金狐は宵闇を駆ける
新年明けましておめでとうございます!
2022年も土曜日更新を頑張っていく所存です、と言いつつ初っ端から遅れています。すみません、すみません…
――はじめは、ただの違和感だった。
気のせいとも思えた些細な違和感は、日を経るごとに大きくなって、すぐに『気のせい』で済ませられる範疇を超えた。
ルナールは思った。ああ、ついにその時が来たのか、と。
どれだけ過去の行いを悔やもうとも。
どれほど穏やかな日常を願っても。
いずれ、報いは訪れる。
報いは受けなければならない。そういうふうに、できている。
それだけの行いを、してしまったのだから。
こき使われている獣人奴隷を解放して――『いいこと』をしているつもりで、実際は同胞を死に追いやっていた。
理想に目を輝かせた仲間たちも、憎まれ口を叩き合ったともだちも、姉と慕った人さえも。みな、帰らぬひととなった。
――否。ただ命を落としただけではない。生きたまま心の臓を抉られて、おぞましい道具の材料にされたのだ。
知らなかった。騙されていた。それは、そうだけど。
ルナールは、知ろうとしなかった。なにかがおかしいという同胞の声に耳を塞ぎ、どこかざわめく己の心からさえも目を逸らしてきた。
だというのに。自分ひとりだけが生き残った。生き残ってしまった。
人間の庇護下に収まり、温かい食べ物と柔らかい寝床を与えられ、今もこうしてのうのうと生き続けている。
そのことに、ルナールは拭い難い後ろめたさを感じていた。
それゆえ、だろうか。
その報いが現実のものとなったとき。
ルナールの心にあるものが、恐れや諦観ばかりでなく、少しばかりの安堵が含まれていたのは。
「食べない、の?」
「ん……」
山羊の乳から作られた温かいスープに、柔らかく煮込んだ野菜と大ぶりの肉がごろりと浮かんだそれを、ほんの何度か口に運んだきり、ルナールの手は止まってしまっていた。
向かいで同じものをとっくに食べ終えていたラシュは心配そうに眉を寄せ、こてん、と首を傾げる。その視線から逃れるように、ルナールは俯きがちに目を逸らした。
「好きじゃない味、だった?」
「いや……そういうわけではないんじゃが……」
「あつかった? ふーふー、してあげようか」
言うが早いか、ずいと身を乗り出したラシュは木匙に具材をひょいひょいと掬いあげる。
「ふー、ふー……はい、どうぞ」
「……」
「たべない、の?」
「ん……」
「あ。わかった。やりなおす。……はい、あーん」
おおかた、彼の敬愛する姉貴分と兄貴分のやりとりを真似たであろう所作で口元に差し出された匙から、ルナールはぷいと顔を背けた。
「……わらわはもういらぬ。欲しいなら、ぬしが食べるといい」
「むぅー」
「ぴぴぴ、ぴぴぴぴぴ」
ルナールは耳をぺたんと折りたたんで、何の変哲もない壁をじっと見つめ続けた。そこに何かがあるわけじゃない。ただ、自分のせいで悲しそうな顔をするラシュを見たくないだけだ。ついでに、抗議するように囀るトリも意識から追い出す。
ラシュは本来、よく動き、よく食べ、よく眠る。
いつもなら朝夕の食事をさらに2回に分け、1度目はオスカーたちとともに、2度目はルナールとともに食べている。そのぶん1回あたりの分量は減らしているのかもしれなかったが、それでもルナールと同じか、より多いくらいには食べる。ルナールにしてみれば、その小さな体のどこに入っているのやらと驚き呆れるばかりだ。
しかしこの数日、ラシュはルナールから片時も離れようとしない。日課だった人間たちとの剣の鍛錬もしていなければ、ルナールとともに食べる分だけなので食事量も少ない。普段なら、放っておいたらすぐに遊び疲れて昼寝してしまうのだが、それもない。まあ、その代わりに、こっくりこっくりと首が落ち掛けて白目を剥いていることはあるけれど。そういう時でも、ルナールが少し身動きでもしようものならラシュもびくりと身を震わせ、目を瞬かせるのだ。
ラシュは、ルナールの様子が常と異なることを察知しているのだろう。ぽぇーっとしているようでいて、なかなかよく見ているものだとルナールは内心で苦笑する。
でも。だからこそ。ルナールは彼の前から消えてしまいたかった。
『報い』を受けて醜くなっていく自分を見られたくなかった。
そしてなによりも、ルナールのことで悲しむラシュを見ていたくなかった。
ルナールにはもう食べる気が本当にないことを察したのだろう。
残されたスープをラシュが黙々と腹に収める音を聞きながら、ルナールは小さく息をついた。それでいい。どうか自分の分も生きてほしい。そんなことを、身勝手に願いながら。
そのまま一言も声を交わすことなく、ふたりと一羽は屋根裏へと引き上げた。
