僕は逃げてない(小声)
リーズナル邸の前庭の、少し前まで地下壕だったその場所は、今や巨大な劇場へと姿を変えていた。
広さも深さも民家をまるごと5、6軒くらい飲み込んでもまだ余裕があるほどで、来場者を大いに驚かせた。とくに地下壕の頃の姿を知る者ほど驚きが大きいようだ。いろいろと手間暇かけた甲斐があるってものだ。
壁面には『無尽』のゴーレムから毟り取っ――もとい、快く譲ってもらった白っぽい岩盤を使って強度と見栄えを確保しており、天井は透明で強度と柔軟性を兼ね備えるスライム、ガラスラ仕上げだ。
これによってある程度の明るさを確保し、夜になれば星も見える。もちろん雨も防げるし、砂や落ち葉が付いてもスライムが勝手に端っこに吐き出す作りにしたので、お手入れの手間も掛からない。
スライムを保つため、たまに魔石を食わせてやる必要はあるけど、それにしたって小粒なやつを年に1、2度程度で十分だ。
らせん階段から地下に降りてすぐの場所は、リーズナル卿からの要望で平坦になっていて、テーブルを置いて立食パーティが楽しめるようになっている。
なんでも、貴族はパーティで屋敷に人を沢山招いて、人脈作りや政治的な根回しをしたりするらしい。それにしたってナメられちゃいけないとかで、会場やら調度品やらでお金が掛かるとかなんとか。
領地と領民を守り、収益を上げつつ他の貴族と丁々発止やり合わなきゃいけない貴族社会、めんどくさすぎない?
まあ、お屋敷の庭の地下を好き放題いじらせてもらうには安い条件なので、僕としてはなんの問題もないんだけどさ。
入ってすぐの平坦なエリアの先は観客席だ。観客席は斜面になっており、離れた位置からでも舞台が見える。
肝心の舞台はというと入口から一番離れた位置にあり、一段高く、そして一部が観客席のほうへとせり出した作りになっている。こうすることで舞台と観客との一体感が生まれたり、『ふぁんさ』が効果的にできる、とか。正直よくわかってないけど、シャロンが言うならそうなんだろう、たぶん。
その、観客席へとせり出した舞台の上では、
「あのっ、今日は、そのっ! 来てくれてありがとうごじゃいましゅなのっ! ……噛んじゃったの……えへへ」
「うぉー! アーちゃんかわええーーー!!!」
「がんばれー!」
「アーシャたん! アーシャたん!」
「すっごくかわいいよ!」
白を基調としたフリルたっぷりの舞台衣装に身を包んだアーシャが、観客席からの声援を受けて、もじもじと恥ずかしそうに尻尾を揺らす。
普段おとなしいアーシャの印象からは対照的な、ふんわりしたスカートから覗く素足や、肩や首筋を大胆に出した意匠は見事に観客の心を掴んだようで、それを手掛けたヒンメル夫人は満足そうに腕を組んでうんうんと頷いている。
「うまくいきそうかい?」
「いまのところは問題ないよ。観客が思ったより多いのはびっくりしたけど」
「ははは、『歌姫』の人気は凄いからね」
「『黒剣』が言うなら、そうなんだろうな」
「ははは……ただ人気なだけなら、まだいいんだけれどね」
舞台袖でアーシャの様子を見守る僕に話しかけてきたカイマンは、どこか遠い目をして、やれやれと肩をすくめた。
なんでも、町を救った英雄『黒剣』に打ち勝って名を上げてやるぜ、とばかりに腕に覚えのある者たちから決闘やら腕試しやらを挑まれるらしく、わりと本気で困っているらしいのだ。
挑みかかる奴らにしてみれば、万の魔物には対峙できなくとも、相手がひとりの人間なら倒せそうな気がしてくるのだろう。人気者は大変だな。
アーシャの人気は、そういった物騒なものではもちろんない。
工房をやっていた頃の常連さんや買い物に行った先々の人たちが主体――のはずだったんだけど、当初思っていたよりもはるかに人数が多い。妖精亭のマスターやゴコ村の面々、この間の馬車の事故で知り合った母子などを含め、なんやかんやでこの場には100人以上が集まっている。
劇場自体は100人どころか2,300人やそこいらでは埋まったりしない程度には広いものの、そんなに人が集まるとは思ってなかったから来客用の魔道具が全然足りていない。
「ま、なるようになるだろ」
「はい。では始めましょう」
「頼む」
傍のシャロンに頷いて応えると、途端に劇場全体の明かりが落とされる。それと同時に、左右、少し高い位置から強い光がカッ! と浴びせられ、舞台に立つアーシャだけが暗闇の中で浮かび上がるように照らし出された。リリィ、カトレアの操作する大筒魔石灯である。
大筒魔石灯は、普通なら全周囲に広がってしまう魔石灯の光を一方向のみに向けるために、周囲を分厚い岩で囲ったものだ。強い光を生み出すためにそれなりの大きさの魔石を使っているが、それ以外の作りはただの魔石灯と大差ない。
暗くなることは予め伝えてあったので大きな混乱もなく、観客たちのざわめきは徐々に小さくなる。すぅはぁ、と何度か息を整えたのち、溢れんばかりの笑顔でアーシャは歌声を解き放つ。
「うぉぉおおおおおおおおおお!」
