僕と責任の所在
「女神様がいらっしゃったなら、もう安心だな! この子も安らかに眠れることだろう」
「良かったわね」
シャロンが空から舞い降りたことで、ざわめき、どこか浮ついた空気の蔓延した野次馬は、蒼白になり感情が抜け落ちた顔の女性に声を掛ける。口々に「良かったね」と。女神に看取られるのなら死後の世界では安泰だと。励ましや慰めを口にする。誰も、こんな大怪我をした子どもが助かるなどとは夢にも思っていないのだ。
己や自身の大切な人に降りかかった不幸ではないから、簡単に残酷な言葉を掛ける。悪意どころか善意から言っていたりするので余計にタチが悪い。
「……」
良いわけがあるか。とは思うものの、そんな言い合いをして捨てる時間はない。
時を経るごとに、命の灯は弱まっていく。
刺激を与えないよう極力気を付けながら、大怪我した子どもを"念動"で持ち上げる。
野次馬に囲まれたままでは、満足に治療もできやしない。
「落ち着いて。彼、凄腕なんだから。きっと大丈夫だから、ね? さ、私たちも行きましょう」
「っ……はい……」
茫然自失な女性の背中をさすり、リジットが優しく声をかける。
野次馬をしている連中の誰もが助かるとは思っていなくても、少なくともリジットは僕の腕を信じてくれているらしい。
野次馬がついて来ないよう、威圧感を放ちながら口先で丸め込んでいるシャロンの声を背中に聴きながら、マスターの先導で一部を貸し与えられた店内スペースにそお〜っと子どもを横たえた。
「なにか必要なものがあれば言ってちょうだいな」
店を切り盛りしているおばちゃんは、人の良さそうな柔和な顔を沈痛に歪め、抱いていた赤子を女性に受け渡した。
「生後102〜110日ほどといったところでしょうか」
「小さいな……」
あどけない顔で眠る赤子を腕に抱き、女性の両の目からぱたり、ぱたりと涙が落ちた。その背をリジットが優しく支えている。
助けを求めていた女性はやはり、馬車に巻き込まれた子どもの母親だといい、事故が起きた時には店先で金品のやりとりをしていたところだったという。
父親は働きに出ており家には誰もおらず、いろいろなものに興味を持ち始めた子どもを置いたまま家をあけるわけにもいかず。母親がひとりで赤子を抱え、子を連れて買い物に出た最中の事故。
「わたっ、わたしが……ほんの、ほんの少し目を離したばっかりに……! ごめん、ごめんね、ウル……」
泣き崩れる母親を横目に、一通りウルという子の容態を確認した僕は深く息を吐いた。
状態は、一言で言えば悪い。それも、かなり。
決戦後のカイマンもそりゃあ酷い有り様だったけど、あいつは大人の男だ。幼な子とは元々の体力が違う。
大人にとっては数日寝込むくらいの病気でも、子どもの命は簡単に消し飛んだりする。それだけ繊細ってことだ。
意識のない幼な子は、大量出血によって全身から血の気が失せ、もう呻く気力も残っていない。
馬車の車輪に巻き込まれた時に胸が潰れたのだろう。折れた肋骨が太い血管を裂き、臓器に突き刺さっている。
刺さった骨がそのままになっていたのは、この場合幸運だった。何かの拍子でこれ以上深く突き刺されば心臓が止まっていたはずだ。また反対に、蓋の役割を果たしている骨が抜けるようなことがあったなら、今以上に出血していたに違いない。
どちらの場合でも、僕らが到着するまで保たなかったことは確実だ。
「……よく頑張った、えらいぞ。治してやるからな、絶対に」
血の気のない、つめたい額を撫でる。
固唾を飲んで見守る母親が嗚咽を漏らし、その腕に抱かれている赤子がぐずり出した。
「気休めじゃないわよ、あれ。あいつは魔道具オタクだし女心もまるでわかってない朴念仁だけど、やるって言ったときは本当にやる凄いやつなんだから。だから、信じて待ってて。ね?」
