ガムレル祝勝会 そのに
『微生物による発酵』という概念がまだ解明されていないこの時代において、パンの生地が膨らむのは、しばしば『妖精のしわざ』と考えられていた。
小麦と塩を混ぜて、綺麗な水を少量ずつ加えながらよく捏ねる。気まぐれな妖精が寝床として好むように、硬すぎず、柔らかすぎないように生地を捏ねて、温かいところに置いておく。すると喜んだ妖精がパン生地をふんわりと膨らませてくれるのだ。
「ふっかふかの丸パンつくろ、なの! むぎのこなをもにもにこねる、なのなの!」
借りたメイド服の袖を捲りあげ、アーシャは即興の『パンのうた』を歌いながら上機嫌でパン生地を捏ねる。
オスカーたちが製粉した最上級にさらさらなまっしろの麦粉は、アーシャの手によって最高のパンへと生まれ変わる。
アーシャが料理修行のために下働きをさせてもらっている《妖精亭》には、ホンモノの妖精がいる。
目では捉えられないけれど、『なにかがいる』のは感じ取れるので、彼女は妖精の存在自体を疑ってはいない。たまにそーっと尻尾を触られる感覚があるのは、びっくりするのでちょっとやめてほしいけれど。
アーシャが歌いながら調理をするのは、彼女自身が楽しいというのもあるけれど、妖精に楽しんでもらう意図もある。妖精も気分が乗れば、パンをふっかふかのふわっふわに膨らませてくれるに違いない、と。
「おっいしっくなあれ〜、おっいしっくなあれ〜、なのなの!」
事実、アーシャが捏ねたパン生地は信じられないほどに柔らかく、香ばしい焼き上がりとなっていた。もちろん、祝勝会参加者からも大好評だ。その勢いたるや、焼き上がりと同時に飛ぶように捌けていくほどに。
開会前に予め用意していた生地が早くも尽きそうになってきたために、肉の下拵えの手を止めてまで追加の生地を捏ねているくらいだ。
ゴルドーをはじめ、リーズナル家の台所を任されている使用人たちと工程自体は同じ。むしろパン作りの工程は彼らがアーシャに教えたはず。なのに、仕上がりの柔らかさや香ばしさ、頬張ったときに口いっぱいに広がる旨味が明らかに違うことに、彼らは皆揃って首を傾げた。
料理人たちには思いもよらない。アーシャの持つ〝調律〟の神名に従えられた、パンの妖精もとい微生物が、全力を尽くしてパンを美味しく仕上げているだなんてことは。
生地は捏ねれば捏ねるほど良い、というわけでもない。アーシャが捏ねれば捏ねるだけ<子猫親衛隊>の面々は喜びそうだが、捏ね具合はパンの出来上がりの柔らかさに直結する。何事も『適度に』が肝要だ。
最初はねばねばした状態の生地を、ぺちぺち、もにもに、こねこねしていくと、だんだんとひとかたまりになってくる。
塊になったそれを持ち上げて、「なのっ!」と調理台に叩きつけ、みょいんと伸びた生地を折り込んで、また持ち上げ、「なのっ!」と叩きつける。そうすると生地の表面が段々とつやっとしてくる。
「報告。バターの準備が完了」
「はーいなの、ちょうどよかったの!」
何度も何度も生地を叩きつけて「ふぅ」とひと息つくアーシャ。その額の汗を横から拭いながらカトレアが報告する。
バターはリリィとカトレアの合作だ。
リリィがヤギの乳からクリームを抽出し、壺に入れたクリームをカトレアがぶんぶん振り回すと、いつのまにかバターができている。アーシャにその仕組みはよくわかっていないけれど、これを入れると入れないのとでは、焼き上がりの風味とふっくら具合が全然違うことはわかっている。
つやっとした生地にヤギのバターを加えて馴染ませたら、あとはもう『妖精がいい感じにしてくれる』のを待つだけだ。
