僕には僕の乳酸菌
浜辺でひとしきり追いかけっこに興じたあと、僕らは連れ立って獣人たちの住居へと戻ることにした。
手加減(この場合は足加減か?)なしに逃げるシャロンに追いつけるのはアーニャくらいのものだ。当然、僕には荷が重く全然追いつけなかったのだけれど、シャロンが楽しそうにしていたので良しとする。土の地面より沈み込むせいだろうか、慣れない砂地をかけまわった太腿がじんわり熱を持つように痛い。うん、良い運動にはなったな。
住居に戻ると獣人たちは全員風呂を終えていた。皆、ずいぶんとサッパリした様子だ。
一列に並んでもらい、"剥離"で余分な水分を弾き飛ばしていく。いつも皆の髪をこうやって乾かしているから慣れたものだ。
彼らは口々に風呂の礼を述べる。お気に召したようで何よりである。なんでも、皆これまでただの一度も風呂に入ったことがなかったとか。
「そりゃあそうですよ。獣人奴隷なんぞを風呂に入れてくれるような主の話なんて、聞いたことすらありゃしません」
どうやらそういうことらしい。まあ、町の人だって基本は桶に湯を張り、体を拭いておしまいだ。日常的に風呂に入ったりする余裕があるのは貴族くらいのものだろう。
「主様はどうして我らにそこまで手を掛けてくださるんです?」
「ん? ああ、シャロンに教えてもらったんだけど、体を温かく清潔に保つことで病気にかかりにくくなるらしいんだよ」
そうだったよな? と視線で問いかける僕に、シャロンは微笑んで首肯する。
だからこそ、かつての工房の屋上に風呂を作ったわけだしな。あれに関しては、温泉に入ろうとしたアーニャたちが『獣人だから』と拒否されてムカついたから作った、という意味合いもあるけれど。
「……なるほど、我らが元気に毎日働けるようにとご配慮くだすったわけですか。ありがてぇことです」
「いやいや。そりゃあ魚を送ってくれるのは助かるけど、それよりも普通に嫌だろ、しんどいのは」
いまいち得心がいかないらしい彼と、いまいちうまく話が伝わっている気がしない僕とで首を傾げあう。隣でシャロンがくすくすと小さく笑った。
「おそらく彼らは『なぜそうしたのか』と理由を問うているわけではないんです。『なんの見返りがあって』、と疑問に思っているんですよ」
シャロンの言い分を肯定するように、男たちはこくこくと頷く。
え、そうなの? 見返り? 見返りなぁ。
「『大激震』の前に、こっちで獲れた魚をたくさん送ってもらっただろ? あれで助けられた町民もかなりいたはずだし、見返りとかそういうのはお互い様なんじゃないか」
揺れが激化し、森に入る危険が増した時期、彼らには多くの魚を送ってもらっていた。代わりに野菜や麦を送ってはいたものの、送られてくる魚のほうが遥かに多かった。
海の魚の調理なんてできる者はほとんどおらず、僕が"剥離"で鱗を取ってぶつ切りにしたものを、アーシャがスープに加工するなどして避難所で振る舞ったものだ。かなりの量を作っても毎回空になっていたし、あれで飢えをしのいだ者も多くいたはずである。
ああいったことをしていなければ、ガムレルでも民衆が飢えに堪えかね、治安が悪化したり、あるいは暴動が起きていたかもしれない。食えなくなり盗賊にまで身をやつすところだった村人たちのことも比較的記憶に新しい。ああいうことがガムレルの近辺でも起こっていたかもしれない。そして、もしも町がそんな状態になっていたら最終局面でアーシャの覚醒もなかったかもしれない。すべて可能性の話だけどさ。でも、そういう意味では獣人たちの獲った魚は、世界を救う名支援をしたといえる。
いろんなところで、いろんな物事が繋がっているのだと僕は思うよ。
「でもそれって、助かったのは主様じゃなくて、町の、他の人間なんですよね?」
「主様が得をしたわけではないんでは?」
そこはこだわるところなんだろうか。
僕を逃がすために命を張った両親に比べたら、僕は随分自分のために動いているような気がするんだけどな。
「オスカーさんは、ほら、お人好しですから。レッドスライムのときもそうだったでしょう?」
シャロンが言うと、彼らも一斉にうんうんと頷く。
「人間の中には俺らをわざわざ痛めつけて喜ぶやつらもいるってえのに、主様ときたらよぉ……」
「主様が悪いやつに利用されねえように、俺らが支えねえとな」
「んだんだ。違いねえ」
顔を見合わせ頷き合い、彼らは決意を新たにしたようだった。
僕は僕のやりたいようにやっているだけなので、そう持ち上げられるとむず痒いんだけどな。いや持ち上げられてるわけでもないのか? もしかして、騙されやすそうだと思われてる?
