ガムレル祝勝会 そのよん
夜の帷が町を閉ざしても、明るく照らされた庭園では人々が酒や料理を手に談笑に花を咲かせる。
「お酒もお肉も、あれもこれもぜんぶぜんぶぜぇ〜んぶ美味しいねっ! フランもこれ食べてみなよっ! あ、これも! それも! あっちのも!」
「わかった、わかったから落ち着きなさいおバカ。食べながら喋るんじゃないわよ。ほらもう、食べ滓だらけじゃない」
「んぅー? いいよどうせまた付くし」
「年頃の子女としてどうなのよ、それは。ちょっとじっとしてなさい。はい、きれいになったわよ」
「……フランってさ〜、時々お母さんみたいだよね」
「あんたのほうが歳上でしょうが!」
「なんだよー! ひとつだけしか変わんないじゃんー!」
ある者は笑い。
「こんなにいっぱい食べられるなんて、夢みたいですぅ。カイマン様にも食べさせてあげたかったなぁ……」
「この先いくらでも機会はあるでしょ。生きてるんだから」
「うん、だよねだよね! 生きて……生ぎで……ふぇぇええええええええ」
ある者は感極まって泣き。
「つまり! カイマン様がこの町をお救いくださったのはすでに知られた事実ですが、そのカイマン様をお救いしたのこそっ! ここにおられるお姉様に他なりませんっっ!!」
ある者は見届けた武勇伝の一部始終を熱く語り上げ。
「ぐすっ。あなたが、いてくださって、ほんとに……ほんとうにっ!」
「ゔぁぁああああ〜! よがっだ、よがったよぉおおおおおおお!!」
「「「お姉様ぁ〜!」」」
「なんで自称妹が増えとんねん! だぁ〜〜〜、もうっ! ウチはそんな感謝される謂れなんてないし!」
「まあまあ。それよかほら、こいつぁ俺の秘蔵の酒だ。さ、一献ぐいっとやってくんな、嬢ちゃん」
「ええぇ……ウチ、そんな酒の良し悪しなんかわからんで? なあおっちゃん、もったいないんとちゃう?」
「いいんだよ。俺があんたに飲んでほしいんだ。坊の恩人、すなわち俺の恩人だ。飲め飲め」
「やっぱ、もっと早くに逃げとくんやった……」
またある者は大いに困惑して溜息を溢した。
「ぬしの巨大な姉御、なんぞ困っておるの。くく、善い気味じゃ」
庭園の雑然とした光景を見下ろしながら、ルナールはくくく、と含み笑いを漏らす。
つい先ごろアーニャに風呂へと強制連行されたことを微妙に根に持っているのだ。
細かな会話の内容までは聞き取れないものの、困ったように耳をへろんと垂れさせているのは十分に見て取れる。
ちなみに、ルナールは少し前まではアーニャのことを『大きな姉御』呼ばわりしていたのだが、風呂で着衣なしにその物量を目の当たりにしてからというもの、『巨大な』に呼称が改められていたりする。
ルナールが腰掛けているのは屋敷の屋根のへり部分だ。当然、照明なんて用意されていない。ほとんど真っ暗闇といって差し障りない。
並のニンゲンよりも遥かに夜目の利くルナールにしてみれば、たいした闇の深さではない。けれど明るい庭園からでは、こんなところに誰かがいることすら見えないだろう。
黄金色と、色を失った部分の入り混じった長い髪が、夜風にさぁっと流れていく。
それに釣られてルナールがふと視線を横に戻せば、ふわふわした白っぽい髪が視界に入った。
「ぬし、楽しそうじゃな」
「ん。ルナールが、楽しそうだから」
中性的に綺麗に整った顔立ちの、ラシュのくりっとした橙色の瞳が優しく細められる。たったそれだけの所作で、ルナールは己の心臓の在り処を否応なく思い出し、ふいっと視線を彷徨わせた。
オスカーやアーニャにとってはまだまだ『小さな弟』のラシュではあるれど、ルナールにとってその横顔は深い絶望の淵から掬い上げてくれた男のそれだ。
『ぼくが、いるよ』
あのとき。
封印の祭壇で彼のくれた言葉と勇気が、いまもルナールの頬を熱くさせる。
「そ、それよりもじゃな、ぬしはこんなところにずっとおってよいのか?」
「ん? おにく、またもらってくる?」
「おかわりの催促じゃないんじゃが……」
そりゃあ、ルナールだってラシュがここにいてくれるなら、いてくれたほうがいい。
でも本来なら、ラシュはこんなところにいるべきじゃない。
人々に囲まれて、笑い、楽しむべきなのだと思っている。
だって、ルナールは知っている。
下で談笑する彼らのうちの誰一人として知らなくたって、ルナールだけは知っている。
隣にのんびりと佇む少年の覚悟と、強さと、貢献を。
ラシュがいなければ、きっと。こんな和やかな光景はあり得なかったはずだ。
町を守った者たちが称賛を受ける一方で、彼だけが顧みられないのは、なんだか納得がいかない。
けれど。もし、ラシュの働きが認められて。
ああして日の当たる場に行ってしまえば。
そのとき、ひとり取り残されるであろう自分は、彼を心から祝福できるだろうか。
「……っ」
みじめにいじけた自分の姿をまざまざと想像してしまい、ルナールは唇の端を噛み締める。
ラシュは、どこにでも行ける。
姉たちがそうであるように、人間の輪の中でも、きっと楽しくやっていける。
ルナールは彼にとって、大勢のうちのひとりにすぎない。
だけど、ルナールには。彼の他にはもう、誰もいない。いなくなってしまった。ただひとりだけ、生き残ってしまった。
そうして生き残ったはいいものの、新しい繋がりを求めることができずに、屋根裏に引きこもったまま、どこにも行けないでいる。