「……はい……はい……っっ!」
おいリジット、励ましにしては余計な罵倒が混じってる気がするぞ。なんて言ってる場合じゃないか。
「シャロン」
「はい。いつでもどうぞ」
僕の差し出した手のひらに、シャロンの指先が重なった。
右眼の"全知"が再び熱を帯びる。
「それじゃいくぞ、"紫電"――!」
"全知"の権能とシャロンの協力があって初めて成り立つ独自魔術、"紫電"。
発動した途端、世界すべてがわずかに色褪せる。僕の体感では時間が引き伸ばされたかのように感じられるそれは、知覚や思考といったものをシャロンの演算能力を間借りする形で実現している。
感覚が鋭敏になっているということは、とりもなおさず痛覚も増しそうなものだけれど、右眼の燃えるような暑さはかなり抑えられているようだ。おそらく、シャロンが痛覚を一部遮断してくれているのだろう。
痛みは体が壊れないためのサインだから完全に切ってしまうとまずいのだろうけど、かわりにシャロンが見守ってくれているのだし、いよいよとなったら止めてくれるだろう。
僕の片手はシャロンと繋ぐために塞がり、もう片方の手は道具を出したり加工したりで忙しい。
こういう場合は魔力で編んだ極細の指先を無数に展開し、対応にあたる。それらの操作を行うには微細な魔力制御と、いくつもの思考を並行させる必要があり、まさに"紫電"の本領が発揮される舞台ともいえる。
"治癒"魔術は本人の治そうとする力を魔力で補助してやるもので、死にかけるほどの大怪我を治す力はない。そもそも、死にかけている時には補助しようにも『治そうとする力』自体がものすごく弱い。やらないよりはマシだけど、余命が少し延びるかどうかといったところだ。
その点で言えば、どうあっても助からないと判断した野次馬連中の考えもあながち間違っちゃいないのだ。ショックを受けている母親にわざわざ言う必要は微塵もないけどな。
まずは折れた骨を刺さっていた臓器から慎重に引き抜く。
それまで蓋の役割を果たしていた骨がなくなり、穴から溢れ出そうになる血液を"結界"で押し留めている間に、チュラ軟膏を患部に薄く貼り付けていく。
チュラ軟膏は、貼り付けた箇所に治癒力向上術式を作用させ続けるほか、患部を覆うことで保護する役割を持つ医療用スライムだ。”治癒”が付与された包帯みたいなもんだな。
スライムに内包した魔力が尽きたらそのまま溶けて体に吸収されるようになっている。『治癒スライム軟膏』だと名前が長いので『チュラ軟膏』ってことになった。黒く見えるけど、薄く伸ばして光に透かせば濃い紫色だとわかるような色をしている。
これは大激震で大怪我をしたカイマンに使おうと思って研究開発したものだけど、完成をみるよりに先にあいつの容態が快復したのもあり、他人に使ってみるのはこれが初めてのことだったりする。
自分の体に貼り付けて効果検証はしているから効果のほどに不安はないけど、体の表面に貼り付けたら痣みたいに見えるのが難点といえば難点で、女性陣からのウケはいまいち良くない。
今回はこのチュラ軟膏を、破れた臓器と、折れた骨の継ぎ目、腹部の裂けた傷口に使う。
適宜、リジットの用意してくれた湯で血を洗い流したり患部を清めつつ処置を続ける。
他にも、圧迫されて断裂した筋肉を補修したりと手を施さないとならない箇所が多い。
それらに一通り対処し終えたところで”全知”と”紫電”を解除し、ようやく一息ついた。
はたから見ている分には見る見るうちに傷口が塞がっていくように見えたかもしれないけれど、集中して繊細な作業をいくつも同時並行していただけあって、疲れとともに頭痛が一気に押し寄せてくる。
額に浮いた汗が頬に伝ってくる前にシャロンが拭き取ってくれた――けどそれ嗅ぐ必要あったか?
