんな得体の知れないものがうじゃうじゃ湧いていると認識した上で、それ以外に飲み水がないならばともかくとして、選択の余地があるのに好き好んでこれを飲み干す奴がいるとは思えないし、もしいたら僕はそいつとはあまり仲良くなれる気がしない。
透き通った清涼な水と泥水が選べたとして、泥水の方を飲むやつがいるのかという話だ。まあ、今回の場合は透き通った水に見えて、実際はうじゃうじゃのわっしゃわっしゃだったわけだが。こんちくしょうめ。畜生と言っていいのかどうかすら定かではないけれど、浮遊生物という以上、生きてはいるのだろう。
「大きな魚は小魚を食べますが、小魚は主にこれらのプランクトンを食料としています。つまり魚が豊富にいる場所にはプランクトンも大量にいると考えていいでしょう」
「なるほどなぁ……」
”抽出”術式でそれらを全部除去するのは、現実的ではない。”抽出”が十全に効果を発揮するためには、抜き出す対象をあらかじめ術式に規定しておく必要がある。”全知”の権能を解放して即時術式を組み替えて対処に当たれば、もしかしたら可能性がなくはないかもしれない――けれど、魔道具化は土台無理筋だ。そんな労力を掛けるなら小川に水を汲みに行くほうが格段に楽だ。なんなら小川から水路を引いてもいい。
発想を逆転させて、プランクトンのほうを”抽出”するのではなく、淡水のほうを”抽出”するのも――うん。試してみたけど、やっぱり無理だな。大きな対象から小さな目標物を選んで抜き出す術式なのだから、用途に適さないことこの上ない。破城槌を使ってパン生地を捏ねるようなものだ。
「なんだっけ、そのギャクトン(?)とかいうのでプランクトンは除去できるのか?」
「逆浸透ですね。はい。プランクトンだけでなく塩分も除去できます。淡水を生成した残りは高濃度塩水となりますので、塩田を作るにしても熱処理を加えるにしても、少ない労力で塩を入手できます」
「おお」
さすがシャロンだ。普段の言動はともかく、困ったときの頼もしさは他の追随を許さない。……うん。普段の言動はともかく。
ドヤ顔で腰に手を当てるシャロンを撫でると、「むふー!」と満足げな鼻息がかえってきた。かわいい。
「逆浸透の原理は、簡単に言えば葡萄酒絞りに似ています」
「僕は葡萄酒絞りからして知らないけどな」
ガムレル周辺で飲まれている酒は、もっぱら麦酒であるが、葡萄酒も何度か飲んだことはある。ただ、酸っぱかった覚えしかないし、作り方も知らないのだ。麦酒に比べたら高価いことは知ってるけども。
「桶の上に布を張り、そこに収穫した葡萄を置いて踏むんです。その役を担うのは一説によると処女だけとか。つまりオスカーさんの良妻たる私には資格がないわけですが」
「原理はわかんないけど、つまり逆浸透で飲み水を作り出せるのは処女だけってことか」
「いえ処女は関係ないです」
「なんで関係ない話を混ぜた!?」
ペロッと舌を出してみせるシャロンは実にあざとい。こうすれば僕が照れるとわかってやっているフシがある。実にあざとい。くそぅ。
「関係あるのは布の上から押す部分です。葡萄はそのままでは布を通りませんが、踏んで潰すことによって、布の目より小さいものは桶へと落ち、それ以外の絞り滓が布の上に残ります」
「ということは」
「はい。塩の分子やプランクトンよりも小さい目を用意して、海水を押してやれば水だけが下に落ちるという寸法です」
なるほど、原理自体は単純だ。そして処女云々が関係なさすぎてびっくりだ。
分子とかいう耳慣れない単語も出てきたけど、ようはごく小さい穴を用意すればいいのだという理解に変わりはない。目に見えないほどに小さなプランクトンよりも小さな穴を。
………………どうやって?