僕と事故
エタリウム諸島連合王国からの奇襲部隊を退けてから十日と少し。
スパイの、えっと……なんて言ったっけ。スーパーなんとか……あの幸薄そうな男と交わした約束の期限までは特段やることもなく、今日はリジットに連れられて町に繰り出している。
「また新しいお店ができてるわね。行ってみましょ」
「はいよ」
はぐれないために、と繋いだ手をぐいぐい引きながらリジットは朗らかに笑う。
トレードマークの一本に結えた黒い髪が、陽を浴びて艶やかにきらめいた。
連れ出されはしたものの、僕にはとくに目当てのものがない。リジットも似たようなもので、僕らはぶらぶらと散策を楽しんでいた。
なんでも、セルシラーナと出歩くための下見だとかどうとか。
絶賛引きこもり娘と化しているセルシラーナは、あれで一応亡命して来ている姫なので、暗殺だとか誘拐だとかの危険が常につき纏う。
かといってお屋敷から一歩も外に出られないでは息が詰まる――いや、本人は全然気にしてなさそうというか、リーズナル邸でのごろごろだらだらを満喫しているっぽいのだけれど、リジットは自由に外に出られないセルシラーナのことを不憫に思っているらしい――ので、比較的安全な道程や店を下見しておく必要があるのだとか言っていた。
シャロン、カトレア、リリィの魔導機兵三人娘を護衛として連れて行けば、どんな暗殺者だろうと退けられるとは思うけど、持ち前の美貌にプラスして『熊殺しの女神』として変に知名度の高い彼女らは、やたらと目立つ。シャロンたちを連れていては落ち着いて買い物はしにくいだろう。
ガムレルの町は今や中央通りだけでなく、どこもかしこも大賑わいだ。
魔物の軍勢による大打撃からの復興までの特別税制という名目での他に類を見ない大胆な減税は、商人たちの商魂をいたく刺激するものであったらしい。
リジットとふたり、目新しい店を中心にひやかしつつ、露店を覗いたり屋台で買い食いをしたりブラついていると、見知らぬ男にまじまじと顔を覗き込まれた。なんだ?
「いたいた! おぉい、旦那ぁ! いましたぜぇ」
男が声を張り上げる。周囲の人たちもなんだなんだとこちらをチラ見してくる。なんだ?
「……オスカー。あなた、また何かやらかしたの?」
「なんだろ。正直、身に覚えがありすぎて逆に絞れない」
「あなたねえ……」
リジットは呆れ顔だけど、僕の言い分も聞いてほしい。
だって出歩く先々で何かしらトラブルに遭遇するんだよ、なぜか。仕方なくない?
男に呼ばれ、やや息を切らせてやってきたであろう『旦那』は、僕の見知った相手だった。
「やれやれ、歳はとりたくないものだな……」
「あれ、マスター。ひさしぶり、――ってほどでもないか?」
「お知り合い?」
「うん。行きつけの店の店主だよ。リジットは会ったことないっけ」
「ええ。その、はじめまして……?」
「ああ。はじめまして、お嬢さん」
リジットが困惑混じりに挨拶をした彼は、かつて僕らの工房があった場所の斜向かいに『妖精亭』という料理屋を営んでいるおじさまだった。
普段は大人の落ち着いた佇まいを崩さない彼なのだけれど、今日に限っては髪が、なんというか、すごく前衛的な寝癖みたいな形をしている。
風もないのに髪が動いて見えたので、もしやと思い、右眼の"全知"の権能を少しだけ解放してみると、彼の肩の上に跨りながら髪を思いっきり引っ張る幼女の姿が視えた。
シアンという名で、3、4歳くらいの幼女の見た目をした妖精だ。もっとも、幼いのは見た目だけで年齢は不詳である。そもそも妖精に年齢という概念はあるんだろうか。
今日は機嫌が悪いのか、しかめっ面でマスターの髪を引っ張り続けている。地味に痛そうだ。
僕も"全知"を使わないと視えなかったように、シアンは普通の人の目には映らない。
シャロンは持ち前の各種センサー類で、アーシャたちは獣人特有の優れた感覚によって『何かがそこにいる』ことくらいは察せるらしいのだけれど、視えてないのは同じだ。
マスターとは初対面で、肩に乗るシアンも視えていないリジットからすれば、髪の毛が爆発してうごめいている謎のおじさんだ。困惑して当然だな。
「こいつで間違いねえですよね、旦那!」
「ああ、ご苦労だった」
マスターが指で弾いた銀貨を、男はいい笑顔で受け取る。
覚えている限りではこの男とは面識がないはずなんだけど、なにを目印に僕を探していたんだろうか。
シャロンやアーニャみたいに印象の強い人が僕の周りには多い。
その点でいえば、リジットもこの辺では珍しい黒髪であり、人目を惹く。
キャラが薄い仲間だと僕が勝手に思っていたラシュも、頭にらっぴーを乗せたまま通りを歩き回るので、全然キャラが薄くないことに最近気づいた。
