僕と黒髪少女とある日の森の中 そのに
こぉん! かぁん!
木を叩きつける快音が森に響き渡る。
「ふうっ! はっ……!」
深く腰を落としたリジットが鋭く息を吐きながら手にした斧を振るうたび、硬く澄んだ音が昼下がりの森を彩る。靡いた黒髪を束ねる髪留めが、木漏れ日を反射してきらりと輝いた。全身の伸縮を活かした、無駄のない美しい水平斬りだ。が、それは剣技としての美しさであり。
「駄目ね、やっぱり」
「ははは、固いだろ」
構えを解き深く息をついたリジットは斧を握っていた手をぷらぷらとさせる。リジットが見上げた楢は斧で何度か打ち付けられたにも関わらず、まるで切り倒されてやる気が感じられない。木だけに。ってやかましいわ。
木の繊維ってやつは存外に強靭なつくりをしている。
斧を水平に叩きつけてやれば「こぉん!」と快音こそ鳴るけれど、与えるダメージは微々たるものだ。せいぜい木の表面に浅い傷がつく程度が関の山である。
「盾を構えてる相手に真正面から斬りかかるようなもんだからな。まるで労力に見合わないんだ」
「盾を躱して斬らないと駄目ってことかしら。でも相手は木でしょう? 速度で翻弄もできないし、フェイントに引っかけるわけにもいかないじゃない?」
「そうだよ。だから相手の盾の特性を知らなきゃならない。実践してみせると、こう」
リジットから手斧を受け取り、軽く振り上げ、そのまま振り下ろす。当てる角度は、斜め。結果は覿面だ。
同じ斧でありながら水平に打ち込んだときと違い、ざぐり、とくぐもった音とともに刃の先端部分が木の幹へと埋まる。
「ま、こんな感じだな。木は横方向からの攻撃に強いけど、縦なら斬れる。だからほら、薪割りの時も縦向きに斧を当てるだろ」
「なるほどね。力ずくでやればいいってわけじゃない、と。覚えておくわ」
「もちろん体力も大事だけどな。『それだけじゃいい木こりにゃなれねぇぞ』、って教わったもんだ」
リジットは<騎士>の称号を持っており、剣の扱いに長けている。けどそれは主に対人戦闘のための技術であり、対魔物戦闘であれば必要とされる技術は変わるだろう。得物が剣ではなく斧で、相手が木であればなおさらだ。
そんなわけで、小さな村で生まれ育った僕のほうが、こと木を斬るに関してはリジットよりも詳しかったってことだな。
でもまあ僕は木こりじゃないし、斧じゃなくて魔術で斬るけどな! だってそのほうが確実だし楽だもん。
「じゃ、ちょっと下がっててくれ。――"回れ、久遠に往くために"!」
水平方向だと木の防御力が高い? それならその防御を超える力で薙ぎ払うまで! ふはははははは力こそパワー!!
螺旋状に渦巻く魔力で研ぎ澄まされた刃をぶつけられた楢の大木は、メリメリメキメキバリバリ、と耳を劈く落雷のごとき轟音を撒き散らしながらその身を横たえていく。
倒木にもし人が巻き込まれたら大怪我は免れない。倒れた木の下敷きになって命を落とす事故はガムレルの近辺でも毎年数件必ず起きているそうで、伐採時にはしっかり注意するようにリーズナル卿からも念押しをされている。
まあ、巻き込む人どころか、魔物や小動物もなーんもいないんだけどな、はっはっは!