……なんかよくわからんが、納得が得られたようなので良しとしておこうか。
僕には僕の、彼らには彼らの納得ポイントがあるんだろう。シャロンに言わせれば『人には人の乳酸菌』だ。正確な意味は知らんがニュアンスは似たようなものだろう。
「美味い魚を獲ってきやす。さっそくお役に立ちますぜ!」と言い残し、竿や小さな槍のようなものを手に手に、彼らは崖の方へと向かって行った。
その間に、僕とシャロンはこの島へ来た本来の目的を果たすことにする。そう、転移魔道具『希望の轍・双つ星』の設置だ。
こいつを設置すると、ガムレルにある同じ魔道具との間に道が繋がれ、少ない魔力で行き来ができるようになる。
設置場所は、以前の『倉庫』と繋げていた魔法陣のあった場所を置き換えることにした。そのほうが使い勝手に変化がなく、わかりやすいだろう。
設置自体に難しいことは何もない。なんせ、魔道具自体はすでに作ってあるのだ。
あとはなるべく水平に、余計なものを巻き込んで"転移"を発生させないように間隔をあけ、不慮のことで動いたり壊れたりしないように床板へと固定しておく。その程度はべつに難しい作業でもなんでもないので、すぐに終えることができた。
「あとは魔力源の確保だな」
魔道具は、使いたいときに使用者の魔力を込めて効果を発揮するものと、あらかじめ魔石などの魔力源を用意しておいて起動するものに大別できる。前者は主に魔術師用だ。今回は魔力源をあらかじめ用意しておく必要がある。獣人たちは体質的にほとんど魔力を扱えないからな。
ひとまずは『倉庫改』の中にストックしてある魔石をいくつか取り出し、セットしておく。
ただし、これはあくまでも一時的なものだ。そのまま"転移"を敢行するよりはかなり軽いとはいえど、二点間を魔術的に繋ぎ、道を維持するためにはそれなりに多くの魔力を消費する。定期的に魔石を補充してやる必要があるだろうな。
魔石が心もとなくなったらガムレルから送るというのも手だけど、一度完全に切らしてしまったら『双つ星』自体が機能停止して送れなくなって困るし、島でも作れたほうがいいのは間違いない。
風呂も作ったことだし、リーズナル邸の屋根に広げた黒色スライム『クロイム』をここでも使うことにする。太陽の力を集めて水をお湯にしたり、余ったエネルギーを魔石に変換するのだ。
シャロンに手伝ってもらいながら住居の屋根にクロイムを敷いて、固着させていく。パッと見た感じは黒っぽい流体なので、屋根の傾斜に従って流れ落ちてしまいそうな気もするのだけれど、スライムには魔法生物としての側面もある。生成段階でその場にじっとしているようにと術式を刻んでいるため、人為的に動かさない限りはその場に留まってくれる。まあ、核が損耗してスライムが死んでしまったら、重力に引かれてべちょりと落ちてくることになるだろうけれど。
空を見上げると、眩しい太陽が天頂近い。
その光を受けててらてらと黒光りするクロイムがエネルギーを蓄えだしたのを確認したりしている間に、魚を獲りに出ていた獣人たちが戻ってきた。
2人1組になって運んできた桶やら甕の中では釣り上げたばかりの魚がまだ泳いでいる。槍のような棒で突いて獲ったやつはさすがに死んでいるが。