また、首輪を掛けられるのが怖くて。
また、信じて裏切られるのが怖くて。
どこにも、行けない。
ラシュがそんなルナールに愛想を尽かして離れていく日が来たとしても、それを止める権利もまた、ない。
表情を曇らせるルナールに、ラシュはこてん、と首を傾げる。
「ここにいると、めいわく?」
「ち、ちがっ……!?」
あらぬ誤解をされていることに気づいたルナールは、狐耳をぴんと逆立て、ぱたぱたと腕を動かして必死に弁明する。
べ、べつに好きなだけいてくれたらいいんだからねっ!? 勘違いしないでよねっ!? とあわあわしていると、ラシュはくすりと小さく笑みをこぼした。
「よかった」
言って、ごろんと寝転がる。
太陽の光をいっぱい浴びた屋根は、夜を迎えた今もまだ、ほのかに温かい。
少年が見上げた空には星がまたたく。
朱く血の色に閉ざされていた空は、もうない。
実際のところ、町の中で見るよりも、山や森で見るほうが星の輝きは綺麗に見える。
ヒトの生み出す灯りは夜空の絵画をくすませる。庭園で宴会の真っ最中な今なんかは余計にそうだろう。
けれど、人里離れた森で隠れ住んでいたラシュも、悲願成就のためカイラム帝国の手先として暮らしていたルナールも、かつてはそうのんびりと星空を見上げるような余裕がなかった。
着るものがあり、食べるものの心配をせずに済み、そして平和であってこそ、そういったものを楽しむ心の余裕が生まれてくる。
「きれーだねー」
「そう、じゃな」
いつも通りの、のんびりした声。
毒気を抜かれたルナールも、その場でラシュに倣って寝転んでみようとして――、一瞬悩んで覚悟を決めると、いそいそと拳ふたつぶんくらいラシュとの隙間を縮めてから、えいやっと寝転ぶ。
――勢い余って、屋根にごちんと頭を打ちつけた。
「ぅだっ!? 〜〜〜〜〜〜っつぅぅう〜〜〜〜…………」
のんびり星空を眺めるより先に、目の前に星が散った。
「だいじょぶ?」
「だ、だいじょうぶ! じょぶのじょぶじゃ! わらわ、あたま、かたい!」
うごぉおおおおお〜! とかわいくない奇声を発しながら身悶えしそうなところを、目をぎゅっと瞑って堪えている今のルナールには余裕がない。普段から余裕があるわけでもないけれど、今はとくにない。
そのうえ吐息さえ感じられるほどの距離からラシュが身を案じてくるので、もともとなかった余裕が根こそぎ消し飛んでしまっている。
屋根の上が、暗くてよかった。
でないと、真っ赤になった顔を見られてしまっていただろうから。
――なんて、思っていた時期がルナールにはありました。
「んー。あつい、気がする。ひやすの、もらってくる?」
「ぴゃっ!!?!!?」
こつん、と触れた額の冷たさに驚いて目を開くと、すぐ目と鼻の先に、心配そうに覗き込んでいるラシュの顔がある。
転がったルナールの上に、屋根に手をついたラシュが覆い被さるような形で様子をみている。今のは額と額をぴたりと合わせた感触だった。そう気づいた瞬間、すでに余裕が消し飛んでいたルナールの心の許容限界が訪れた。
端的に言うと『もうどうにでもな〜れ☆』状態だ。一周まわって、もうなにも怖くない!
「……ルナール?」
不安げに覗き込んでくるラシュの首の後ろに、抱き抱えるように両手を回す。心臓が破裂するような爆音を奏でる。
狐人の優れた視力によって、瞬く彼の睫毛の一本さえくっきりと見える。
『獣人だから』とひどい目に遭い、それを呪ったことは数知れず。けれど、今この時だけはその動体視力に感謝したい気持ちが芽生える。
ルナールを押しつぶさないようにラシュが両腕で踏ん張っているけれど、ルナールのほうから腕に力を加えたら、少しずつ近づいていく。彼の、柔らかそうな唇へと。
そういう愛情表現のことは、ついさっき、風呂の恋バナ大会で聞いたばかりだ。
聞いたときは心底くだらぬ、と溜め息を溢したルナールだが、そこはそれ。考えなんてのは、きっかけひとつでコロッと変わるものだ。
地上からは屋根の陰になる。そもそも、屋根の上なんて誰も気にしてすらいないだろう。
ちょっとくらい大胆な行動に出ても、どうせ誰も見ていないのだから。
――なんて。
ちょっぴり打算的な考えがよぎったために、ルナールはある違和感に気づいてしまった。
それは微かな物音かもしれないし、風に乗った匂いかもしれないが、何かが『もうなにも怖くない』はずの意識のはじっこに引っかかる。
誰も見てない? 本当に?
きょとん、としたままのラシュの唇を奪う、その寸前。
違和感に突き動かされるままに、そぉ〜っと視線を横に、横にとズラすと。
「……………………………………………………ぴ」
出窓のはじっこから首を延ばしてふたりを窺う、若干気まずそうな伝説の霊鳥の姿が。
あ、どうぞ続きを。こっちは気にしないでいいんで、みたいな目配せをしてサッと出窓に引っ込むものの、ぴょっこり覗いた飾り羽が、覗き見をやめる気がないことを物語っている。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!??」
「ルナール? だいじょぶ? ねえってば」
声にならないルナールの叫びが夜空に溶けていく中、最後までよくわかっていなかったラシュは、困ったように眉をへにょりと折り曲げた。