僕らとヘッドハンティング そのいち
やや俯きがちに僕らの向かいに腰をおろした青年は、見れば見るほどどこにでもいそうな風貌をしていた。
見覚えはない――と思うけど、工房に客として来たことがあったとしてもさほど不思議はない。もともと人の顔を覚えるのは得意じゃないんだよな。
アーシャは見覚えある? と、すぐ隣に目だけで問いかけると、アーシャの視線は青年のほうでなく店員の男のほうに釘付けになっていた。謎の青年よりも、シャロンが注文していたンゴなんとかいうもののほうに興味を惹かれているようだ。
注意を払われていない青年のほうも若干哀れだが、店員の男のほうも変に緊張した様子だ。小皿をテーブルに置いて、そのまま無言でカウンターの向こう側に去っていく。
皿の上には、瓜だろうか、薄く切られた黄緑色の野菜の上に、やや赤みがかったタレが掛かっている。食事というよりは酒のアテというのが適当だろう。
「はい、オスカーさん。あーん、です」
「ん」
シャロンの白く細い指がタレの掛かった野菜をつまんで差し出してくるので、対面に腰掛けた謎の青年を気にしながらも、ンゴなんとかを咀嚼する。
うん、なんだろうなこれ。食べたことのない、不思議な味わいだ。しゃっきりした歯応えを残した瓜の青い香りを、やや塩辛いタレが引き立てているというか。見た目通り、酒のつまみに良さそうだ。僕はあまり酒が得意ではないけど、持って帰ったらアーニャが喜ぶかもしれない。よく飲んでるしな。
「はい、アーシャさんも。あーん」
「あーんなの」
謎の青年に見守られ(?)ながら、アーシャもンゴなんとかをもぐもぐ食べる。何を考えているのか、真剣な眼差しの上で、猫耳が時折ぴこぴこ跳ねる。
「このンゴルピは『あなたたち』の郷土料理だそうですね。なんでも、このタレには魚を使っているとか」
「……そうっすね。船乗りが好んで食べるっす。おもに酒盛りのときに」
向かいに腰掛けた青年がやおら口を開き、やや苦々しげに肯定する。
なるほど、ここの店員の男とこの青年は同郷だったらしい。なんでシャロンがそんなことを知ってるのかはわからないけど、だってシャロンだしな、で説明がつきそうな気もする。だってシャロンだしな……。
外見に特徴のない、どこにでもいそうな平凡な青年は深くため息をついた。
「自分、間諜やってる者で。ノーバって呼んでくださいっす」
「お、おう……スパイが自分でスパイって言うのもなんか、あれだな」
「自分もそれなりにこの仕事長いっすけど、初めて言ったっすね。なんなら監視対象の側から接触されたのも初めてっすよ……ははは……ッッッッッッ――――!!!??」
監視対象。シャロンがか。
雑踏の中でシャロンが言っていた『いまならお話ができる、かもしれませんよ』という言葉はノーバを誘い出すためのものだったんだな。
この冴えない男にシャロンがどうこうされるとは思えないが、その裏には誰がいる?
僕は一気に警戒レベルを引き上げ、
「大丈夫です。オスカーさん、落ち着いてください。大きく息を吸ってー。ひっひっふー、ひっひっふー」
「オスカーさま、どうどう。大丈夫なの。よしよしなの」
「ッ……ふぅ〜……」
左右から背中を優しく叩かれ、頭を撫でられて、僕は一瞬詰めていた息を吐き出し、少し落ち着いた。住んでいた村が燃やされたり、父母が蛮族に殺されたり、カイラム帝国の動乱だったりといった件が立て続けにあったし、そういう陰謀めいたことに過敏になっている自覚はある。できるだけ冷静にいこう。
僕が気を取り直している間に、スパイだとかいうノーバとやらは…………椅子から転げ落ちて胸を押さえていた。カウンターの内側の男は頭を抱えて縮こまっているっぽい。
……。
あれ、僕またなんかやっちゃいました?
思い起こされるのは、僕の発した魔力に怯えて森の中を半狂乱で逃げていく魔物の姿だ。
や、でもまだ何もしてないぞ。指一本相手にゃ触れてないし、魔術も使ってない。今は、まだ。
「――こういうことになりそうだったので、今日はオスカーさんには報せずにお連れしたんです。最初からオスカーさんが警戒していると、町の経済に与える影響が深刻な打撃を受けかねないので」
「なんか、その、すまん」
いやいや、さすがに椅子から転げ落ちたりするのは大袈裟だと思うけどな?
