僕に女心は難しい
「ち、違うの! あのね聞いて、お風呂でアーシャがオスカーの鎖骨の話をあまりにもするものだから、ちょっと気になっただけで、そのぅ」
「なにをどうしたらそんな話になるんだ」
わたわたと弁明するリジット。僕は訝しんだ。
リジットは僕の上に覆い被さったままだ。こちらから見るとかなり影になっており、それでもはっきりとわかるほど彼女は耳まで真っ赤に上気させていた。
どうものぼせているようだし、かなり長風呂したんじゃなかろうか。
風呂に慣れるまでのあいだ、アーニャたちもたまにのぼせていたっけ。
シャロンは平気で長い間入っていられるので、それに釣られちゃうと長湯になりがちなんだよな。
「いろいろ! いろいろあったのよ! だからその、さっきの行動に他意はないというかっ。あの、だから、か、勘違いしないでよねっ!?」
さっきの行動というと、首のそばにある鎖骨とかいう骨をそっと撫でてきたことについてだろう。
僕が座っているとシャロンやアーシャがたまにさわさわと撫でにくるので、おそらく触り心地が楽しいとかそういうことなんだろう。いいけどさ。べつに減るもんでもないし。
言動は変だけど、これだけ元気なら心配もいらないだろう。
僕は、ふぅ、と息をついた。その鼻腔を、甘いような、爽やかで涼しげな不思議な香りがくすぐる。
不思議な香りはリジットの髪から発しているようだ。目の前に垂れ下がっている、濡れたままの一房を、すんと嗅いでみる。
「ん、ああなるほど、柑橘の香りか」
「……〜〜っ!??」
「これは、そうか。香油だな。そういえばカトレアが買ってきてた荷物の中にあったっけか」
気付いてみたら、リジットの黒髪はいつもよりもさらに色艶がいいような気もする。うん、手触りもいいな。
僕自身が化粧や装飾やらの類には疎いうえ、シャロンたちが欲しがることもなかったので、これまではとくに用意することもなかったけれど、こういった少しのお洒落が日々を豊かにしてくれる面はあるのだろう。そういえば母さんも特別な日はめかし込んでいたっけな。
ぶっちゃけ僕は女心とやらをわかってやれている自信がない。気を利かせて仕入れてきてくれたカトレアに感謝だな。
「で、リジットはどうしたんだ?」
「どうしたはこっちのセリフよ!」
「いひぇえ。なんやよひょふへん」
「うるさいうるさいうるさいっ!」
打ち上げられた魚みたいに目を見開いて口をぱくぱくとさせてたリジットの頬を突つくと、仕返しとばかりに思いっきり僕の頬を引っ張ってくる。情緒不安定か。めちゃくちゃ顔も赤いし。それに髪が濡れたまま湯冷めしてしまうのもよくない。
「あ。ふぉふふぅほほは」
「……なによ」
「いや。察してやれなかった僕もあれだけど、恥ずかしがらずに言ってもらえないとわからないし」
僕のほっぺたをぐにぐに引っ張っていた指を外すと、リジットはぷくぅ! と頬を膨らせた。彼女のそんな仕草すら今の僕には照れ隠しに見える。
彼女らが長風呂して喋っていた話題の中に、おそらく『普段どうやって髪を乾かすか』という話もあったのだろう。
アーニャたちの髪は僕が”剥離”で余分な水気を弾き飛ばすことで乾かしている。これがなかなか好評なのだ。手入れにかかる時間が減るとかなんとか。
リジットはそれを自分も試してみたくて、でも階段落ちやらなんやらでタイミングを逃してしまって気恥ずかしくなったんだろうな、きっと。うん、完全に理解したぞ。
「じゃ、やるか」
「えっ。きゃあっ」
「おいリジット、もっとちゃんと担がれてくれ。階段で暴れたら危ないだろ」
「ご、ごめんなさい。……ってなんで私が怒られてるのよ。オスカーが突然、……突然、そんな、やるって、なにをっ!?」
いい加減、踊り場でリジットに押し倒されたままの姿勢でいるわけにもいかない。
腹筋でよいしょ、と上体を起こし、そのままリジットを抱きかかえるようにして階段を登ろうとすると、彼女はわたわたと狼狽していた。
「この状況でやることなんて、ひとつしかないだろう」
「えっと……あぅ」
さぁ、さっさと髪を乾かそう。
リジットの顔は真っ赤なままだし、僕の腕の中でなぜかしおらしくもじもじしている。
「その、ほんとに? ほんとにするの? その、しちゃう、つもりなの? いま?」
「そのつもりだけど」
「ほんとに!?」
なんかやたらと確認を取ってくるな。
確かに僕はらっぴーの卵を求めてラシュを探してたんだけど、髪を乾かしてやる程度、そう大して時間は掛からない。少しくらい寄り道したところで夕飯に影響は与えないだろう。
「そ、そういうのは、もっとこう、段階を踏んでから、その、ね……?」
「なに言ってるんだ。こういうのはなるべく早いほうがいいだろ」
風呂から上がった直後は身体が温かい。でもその感覚が罠だ。
『ちょっと冷えるな』と思った頃にはもう遅い。少しの油断が風邪に繋がるのだ。
たかが風邪と侮って命を落とす者だっている。さっさと乾かすに越したことはない。
「それとも嫌なのか?」
「ぅ……嫌なわけじゃ、ないわ。……嫌なわけ、ないじゃない。でも、あまりに突然のことすぎて、その。心の準備がっ」
階段を登ってすぐ隣の部屋は、ちょうどセルシラーナとリジットに割り当てられた部屋だ。
ここでいいだろう、と扉を押しあけてベッドにリジットをそっと降ろす。