らっぴーはルナールの態度を咎めるようにぴぇぴぇ言いながら突ついてきたけれど、無視していたらやがて諦めたようで、無言で突ついてきた。いや諦めても突つきはするんかこのトリ。やめんか。
反撃する気力も湧かないのでそのまま寝床に横になる。
少しだけ間を置いて、ラシュも横になる気配がした。
「おやすみ、ルナール」
「……おやすみじゃ」
「また明日、ね」
「……」
明日の約束には声を返せぬまま、ルナールはラシュに背を向けて目を閉じる。
『報い』の原因はきっと、あの祭壇だ。
『世界の災厄』の魂を封じていた、あの祭壇。
世界に穿たれた孔を再封印するため、ルナールはあの悍ましい泥に身を沈めた。
そこで命を落とす覚悟――いや。覚悟なんて大層なものは後付けで、ほとんど衝動のままの行動だったけれど――再封印を成したあの場では、ラシュによって泥の中から引っ張り出されて命を拾った。
代償に、セラフィから太陽に喩えられた黄金色の一部を喪って。
しかし。代償がそれだけで終わりなどという決まりはなかったのだ。
深夜。ラシュの呼吸が静かになり、深い眠りについたのを見計らい、ルナールはそぉっと寝床を抜け出した。
枕元に置いていた、赤と青の飾り布をぎゅっと握りしめる。特殊な術式は何も刻まれていない、ただの布。セラフィから預かったままの青と、ルナールの赤。ただそれだけを持って。
屋根裏部屋は歩くたび、至るところで軋む音を発するが、どこをどう歩けば極力足音を殺せるかはすでに熟知している。
窓は透明なスライムで塞がれてしまい、星空が見えるものの外に出ることはできない。
ルナールはそっと縄梯子を掴み、音を立てないよう気をつけながら階下へと滑り降り――むぎゅ。
「んな!?」
どういうわけか今日に限って、らっぴーは縄梯子の下を寝床としていたらしい。慌てて自分の口を抑えても、もう遅い。
らっぴーが鋭い鳴き声を発したならば、ラシュはすぐに目覚めるだろう。
「……のう、トリよ」
「ぴ」
「ぬしも、主さまを――ラシュを悲しませたくはないじゃろう」
誰にも気づかれずに去れるなら、それに越したことはなかった。
だというのに、魔導機兵たちの目を掻い潜るより前の段階で躓いてしまった。
ルナールには、もう本心を語って聞かせるよりほかの道は残されていない。
「わらわは、おそらく……もう、永くない」
姿を眩ませて人知れず息絶えるほうが、だんだん弱っていく様を見せつけるより、ずっとラシュの傷は浅いはず。だから、出ていくと。
『報い』を受けて弱っている証拠に、抜け落ちたそれも見せた。
「ぬしのことは、正直、あまりいけすかぬトリじゃと思っとる。突つきよるし。しかし同時に信頼してもおる、主さまを殊更に悲しませる真似はすまいとな」
「ぴぴぴ……」
甲高く夜を引き裂けるはずのさえずりは、ルナールの意図を汲むように小さく抑えられていた。
「……感謝するのじゃ」
「ぴ」
「ぬしも、達者でな」
「ぷぅ」
背を向けたルナールのふくらはぎに、らっぴーの嘴が触れる。
いつもであればそれなりに痛いそれは、どこか労わるような突つき方で。それでもちょっと、痛かった。
そのままルナールは誰に見咎められることもなく廊下を進み、玄関広間を横切って、使用人用の勝手口を潜ってお屋敷の外へと出る。
お腹は減った。
お金は持っていない。
しかし。食べ物も、金も、死にゆく身には不要なれば。
持っているのはただふたつ、赤と青のリボンだけ。
それを一部色を喪った金の髪に結えつけ、完全に両手が空いたルナールは、リーズナルのお屋敷を囲む壁の北側をよじ登った。お屋敷からは樹木が邪魔で見えづらく、さらに木から飛び移ればいいので壁を越えやすい。
そうやって壁のてっぺんに腰掛けたところで、影が――否。光が射した。
「こんな時間にお出かけですか。レレレのレ」
蒼い光に照らされて、観念して振り向いた先。
音もなく滞空し、こちらを見下ろす女神の姿を認め、ルナールは深く息を吐いた。顔をそっぽに向け、不貞腐れたように返事をする。
「ちょっとした夜遊びじゃ。寝付けんでの」
「やはりそうですか。私も同行しましょう。私もオスカーさんの胸板に頬擦りし続けていたら『寝づらい』と言われてしまったんです」
「それは普通に寝づらいじゃろ」
「ぎりぎりを攻めすぎたかもしれません」
それとは一緒にはされたくないな、とルナールは素直に思った。
ただまあ……口では何と言ったところで、監視が付けられていたと。そういうことだろう。
「せっかくの申し出じゃが、ひとりで居たい気分なんじゃ。そっとしておいてくれんか」
「わかりました。いいですよ」
「いいのか」
「はい。私は私で勝手にします」
「……そうか。ではの」