だから、雑踏から僕を見つけたこの男が、なにを手がかりにしていたのかはちょっとばかり興味を惹かれる。
「へへっ、毎度! 『女神様や獣人の嬢ちゃんなんかの綺麗どころをはべらせてるけど当人は至って地味な少年』なんて、そう何人も居やしませんからね」
「おいマスター。どんな人の探し方してやがる」
マスターは無言でスイっと目線を逸らした。
ちょっと喜んだ僕の気持ちをどうしてくれる。あとリジット、吹き出さなかったのは評価するけど肩が震えてんぞ。
「そんなことより、緊急だ。若人の逢瀬を邪魔するのは気が引けるが、他にどうにかできそうな者がいない」
「ち、ちがっ!? おっ、逢瀬とか逢引きとか、そういうのじゃないんでっ!」
マスターの視線が、僕と繋いだままになっていた手に向けられているのに気づいたリジットは、しゅぱっと手を離して間合いを取る。さすが剣士。一息で間合いを詰められる程度に遠すぎず近すぎない、絶妙な間合いだ。けど、はぐれるぞ。
歳はとりたくない、などと嘯いていたマスターの健脚ぶりは目を瞠るものがある。
雑踏の間をわずかの減速もなく、縫うように走り抜けていく。
同じように地上でまともに追いかけてははぐれてしまう。さすがに町中でダビッドソンを出したら『魔物が出た』と騒ぎになるのが目に見えているので、僕はリジットを背負い、宙靴で中空を踏みしめてマスターの背中を追いかける。
背中に密着していても余計な感情を抱かなくて済むのでリジットは背負いやすいな。
「ちょっとオスカー、いまアーニャのこと考えてたでしょ」
後頭部に刺さる、ムスっとしたとげとげしい声。理不尽だ。
さっさとリジットの分の宙靴も作らないとな。
そう長く走ることもなく、やがてマスターはひとつの店先で立ち止まった。なんだろう、人だかりができている。
「まだ小さいのに、かわいそうに」
「母親がしっかり見てないから……」
取り巻いている人垣を飛び越え地上に降りる間際、そんなひそひそ声がいくつも聞こえた。
その光景を見れば、何があったかは凡そわかる。
事故だ。
「ッ――!」
背中でリジットが息を飲む気配。
「お願いです、助けて! 助けてください――!」
涙と血にまみれ憔悴しきった、母親と思しき女性の腕の中で、今にも息絶えそうな幼な子がぐったりと体を横たえている。
マスターの肩で渋面を作っていた妖精のシアンと、奇しくも同じくらいの背格好。その腹は裂け、必死に押しとどめようとする女性の指の間からとめどなく命の赤い雫がこぼれ落ち、地面に赤い版図を広げていく。
意識がない。脈も呼吸も弱い。でも、まだ生きている。必死に生きようとしている。
すぐそばにある馬車の車輪は血に濡れていて、あれに巻き込まれたであろうことは想像に難くない。
「リジット。湯を沸かしてくれ。できる限り沢山」
「わかったわ。布もいるわよね」
「ああ、頼む。マスターはどこか落ち着いて処置できる場所の確保を」
「すでにそこの店主に了承はとっている」
さすが、できる大人は違う。
リジットもとくに理由を聞き返したりせず、いま必要なことのために即座に動き出した。頼り甲斐がある。
沈痛な顔をして特に何もしようとしない野次馬連中は――まあ、邪魔しないだけマシか。
あとは、リーズナル邸にいるはずのシャロンをこの場に呼び出そう。
転移装置を間借りした旧・倉庫を介していた頃と違い、"念話"は距離の制限が大きい。離れていればいるだけ、大きな魔力を込めないと届かないのだ。
僕の魔力量なら町からお屋敷まで届かないなんてことはないと思うけど、あまりに魔力を込めすぎると周囲に凄まじいプレッシャーを放ってしまうことがわかっている。
普段だったら気にしないのだけれど、ただでさえ瀕死の子にトドメを刺しかねない現状ではそうも言っていられない。時間はかかるが、確実を期すためにも人を呼びにやったほうがいいだろうか。
――そんな逡巡をしていたところ、にわかに野次馬たちが騒めきだす。
「ちょっと、あれ……」
「女神様だ!」
「女神様が降臨されたぞ」
「熊殺しの女神様が、哀れな子供にお慈悲を与えにご降臨なさったぞ!」
「ありがたや、ありがたや……!」
口々に声をあげ、拝み出す野次馬たちの視線の先。
「オスカーさんの魔力波形および著しい心拍数上昇と発汗を検知し、呼ばれて飛び出たあなたの良妻、ただいま推参です!」
薄蒼の翼をはためかせ、胡乱なセリフと謎のポーズをびしぃっと決めながら美少女が舞い降りる。
さすが、できる魔導機兵は違う。頼り甲斐も申し分ない。
けど、心拍数と発汗て。
別の意味で汗が吹き出そうになる僕だった。