観客席から雄叫びにも似た歓声があがる。
アーシャの『熊殺しの女神』の唄にあわせ、彼らに配った魔道具が光を放ちはじめた。
「よしよし、いい調子だな」
彼らに渡した棒色灯は、持ち主の魔力形質に応じて発色を変える魔道具だ。僕が持つと濃い紫に、カイマンが持つと明るい橙色に、って具合だな。
それらが暗闇の中でさざめき、たゆたい、まるで星の海のような光景だ。その中心で光り輝いて歌を紡ぐアーシャは、さながら太陽とでも言うべきか。
きらめくアーシャが歌いながら、こちらに向けてとびっきりの笑顔で手を振ってくるので、僕も小さく手を振り返した。観客席の最前列で歓声をあげているおじさんたちから羨ましげな視線を多数頂戴したのは、気づかなかったことにしておく。
「盛り上がっていますね」
「うん。"調律"の方も問題なさそうだ」
この催しは、なにも劇場のお披露目だけを目的としたものではない。
舞台や衣装はアーシャの"調律"の神名を制御し、負担を軽減するための専用魔道具である。この劇場の舞台の上で、あの衣装を身に纏って歌う限り、アーシャの神名行使による負担は極限まで抑えられる。
"調律"の制御実験も目的のひとつではあるけれど、それは手段でもある。みんなの魔力をちょっとずつ分けてもらって大魔術を使おうというのが今回の最終的な目的なのだ。大激震の最後、大陸中に蔓延った『世界の災厄』を根こそぎ"剥離"し、この星の外へと放逐したあれの再現だな。
魔力には、違う波長のものを掛け合わせることによって威力が何倍にも大きくなる性質がある。
これだけの人数がいるのだから、僕とシャロンだけでは安定させられない長距離の"転移"術式でさえ容易に成し得るだけの魔力を確保できるだろう。ただし、それは理論上の話である。
異なる波長であればあるだけ、魔力を束ねる難度は上がる。それこそ、厄神龍との戦いの折にも一度暴発しているくらいだ。あの時はそのまま災厄の泥に墜落して、そりゃもう大変な目に遭ったもんだが……。
ともあれ、波長の異なる魔力を無理に束ねようとすると、力の奔流を抑え込めずに暴発する。それを可能にしてくれるのがアーシャの"調律"である。アーシャの歌声を介して"調律"された魔力は転移魔道具『希望の轍・双つ星』に流し込まれ、魔法陣の上で待機する僕とシャロンを"転移"させてくれるって寸法だ。
ちなみに、帰りに関しては『双つ星』のもう片割れを"転移"した先に設置して二点間を魔術的に繋ぐことにより、魔石や僕の魔力だけでも十分に賄える計算をしている。そもそも『双つ星』はそのために開発した魔道具だしな。
目的地は、いつぞやレッドスライムと激戦を繰り広げた、名も無き島である。
あそこに残してきた獣人たちの様子も気に掛かるし、塩や魚の交易路も復活させたい。
……なんて考えている間に。
いつのまにやら、観客たちの視線や、すぐ近くにいるカイマンの視線が僕のほうへと集中しているではないか。
「え? ……え? なに? なんかあった?」
じぃっと見つめてくるというよりは、ちらちらと窺うというか、こそこそと噂しているというか……。
僕がこのあとのことを考えている間に何があったというのだろうか。
「アーシャさんの歌を聞いてみたら、たぶんわかりますよ」
「歌?」
シャロンまでもが苦笑するように言ってくるので、僕は舞台の中心で歌うアーシャへと視線を戻す。
意識を逸らしている間に『熊殺しの女神』の唄は終わっていたらしい。
いま、アーシャが歌い上げているのは、おそらく僕が初めて聞く曲だった。どこか切ない曲調で、大好きなあの人が振り向いてくれない悩みを綴った、恋の唄――
「うぇっ!?」
途端、流し目がちに僕の方を見たアーシャと目が合い、ドキリとした僕の口から素っ頓狂な声が漏れた。
「そろそろ覚悟の決め時じゃないですか? ねぇ、私たちの、だ・ん・な・さ・ま?」
舞台上で歌い続けるアーシャからも、こてん、と小首を傾げるシャロンからも目を逸らし、ついでに苦笑いしながら生暖かい視線を投げかけてくるカイマンに顰め面をくれてやる。
『希望の轍・双つ星』に充填された魔力は――よし、もう十分だな! うん、べつに逃げるわけじゃないよ、もともと島に行くのが目的だったからね! そういう計画だったからね! うん。逃げるわけじゃないってば。それじゃ、"転移"!
――そうして、僕とシャロンは起動した『双つ星』が生成した、黄金に輝く光の帯を潜り抜ける。
途端、頬を撫ぜるのは、少しばかり湿り気の感じられるどこか生臭い空気。潮風だ。
座標計算その他はシャロン任せだったけど、一度行ったことのある場所なら問題ありません、と胸を張っていただけあって、呆気なく"転移"は成功したようだ。地面の下とか海の上とかに出なくて一安心である。
ひとまず、ここまでは計画通りだな! いやぁ、よかったよかった。
「オスカーさんのへたれ」
「べ、べつに逃げてないし!」
ころころと、鈴を転がしたように笑うシャロンの口撃からは、"転移"をもってしても逃げられないらしかった。