らっぴーと違い、魔導機兵に言いくるめは通じない。そう思っていたルナールの予想を裏切り、シャロンはすんなりとふたつ返事で応じた。あまりにあっさりとしすぎていて、思わず聞き返してしまったほどだ。
他のふたりの堅物と違って正妻はどこかしら変だというので、その変さがいい方に働いたのだろう、と若干失礼なことを考えつつ、ルナールは手をひらひら振って壁の向こうへと身を翻すことにした。
世話になった恩はあるが、ここで時間を食うわけにはいかない。見逃してくれるというなら、素直に去るべきだと判断したのだ。
向かうは、門が破壊されたという東通りだ。
町の中の貧民街では見つけ出されるかもしれないが、宵闇に紛れて町の外に出てしまえば、足取りを追うことは出来なくなるだろう。
ぺた、ぺたと寝静まった夜の町を小さな足音がゆく。
狐人の視力をもってすれば、たとえ月のない闇の中でも道を見失うことはない。いわんや星空またたくこんな夜に、ルナールの足を阻むものは何もなかった。
ぺた、ぺた。
ぺた、ぺた。
ぺたたたたたたたた……。
「いや何でついてくるんじゃ、ぬし!」
阻むものはなかったけれど、ついてくる者はいた。
走っても完全に頭上を追尾してくる蒼に向けて、ルナールはついに声を張り上げる。酔い潰れて道で寝ていた酔っ払いが唸り、迷惑そうな顔をしてきょろきょろしている。深夜に叫ぶのはご近所迷惑である。それはごめん。
「なんだかんだ、と言われましても。答えてあげるが世の情けでしょうか?」
「わらわにわからぬ振りをするでない。そういう掛け合いは小僧とやるとよいじゃろ」
「それがですね、最近オスカーさんにもスルーされるんですよね」
「知らんがな……」
全く悪びれる様子のないシャロンがふわりと舞い降りて、ルナールはがっくりと肩を落とす。
「なんでも何も、先ほど言ったじゃないですか。『私は私で勝手にします』と」
「勝手についてくるという意味だとは思わんじゃろ……」
「意味まで聞かれませんでしたからね」
「そういうの、なんて言うんじゃったか。へり、へりつつ?」
「へそくりじゃないでしょうか」
「なんか近いようで全く違う気がするんじゃが」
「すみません噛みました」
「だから、わらわにわからぬ振りをするでないわ」
最初から、逃がす気などなかったのだろう。もうどうにでもなれという気持ちで、ルナールは深く溜め息をついた。その瞬間を、見咎められる。
「歯が抜けたんですね」
ばっ、と口を抑えても、もう遅かった。
闇の中でなお輝くシャロンの蒼い眼差しは、ルナールの口元をしっかりと見据えている。
『報い』で抜け落ちた、不恰好な孔を。
「……これでわかったじゃろ。数日より前からぐらついておったが、今日の食事で一本。もう一本も、もう間もなく抜け落ちよう。他にもむず痒い感覚がある」
「それで家出をしたんですか?」
「家出……まあ、そのようなものじゃな。弱っていく姿を見せとうなかった」
死にゆく姿を見せたくない想いのほうが、孤独に息を引き取る恐怖を上回ったのだ。
溜め息が欠けた歯の隙間から漏れ出て、それがなんとも憎らしく感じられる。
「おかしいと感じた時点で小僧にもそれとなく診てもらったんじゃがな。特に悪いところは見当たらん、しいて言えば運動不足じゃと言われたのじゃ。あやつほどの遣い手に察知できぬ異常であるなら、癒す手立てなどあるまいよ」
だからこそ、ルナールはこれが『報い』だと――『世界の災厄』復活計画の寸前で裏切った自分への罰なのだと解釈した。
やがて全ての歯や毛が抜け落ち、醜く、息を引き取るのだろう。何も返せぬままで。少年の心に深い傷だけを刻み込んで。
自嘲のような、懺悔のようなルナールの告解。人知れず去ることを選んだ、動機の開示。
それを聞いたシャロンはと言えば、なんとも微妙な表情をしていた。
「ええとですね。まず、乳歯というものがありまして」
……。
…………。
にゅうし。
えいきゅうし。
なるほどのー……いやわからんて。知らなんだらびっくりするじゃろ、これ。
……。
…………。
はいおしまい!
この話おしまいね! ええい突つくなトリ! わらわが悪かったと言うておるじゃろう!
『歯が抜ける』のが正常であることを知らないルナールと、それを知らないことを知らない周りの話でした。
ラシュはアーシャの歯の抜け変わり時期を覚えているので、歯が抜けることは知っています。
らっぴーは知らない。というか歯がない。鳥なので。なにそれ取れるの、こわ……くらいに思っています。
シャロンは、ラシュから頼まれていたのでルナールの動向には予め気を配っていました。ただ、『寝づらい』と言われたのも本当です。明日は5割くらいにセーブして限界値を見定めようとか思っています。