「いや笑い事じゃないんだよ。異常だよこれ」
昼食を終え、何度か場所を移してみても状況に変化はなし。なーんもいない。
"探知"魔術を放った時点では確かに魔物の反応が引っかかるんだよ。でも現地にたどり着いてみても何も居ないんだな。居た形跡はあるんだけど。
周囲を警戒しつつ森を進むのって、思っているよりも難しい。木や薮は直進させてくれないし、そこいら中に蔓延った木の根っこが輪をかけて邪魔だ。周囲警戒して足元がおろそかになっていると容易に足を引っ掛けて転びかねない。
"全知"の欠片の埋まった右目がほとんど見えてないのもあって距離感も掴みづらい。どうもリジットが比較的歩きやすい場所を選んで先導してくれてはいるようだけど、走れるほど道が整っているわけでもない。森は自然の領域、もとより人間が生きやすい環境ではないしな。
いざとなったら宙靴で上空を走って障害物を無視するけど、そうすると今度は木々に隠れて地上で何が起こっているのか見えにくくなってしまう。
都合四度目になる移動を経て、でもやっぱり周囲には何の反応もなくなっているので、仕方なく手頃な木を伐採していく。同じ場所の木をあまり切りすぎると森の動物が困るから、伐採するのは移動した先々で数本ずつだ。とはいえその困る森の動物とやらが全く見当たらないんだけどさ。
ここまで何とも遭遇しないとなると、レッドスライムみたいな未知の脅威に森の動物が食い尽くされてるのでは、なんて嫌な想像をしてしまう。森の中を奥へ奥へと進んできたとはいえ、徒歩で辿り着ける範囲だ。町からそう離れているわけでもない。
未知の脅威はできる限り排除したいし、排除できないまでも、せめていかなる脅威かまでは突き止めておきたい。対応が後手に回ったときに犠牲になるのは、いつだって理不尽に抗う力のない無辜の民だ。
「"広域探知"」
右眼の"全知"が熱を帯び、詠唱省略で編まれた術式が何度目ともわからない同じ結果を返してくる。
「どう?」
尋ねてくるリジットに、僕はかぶりを振って応えた。
「この辺りも、なにも居ないみたいだ」
遠くには魔物の反応がちらほら変わらずあるけど、僕らのいるあたりだけが静寂に包まれている。
不自然なくらいの……どことなく張り詰めた、奇妙な静寂に。
「違和感というか、なんというか。森が静かすぎるんだ。まるでなにか――そう、とてつもない脅威に、森全体が怯えているみたいな……」
すぐ近くに脅威になるような魔力も感じられないのに、違和感だけが募っていく。
しばらく鋭い視線を周囲に撒いていたリジットも、やがてお手上げとばかりに肩をすくめて見せた。結わえた黒髪の毛先がふるふると揺れる。
「オスカーの勘を疑うわけじゃないけれど、やっぱりこれといって特に怪しい気配はないわね」
「うーん……。なんだろうな、こう、胃のあたりまで出かかってるんだけど」
「かなり出てくる気がない奥のほうじゃないのそれ。そうね――それじゃ、村の方に顔を出してみない? もしかしたら、森の異変に心当たりがあるかもしれないわ」
「ゴコ村か。ちょっと方角は違うけど、闇雲に動き回るよりはいいか」
ゴコ村に行けばヒンメル夫人にも挨拶できるしな。夫人とのやりとりには、ガムレルとゴコ村とを行き来しているヒンメル商人を介すことが多いので、たまには直接顔を合わせるのもいいだろう。らいぶ衣装の仕上がりも気になるし、頼まれていたスラ撚糸もいくつか試作品ができている。
目についた良さげな木を伐採しながら、ゴコ村目指して進む。正確にはゴコ村とガムレルを繋ぐ道を目指して、だな。道に出ればダビッドソンが使える。
魔物を斬れるからって上機嫌になっていた血に飢えた騎士リジットは、何とも遭遇できていない現状で気分を損ねるだろうか……と顔色を窺ってみれば、とくにそんな素振りもなさそうだ。警戒しながら森を練り歩いているためか多少の疲労があるものの、どちらかといえば機嫌が良さそうにすら見える。
もしかして、あれか。さっき全力で斧を振るったのが良かったのか。残念ながら斬れてなかったけど、ストレスは解消できたのかもしれないな。やはり暴力。暴力は全てを解決する――!
「また変なこと考えてるでしょう」
「ソンナコトナイヨー。さあて"探知"、"探知"、っと。………………ん? ……………んんん!??」
ジト目で見返してくる血に飢えた騎士の視線から逃れつつ、ごまかすように発動した"探知"魔術の結果に、思わず息を飲んだ。
「静かすぎる森――現場に居ない魔物――そしてこの反応…………ッ! まさか、陽動か!?」
「どうしたの、オスカー」
「ゴコ村が危ない!」
僕の様子が冗談の類ではないことを即座に読み取ったリジットもまた、瞳に真剣な色を宿らせた。事態は、急を要する。
「ああ、くそっ! ヒンメルさんが行き来してるから安全だろう、って除外したのが裏目に出た!」
僕らが進んでいる方向、つまりはゴコ村の方位に向けて魔物が集結しつつある。
その数は10や20ではきかない。村は大混乱に陥るだろう。
考えがたいことだけど、事態を見れば明瞭だ。森の中で付かず離れずの距離を保ち僕らを翻弄していたのは、魔物の陽動部隊とでも言うべきものだったんだろう。今にして思えば"探知"術式で位置を探れるのがこちらだけの特権だという自惚れもあったかもしれない。相手には『大激震』で群れから逃げ延びた災厄の因子を持った魔物が含まれているのだから、何をしてきても不思議はなかったというのに――!
反省も後悔も、あとまわしだ。
ちんたら歩いていたら間に合わない。
だから、ちょっとばかり強引な手を使わせてもらう!
「乗って!」
「え、あの、でも森の中――」
「はやく!」
倉庫改から取り出したるは、おなじみダビッドソン。魔石を動力に、前後に取り付けた二輪を回転させて地を走る魔道馬。
リジットが狼狽するように、木々が繁茂する森の中での走りを想定した乗り物ではない。が、そんなのは瑣末なことだ。
森の中を走れないなら、森の中を走らなきゃいいんだから――!