「ひとまず大きな傷は塞いだけど、血が足りなさすぎるな」
流れ出た血液は、傷を塞いだところで戻ってくるわけではない。
カイマンの腕の時のように培養技術で増やすこともできるけど、今この場ですぐに増えるわけでもない。
ムー爺のゴーレムの手足みたいに、そこらへんの素材からボコボコと血を生み出せたら便利なんだけどな、と一瞬考えたものの、ぐじゅぐじゅっと血を生成するゴーレムはあまりに見た目が悪すぎるので没案に――するのもちょっと勿体ないかな。保留しておくことにする。
となると、誰かから血を抜いて移すしかないんだけど――。
「合わない血を移すと駄目なんだよな」
「はい。この場で血液型が一致するのはそちらの女性と赤子、あとはオスカーさんだけです」
さすがに赤子から血を抜くわけにはいくまい。
となると母親か僕かってことになるけど、母親は我が子が心配なあまり、今にも倒れそうなひどい顔色だ。じゃあ僕の血を移すかな? という考えには即座に『待った』が掛けられる。
「オスカーさんの輸血なんて羨ましい、というのを差っ引いても推奨できかねます」
「なんで?」
もちろん前半部分ではなく後半部分への疑問だ。
「魔力濃度が高すぎます。高い確率で御しきれず、体内で爆発します」
「爆発する」
「はい。爆発します」
ええ……僕の体の中、どうなってんの。
森に入れば魔物からさえも怯えて逃げ惑われたし、なんならグレス大荒野に行ったときでさえ、ほとんど魔物と遭遇しなかったほどだ。
「あの……」
僕が自分の体の現状に狼狽していると、控えめな声が掛けられた。
見ると、赤子を抱いた母親が決然とした様子でこちらを見据えている。顔色は依然としてひどいままだが、どことなく、そう、覚悟を決めたかのような。
「わたしの命でこの子が助かるのであれば、どうぞ――使ってください」
震える唇から紡がれる言葉は、母の愛そのものだった。
瞬間。僕の脳裏に、あの日の父と母の姿が過ぎる。
僕を逃がすために多勢の蛮族に勇ましく立ち向かった両親。
そして――”災厄”に再現された魂だけになろうとも、最期まで僕を守って消滅していった、ふたり。
この母親とはまるで似たところなんてないはずなのに。
「わたしが、ちゃんと見ていなかったせいで、ウルは……この子は、ひどい目に遭ったんです。……わたしのかわりにこの子が生きられるなら。お願いします」
深々と下げられる頭は震えている。覚悟があろうとも、恐怖がなくなるわけではない。
子育てで忙しく、手入れする暇もないのだろう。やや傷みが目立つ髪。
「血を分けてもらうだけだ。死ぬわけじゃない。それに、あんたのせいじゃないだろ」
この人は『もし、自分が目を離さなければ』と己を責めているし、無責任な野次馬もそう言っていたけれど。赤子をだき抱え、常に幼児の手を繋いだまま買い物をこなすのは物理的に不可能だ。人間には腕が2本しかないのだから。増やそうとしたらカイマンには嫌がられたし。
「坊主の言う通りだよ、お嬢さん。あなたのせいじゃないし、誰が悪いというわけでもない」
僕の足りない言葉を補うように、マスターが渋みのある声でゆっくりと声をかける。
「この子が飛び出してきたときに止まれなかった馬車が悪いわけでもない。往来は混雑していて、子どもは見えないだろう。仮に見えたとしてもすぐに止まれるものでもないし、無理に方向を変えたら別の人が事故に遭う。じゃあこうなることをわからず突っ込んだ子どもが悪いか? それも違う。子どもってのはうろうろするものだし、気になるものがあると飛んでいく。そのうえ、何が危ないかを知らないときた。とはいえ知らないこと自体は別に悪いことではないだろう」
「……」
わずかに上げられた女性の顔には、再びじわりと涙が滲んでいる。
「じゃあ、子どもが飛び出すのを止めてくれなかった往来の人たちが悪いか?」
「……いいえ」
「そうだな。止めてくれたらもちろん良かったに違いないが、そうじゃなかったからといって責められる謂れもない」
じゃあ町に馬車が増えるような政策をとった領主が悪い、などと言い出せばもう言いがかりでしかない。
誰のせいでもないし、誰が悪いわけでもない。強いて言えば運が悪かった。
「だからそう自分を責めるなよ。あんたのせいじゃないのにあんたが自分を責めてたら、この子だってつらいだろ。自分のせいで母親が苦しんでる、って」
さらに言えば、自分を生かすために母が命を落とすなんてことがあれば、その子の人生に影を落とすのは確実だ。
その覚悟は尊いものだけれど、遺される側は結構複雑なんだぞ。この僕が保証する。
「オスカー……」
リジットの視線が僕を気遣い、シャロンが僕と繋いだ手にわずかに力をこめる。どうやら心配させてしまったようだ。
「ほら、そんなことより血を寄越せ」
「あなたねえ……もうちょっとあるでしょう、言い方とか」
「そうですよ、オスカーさん。こういう場合は『血ぃくれにゃー』って言うといいです」
「なんだそれ、アーニャっぽいな。まあいい、わかった。ほら、そんなことより血ぃくれにゃー」
「なんかこう……締まらないことこの上ないわね」
少しばかりの気まずさを振り払うように血の供与を求めた僕にリジットが苦笑いし、シャロンがそれを混ぜっ返す。
相変わらずひどい顔色ではあったものの、母親の顔にほんの少しだけ笑みが戻ったのを認め、僕は内心で深く息をついた。
こんな小さな笑みではなく満面の笑顔を取り戻すためには、あともうひと頑張りだ。
現代であれば車側の過失になりますが、道路交通法とか無いですからね…
仮に車側の過失が認められたところで失われた命は戻らないので、安全運転や事故防止を心掛けたいものです。
輸血は一般化していないどころか血液型も知られていないので、お母さんには邪法か何かだと思われていますが、縋れるならば縋りたい気持ちでした。