シャロンはともかくとしてアーシャも平然としてるし。え、僕の魔力は慣れてるから平気? むしろ若干クセになる? それもどうかと思うけども。
魔力の漏出を抑える魔道具でも考えてみるかな……。
「…………勘弁してほしいっす、寿命が300年は縮みました」
「いや悪かったけどさ。いくつまで生きる気だ、お前」
見た目は平凡な青年スパイ、ノーバは青褪めさせた顔でぶちぶち言いながら向かいの長椅子に掛け直した。
文句を垂れながらも軽口を飛ばしてくるので、見た目より図太い性格をしているようだ。そうでないとスパイなんぞ務まらないのかもしれない。
「ええと、本来は今日接触するはずじゃなかったんすけどね。せっかくの機会なんで活用させてもらうっす。まずは――」
「まずは、ンゴルピの作り方をこの子に教えてあげてください。その間だけお話をいたしましょう」
ノーバの言葉を遮って、シャロンが条件をつけた。
突然話を振られたアーシャの猫耳がぴくりと反応をみせる。新しい料理の修得に余念のないアーシャは、この異国の料理にもしっかり興味を惹かれていたようだ。
「ゆっくり丁寧に教えていただければ、その分お話する時間ができますが。いかがです?」
シャロンからのこの申し出に男たちは視線を交わし、ややあってから、「それでいいっす」と返事があった。
「や、ほんと抜け目ないっすね。ウチの手の者がガンガン捕まるわけっす。ただ、あれっすよ、厨房にやましいものは何もねぇっすよ。あったとしても、アイツの晩酌用のちょっと上等な酒くらいのもんっす」
「『何もない』という相手の言葉をそのまま信じる人に務まるお仕事でもないでしょう?」
「はは、ちがいねぇっす」
ぱたぱたとカウンターの裏側へと駆けていくアーシャを見送りながら、ノーバとシャロンが丁々発止、軽い前哨戦を始めた。単に料理を習いに行っただけだと思っていた僕には、どうやらスパイってやつは向いていないらしいこともわかった。く、悔しくなんてないからな! なりたいと思ったこともないし! ふん!
「繰り返しになるっすが、自分は間諜やってる者っす。どこの手の者かはご存知、なんすよね?」
もちろん僕はご存知でないが、シャロンはきっとご存知だ。なんたってシャロンだからな。……僕、この場にいる必要ある?
「エタリウムの穏健派、リビル黄爵の指示で王都から9日前に流れてきた人ですね」
「――そうっすね。いや予想外のところまで知られてて吐きそうなんすけど。ていうかそこまで掴まれてるってことは泳がされてただけっすか。自信なくすっす。はは……」
やっぱりご存知だったシャロンから手痛い返礼を受け、ノーバは乾いた笑みを浮かべた。もういっそ笑うしかないのだろう。
とはいえ今の話を聞いたところで、僕は『エタリウム』が何かすら知らないんだけどな。やることがないので、余ってるンゴなんとかをぽりぽり摘む。
カウンターの向こう側ではなにやら盛り上がっているようで、「ほう、筋がいいな嬢ちゃん」とか言ってるのが漏れ聞こえてくる。楽しそうでいいなぁ。僕もあっち行ってちゃ駄目かな。……駄目っぽいな、話が本題に入るようだ。
「エタリウム諸島連合王国から遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。ガムレルへは観光でしょうか」
「観光だったら良かったんすけどねえ。お察しの通り目的は引き抜きっすよ、ハウレル家の」
この前、カイマンが言ってた通りの展開ってわけか。いっそ、この話を見越してシャロンがカイマンに伝えたのかもしれない。
「エタリウム諸島連合王国はあなた方を熱烈歓迎するっす。いやもうほんと、金も資材も出来得る限り用立てするっす。爵位も白爵は固いっす」
「えー……」
「やっぱ白爵ではご不満っすか」
その白爵とやらがどれほど偉いものかがまずわかってないんだけど、国が違っても爵位ってことは貴族様だろう。
死に物狂いで働いているリーズナル卿の姿を知っているだけに、爵位なんて微塵も欲しいと思えない。歓迎とか言いつつ嫌がらせをしてくるのはどうかと思う。
だいたい、領地なんぞ持ってたところで持て余すのは目に見えている。シャロンたちに任せておけば上手いことやってくれるのだろうけど、そんなことよりも僕はみんなで好きな時に好きな場所にぶらっと遊びに行けるほうがいい。
「エタリウムも、ないとは言いませんが、獣人への差別はゼイルメリア王国よりもかなりマシっすよ」
「それだけの見返りを用意するからには、待遇は軍属ですよね」
「まあ……誤魔化したところでどうにもならなさそうなんでぶっちゃけますけど、そうなるっすね、たぶん」
「つまりは侵略兵器や装備をじゃんじゃん生産して前戦に赴き、国土を広げるのに尽力せよ、と」
「……防衛戦ってこともあるっすが」
「ほうほうなるほど、他国からだと攻め入る旨味があまりないので過去62年にわたって攻められていないのに、ですか。その63年前の防衛戦も、度重なるエタリウムからの挑発行為にキレた周辺国に攻め入られただけでしょう」
「……ほんと、よくご存知っすね」
シャロンからのつっこみに言い返すことはできないようで、ノーバは苦々しげに眉根を寄せた。
お金は今だって、必要になれば稼げばいいし、魔道具の素材も自分で採ってくればいい。魔物には逃げられるようになってしまったけど……それはあとで対策を考えよう。シンドリヒト王家に伝わってた玉柩みたいな秘宝級魔道具を貰えるってなら話は別だけど、そんな上手い話もないだろう。
その上で、爵位と領地を押し付けられ、さらに戦うことを強制されるなんて、ハウレル家になんの利点もないな。交渉は相手の利点もなきゃ成り立たないって、蛮族ですら知ってたぞ。
シャロンはいちおう、判断を仰ぐように僕のほうを振り向いてくるけれど、答えは決まっている。
「お断りだ」
「でーすーよーねぇぇぇええええ!」
最初からその答えを予期していたように、ノーバは深く息を吐くと、テーブルにべちゃりと突っ伏した。なんというか、哀れみを誘う姿だった。