「ああもう、もっとちゃんと掴まって!」
「ぴっ!?」
僕の後ろに腰掛けたリジットがおずおずと僕の背中の服をつまむので、後ろに手を回して腕を捕まえ、そのまま僕の腰に無理やり抱きつかせる形で固定する。らっぴーみたいな声がリジットから出たけど、わるい、急いでるんだ。文句はあとで聞く。
背中に張り付いたリジットの体温が、熱い。これだけぴったり張り付いていれば、少々無茶をやったって振り落とされることはないだろう。これがもしアーニャだったら、ここまでぴったりくっつかせるのは無理だっただろうな……いや、アーニャならダビッドソンに乗るよりも走ったほうが速いんだけどさ。矢よりも余裕で速いってどういうことなんだろうな。
「あのっ、オスカー、えっとっ……!?」
「黙ってろ、舌噛むぞ!」
「――――ッ!!」
リジットへの警告ののち、本日何度目かになる”全知”の力を呼び覚ます。
焼ける右眼が鋭い痛みを発するけど、うるせえ、人命優先だ!
普段は砂粒のような魔石で走っているダビッドソンに、『まとめるくん』で純度を高めた中くらいの魔石を惜しげもなく投入。
「ダビッドソン、オスカー = ハウレル! 行くぞぉ!」
「――――〜〜〜ッ!!」
”全知”の権能で詠唱破棄して作った”結界”の――即席のジャンプ台を踏み締めて、最高速で木々の上へと飛び出したダビッドソンは、ゴコ村への最短距離を爆走した。
まあ、あれだよ。宙靴と同じ原理だよな。
ダビッドソンが走る先に障害物があるなら、"結界"を敷いてその上を走らせるっていう。
「それで、ねえどんな気分? 今どんな気分?」
「いや、だって、なあ。焦ってたし、しょうがないと思うんだよ」
「焦ってたのはむしろ向こうでしょ」
無事というか、なんというか、平和そのもののゴコ村に空からダビッドソンで乗りつけたことで、むしろ村中の人たちをびっくりさせてしまったのは申し訳ないと思うけどさ。
なんだなんだ、と家から出てきた村人たちの前で、ダビッドソンから降りたリジットは真っ赤な顔で頬を膨らせて僕を詰る。
「村の人たちが、というよりも……ふふっ、なんだったかしら? 『とてつもない脅威に森全体が怯えてる』、だったかしら。ねえ、森全体に怯えられる気分はどう? オスカー」
「どうって言われても……」
そう。ゴコ村は今以て平和そのものだ。いや、村の真ん中で血に飢えた騎士に詰られてる僕を除いてだけど。
魔物の群れは、なんのことはない。逃げてただけだった。何から? 僕から。
「私、魔術のことはわからないけれど。そりゃあ、あれだけ強烈な威圧感が出てたら逃げるわよね、当然」
"探知"術式は、簡単に言えば探りたい方位に向けて魔力の網を投げてるようなものだ。大雑把に大容量の魔力を込めた結果、"探知"した側にも気取られて――というより、恐慌に陥らせてしまっていたみたいなんだ。うん。
森が静かすぎたのは僕の周りだけで、僕に追い立てられて逃げ惑う生き物たちの方はたまったもんじゃなかったのだろう。そんなつもりはなかったんだけどな……。
思えば、森に入ってすぐに"広域探知"をやったときにリジットが勢いよく僕の方をを振り向いて固まってたのも、その威圧感とやらを感じ取ったからだったんだな。
ゴコ村の方へ魔物が向かっていたのも、そちらに向けて僕らが追いかけていた形になるので、単により遠くに向けて逃げていただけだった、という。陽動? ははっ……笑いたきゃ笑え。くそぅ。
聞けば、ゴコ村でも「今日は森が騒がしいな?」と思っていたとのこと。どうも、元凶です。
上空をダビッドソンで通過した時など、この世の終わりのような絶叫を上げながら半狂乱になって逃走する魔物の群れが、木にぶつかり、踏み潰され、それでもここにいるよりはマシだと散り散りになっていく様は、なんていうか、こう……正直すまんかったというか、なんというか。
「魔物に本気で恐れられてる人、初めて見たわよ。警戒じゃなくて完全に怯えられてたじゃない……ふ、ふふっ……」
「見物料取るぞ、くそぅ……」
文句はあとで聞くと言っちゃった手前、リジットが落ち着くまで、村人たちの衆人環視のもと僕はこうして詰られ続けることになるのだった。くそぅ。
木材だけはいっぱい確保できたから、いいんだよ……
町に帰ったら、暇そうだった材木屋にいくらか流してやるかな……くそぅ
「急発進するときは、何に乗って誰が行くのかを周囲に知らせるのが業界標準です。安全のための、大事な慣例です」
「なるほど。シャロンは物知りだなぁ」