一連の工程はけっこう大変だけど、みんなすごく喜んで食べてくれるし、目をまん丸にして口々に褒めてくれるので、アーシャも嬉しい。相変わらず無表情なリリィとカトレアも、どことなく楽しそうに見える。
「嬢ちゃん、こっちはそろそろ大丈夫だ! えらく手伝ってもらっちまってすまなかったな、もうあとは気兼ねなく楽しんでくれ」
「はーいなの! じゃあお肉の準備に戻りますなの」
「お、おぅ。いや、あの……まあ、いいか」
いい加減手伝わせるのも悪いと思ったゴルドーが頃合いをみて何度か声を掛けてみるものの、アーシャはぱたぱたと動き回っては次の調理に移ってしまう。
本人がそれを望むならしょうがないか、とゴルドーは苦笑した。
そもそも、此度の祝勝会において、アーシャ = ハウレルはもてなされる側だ。
本来なら、せっせとパン生地を捏ねている場合ではない。大いに飲み、食い、笑って、その功績を労われるべき立場にある。
〝希望の歌姫〟
本人が耳にしたら、恥ずかしがって一目散にぴゅーんと逃げてしまう、その異名。
〝黒剣の英雄〟と同じく、ガムレル防衛戦における最大の功労者の証。
だというのに。『好きなことをしてよい』と聞いたアーシャは、迷うことなくパン生地を捏ね、肉の世話に精を出していた。
ちなみに、肉が驚きの柔らかさになっているのも〝調律〟の仕業だったりする。下拵えで揉み込んだ香草やカルカルの分解酵素が最大限以上の力を引き出され、外はパリッと香ばしく、中はじゅわっと柔らかな肉に仕上がっているのだ。
チーズやサラダ、炙った腸詰め、シャロンが粉砕したカシ瓜だった物体など、肉やパン以外にも摘めるものは多数用意されているけれど、中でも人気なのはやっぱりブォム肉のステーキや串焼きだ。
少女がパン捏ねから肉焼きに移ったときには肉待ちの行列さえ形成されていて、びっくりしたアーシャは目をぱちくりと瞬いた。
美味しくなぁれ、と歌いながら待つことしばし。
「うるとら上手に焼けたなの〜!」
アーシャの宣言に拍手が起こり歓声さえ上がる。
ステーキの仕上げには特製の黄金色ソースを添える。
香辛料とコケモモ、糖蜜と山羊のバターを混ぜたそれは、甘辛く芳醇な香りを引っ提げて食欲に殴り込みをかける。
鉄板の前で皿を構えて待っていた者たちは、思わずごくりと生唾を飲み込まざるを得ない。
その肉待ち行列の中に、ある男の顔を見出して、アーシャの笑顔がぱぁっとはじけた。
「ビャクさん!」
嬉しげに突然呼びかけられた冒険者の青年の肩がびくりと跳ねる。
一緒に並んでいた<子猫親衛隊>構成員が目を剥く中、ぶんぶんと手を振るアーシャに向けて青年も手を振り返した。
今、肉待ちの列はアーシャがパン生地をぺちぺちこねこねなのなのしていた時よりも伸びている。
それもそのはず。歓談しながらアーシャのパン生地捏ねを見守っていた<子猫親衛隊>構成員が、肉の調理に移ったアーシャの元にごそっと横移動したためだ。
どれほど美味い料理であろうと胃の容量は有限だ。どこぞの少女騎士は例外として、そうそう4枚も5枚もステーキを食べられはしない。ちなみにどこぞの少女騎士も翌日には食べ過ぎたことを後悔して、いつも以上に剣の素振りに精を出す羽目になる。
歳を重ねると肉の脂は胃に対して少々厳しいものがあり、より食べられる量は減る。しかし無理をしてせっかくのアーシャ手製の料理を嘔吐するなどという不心得者は<子猫親衛隊>には存在しない。粗食に喘いでいたリーズナル家使用人にも存在しないが。
となれば、『どうせなら推しから手渡されたい』と考えるのがナイツがナイツたる所以であり、いわば『アーシャの肉渡しイベント』である今、名指しされた冒険者の青年へと羨む視線が集中するのも当然といえる。
アーシャの耳が嬉しげにぴこぴこ揺れる。