他には大ぶりな貝や、水の中を走り回っている虫みたいなのもいる。あれも食べるのだろうか。
「ちょうどいい時間だし、昼飯にしようか」
もちろん、反対の声は出なかった。
波音を聞きながら、焚き火を熾す。
『倉庫改』にストックしてある炭を取り出して"火炎"術式でぱぱっと着火するだけなので、楽なものだ。アーシャなら炭を調整してちょうどいい火加減を測ったりできるのだろうけど、魚を焼くのに適した火加減など僕にはわからないので適当だ。
僕が焚き火を用意している間に、シャロンが組み上げた支えに預かってきた鍋を掛けて温める。中身は肉や野菜がごろごろ入り胡椒も効いたスープである。今日この島に来る計画はあらかじめ伝えてあったので、魚の礼にとリーズナル卿が指示を出して料理人たちが腕を奮った力作で、かなりの量がある。
スープ鍋を温めている横で、獣人たちは桶の中で泳いでいる魚や貝にぶすっと木の枝を突き刺し、焚き火の側で焼いていく。これ以上の鮮度はあるまい。ふと見てみると、走り回っていた虫っぽいやつも枝に刺されて一緒に焼かれている。やっぱり食べるらしい。シャロンによるとあれは旧文明では「エビ」と呼ばれており、美味として広く知られていたとか。アーシャが聞いたら喜びそうだな。
ばちばちと炭火がはぜ、魚の焼ける香ばしい匂いが周囲に広がる。堪えかねた僕のおなかが小さく、くぅ、と鳴いた。小さかったから聞こえてないはず、と平静を装ってはみたものの、彼らが僕に向ける視線は幼な子を見るように微笑ましげなそれだ。ぐぬぬ。獣人の聴力、おそるべし。
椅子は丸太をぶった切っただけのやつを人数分並べて皆で焚き火を囲んだ。
「さささ、どうぞ熱いうちに」
自分達が獲ってきた魚が口に合うかどうかが気になるのだろう。すべての視線が僕に注がれ、若干食べづらい。なんでシャロンまで見てるのさ。一緒に食べようよ。
さっきまで生きていた鮮度抜群の焼き魚には、ほどよく脂がのっていて、こんがりとルナールの尻尾の色のような狐色の美しい焼き色が付いている。魚の焼き色に喩えたと知られたらルナールはへそを曲げるような気がするので、本人がいるところでは言わないようにしよう。
「あちっ」
木の棒を手づかみし、魚に直接歯を立てる。パリリ、と焼き色のついた皮が割れ、中から白い身があらわれた。魚特有の香ばしい匂いが鼻と喉を駆け抜ける。
はふはふと湯気を吐き出しながら噛み締めると、口の中いっぱいに旨味が広がっていく。
美味い。これは、美味いぞ。
柔らかい身には見た目通りしっかりと脂が乗っており、豊かな秋の実りを感じさせる。海水によって少し強いくらいの塩味が効いており、こればかりを食べ続けるのは少々味が濃いようにも思うけれど、今日は他にもスープとパンがあるのでちょうど良い塩梅になるだろう。
固唾を飲んで見守っていた面々に「美味い」と伝えると、彼らは喝采をあげた。出された食事を食べただけでそこまで喜ばれるとちょっと戸惑ってしまうが、彼らは一事が万事この調子なので、僕のほうが慣れるしかないのかもしれない。
そこからは、皆で大いに昼食を楽しんだ。
あれだけたくさんあった食べ物は、余すことなく腹の中へと消えたのだった。