冒険者の青年の分のステーキを取り分け、皿によそう彼女から目が離せないでいると、正面から見上げてくる深い茶色の瞳と目があった。
「はい、どーぞなの!」
「〜〜〜〜っ! あ、ありがとう」
にぱっと笑んだ楽しげな表情を真正面から〝被弾〟した青年は、瞬間的に頬がカァッと熱くなった。
思わず止まっていた息を吐き、ニヤけてしまいそうになる口元を必死で保ちながら礼を述べ、颯爽とその場を後に――
「あ、待って! 待ってなの!」
できなかった。
青年が魔力切れ寸前のゴーレムのようなぎこちなさで振り向くと、アーシャはメイド服の内側から何かを取り出したところだった。
厚みのないそれは、らっぴー(幼)型の封蝋が施された封筒だ。
冒険者にしては珍しく読み書きに支障はない青年も、封筒などそう見るものでもない。
そもそも手紙などの文化は主に貴族や商家のもので、市井の者にはあまり馴染みがない。字が読める者の割合が3割に満たない程度なので、そんな文化は発達しようがないのだ。
アーシャは宛名を確かめ、こくんと小さく頷いた。
取り出した2通のうちのひとつを仕舞うと、もうひとつを青年の方に差し出す。
「えっと。あのね、どうぞなの」
「ど、どうも……?」
青年は少々面食らったまま差し出された封筒を受け取った。
まだ上手くは書けない文字を、それでもできる限り丁寧に書いたことが伝わってくる『びゃくさんへ』という綴りに、思わず笑みが溢れる。
封筒を渡し終えたアーシャは心なし頬を染めたかと思うと、そのままトタタタっと小走りで肉待ちの列を捌くのに戻っていってしまった。
こうなってしまえば、今この時は美味そうな肉よりも手紙への興味が勝る。
少なくとも2通あったということは、まさか恋文の類ではないのだろうけれど、わざわざ自分宛に手紙を認めてくれたという事実が青年の心を弾ませた。
座る間すら惜しみ、射殺さんばかりの凝視を向けてくる<子猫親衛隊>仲間に皿を預け、封筒に手をかけて
「ぁわわわわわ、開けたらだめなのっっっ! あのっ! えっと、おうちに帰ってからにしてください、なの!!」
ふたたびの静止に驚いた青年が顔を上げると、耳まで真っ赤になったアーシャと目があった。ピンと立てられた尻尾と、潤んだ瞳。肉の焼けるじゅうじゅうという音がいやに耳の奥に響く。
いつのまにか自分に視線が集中していることに気づいたアーシャは「あわわわゎ」と口元を震わせ、その場にしゃがみこんでしまった。耳をぺたんと垂れて小さくなる。
「は、はずかしい、なの…………」
ぽそっと溢れた少女の小動物的な可憐さを至近距離で〝被弾〟した<子猫親衛隊>の面々から「ゔっ」と呻く声がいくつも連なるのだった。
余談だが。
そんな状態で手紙の結末を『おあずけ』されたナイツがそのまま家に帰るなどあり得ない。
祝勝会後に町に戻った彼らはもちろん二次会を開き、青年が読んだあとの手紙の内容は居合わせた者たち皆の知るところとなった。
手紙には、感謝が認められていた。
ガムレル防衛戦での地下壕で、不穏さを増した町人たちから青年が守ってくれたことを。
震えながらも立ちはだかってくれた、その背中の雄大さを。
そこで勇気をもらえたから、頑張れた。
たくさん歌って、みんなの助けになれた。
あなたのおかげで、大好きな、大切なひとたちを、守れた、と。
ところどころ滲んだ文字で綴られたそれを読み終えたとき、目を覆い、鼻をすすっていたのはひとりやふたりではない。
〝希望の歌姫〟の心に希望を灯した〝偉業〟に、いくつもの乾杯が重ねられる。
夜が明けて、町が一日の始まりにざわめき始めるまで、男たちの祝杯が途切れることはなかった。
封筒のもう一通はメイドのルゥナー宛てです。
メイド長のヒルデガルトもすでに渡されています。