異国の黒髪騎士少女は視線を逸らし、まだなんかもにょもにょ言っていた。たかだか髪を乾かすのに何を怯えているのだろうか。
「べつに無理にとは言わないけど」
「ぅ……」
胸の前で自らの腕を抱くリジットは僕の目を見て逸らし、そぉっとまたこちらを窺って、を繰り返しているようだった。片手の指先は所在なさげに黒髪の先端をくるくると弄んでいる。
アーニャたちは喜んで乾かされにくるのに、何をそんなに怯えることがあるんだろう。
と考えてから、僕は首を振った。
……いや。それは人それぞれ、だよな。
アーニャはアーニャ、リジットはリジットだ。それぞれ別の価値観、考え方がある。
『麦と嫁は争うなかれ』だったか。麦には麦の、人には人の個性があるもんな。
それに、よく考えてみれば魔術で髪を乾かされた経験がないと、最初は怖いものかもしれないし。
「怖いのか?」
「ん……すこしだけ」
唇が小さく震えて、こくり。とリジットは小さく頷く。
これは僕が思っていた以上に怖かったみたいだ。
「痛くしないから安心してくれ」
「う、うぅ……約束だからね、その、優しくしてよね?」
「もちろん」
「……わかったわ」
リジットは俯いて、ようやくガチガチだった肩の力をわずかに緩めた。唇を少し舐め、潤んだ漆黒の瞳が僕を見上げる。
彼女の瞳に映った僕も、詰めていた息を吐き出していた。
リジットに釣られる形で、いつのまにやらこちらまで少し緊張していたらしい。
「ほんとに痛くもないし、すぐ済むから。なあラシュ?」
もうちょっとリジットの緊張を和らげてやろう、と戸口からこちらを覗いていたラシュに話を振ると、リジットはすさまじい勢いでベッドの上を転がっていき、そのままドン! と壁にぶつかった。
「えっ、あの、……えっ? ら、ラシュ!? いつからそこに!?」
「最初からいたぞ」
「ん。いた。やっほー」
「うそぉっ!?」
リジットの狼狽っぷりが激しい。
落ちた僕らに階段の上から「だいじょうぶ?」と声をかけてくれたりしていたし、リジットを運ぶ間にもちょいちょい視界に入ってきていたんだけど、まさか気付いてなかったのか。そこまで緊張していたとは。
「さ、はやくこっち来い。ぱぱっとやっちゃうぞ」
「で、でもラシュが見てるのよ!?」
「やっほー」
「べつに見られててもよくないか?」
「よくないっ! ぜんっぜんよくないっ!」
リジットがぶんぶんと頭を振るたび、まだ乾かされていない髪から水滴が飛び散ってベッドに小さな跡を刻んでいく。
そして挨拶を返してもらえないラシュが微妙にしょげている。
「そういえば姫様や私、ロナが見てる前でも平気でシャロンといちゃいちゃしてたんだったわ、この男。うぅっ。でもさすがに『はじめて』にそれは厳しいわよっ。この唐変木っ! 朴念仁っ! 魔道具オタクっ! ばかぁっ!」
「謂れなき叱責、ってわけでもないけど馬鹿って言ったほうが馬鹿だったんじゃないのか」
「うるわいわよばかぁー!」
めちゃくちゃ詰ってくるし枕は飛んでくるし、ほんとにわからないな、女心ってやつは。
それともシンドリヒト王国では髪を乾かすのが恥ずかしいみたいな風習でもあるんだろうか。思わぬところで異文化交流の難しさに直面した。
「ラッくん、カーくん知らん? ん? ここにおるん? あ、おった。やっほー、カーくん髪乾かして!」
「アーシャもお願いしますなの」
「おー、いいぞ。ちょうどリジットのもやろうとしてたところなんだけどな」
「なんか修羅場っぽいねんけど気のせい?」
開け放たれた戸口からひょっこり顔を覗かせたアーニャとアーシャを手招きする。
ベッドを軋ませて腰掛けると、すぐに僕の足の間にアーニャが飛び込んできた。
「アーニャも、それにアーシャもちょっとのぼせ気味みたいだな」
「んー。ちょったけね。盛り上がりすぎてん。それよかええのん? リジにゃん放っといても」
「いや、アーニャのを見せるのがちょうどいいかなって。なんか怖いみたいだからさ。ただ髪を乾かすだけなんだけどな」
「ふーん。あー、はじめてやと怖いんかもしれへんね」
「そうそう。いいかリジット、よく見ておけよ。ちゃんと優しくするし、痛くもないし、すぐ済むから」
「オスカーさま、あのね、リジットさんがすっごい目をしてるなの」
アーシャが僕とその背後を見比べるようにして、おっかなびっくり声をかけてくる。
ああそうそう、リジットはアーニャたちに分け隔てなく接したいとかで『さま』付けされることを拒んだので、アーシャはリジットを『さん』付けで呼んでいる。
リジットとしては呼び捨てにしてほしいらしいらしいけど、アーシャは誰に対しても丁寧なので――
「ぐぼぁっ!?」
「にゅわっ!?」
唐突に背中に襲った衝撃に思考を中断され、僕は思わずのけぞった。
びっくりしたアーニャが飛び退いていくのを横目に振り向くと、リジットの頭突きが僕の背中に炸裂していた。わけがわからないよ。
「おぉぉおすぅうううううかぁぁあああああああああ!!」
「リ、リジにゃん、落ち着き? な? なにがあったんかおねーちゃんに話してみ?」
「ぅわぁぁああああああああん! ばかぁあああああああああああ! おすかぁのばかぁあああああああ!」
顔を真っ赤にして錯乱するリジットがどうにか落ち着きを取り戻すまで、僕は濡れた髪をぐりぐりと押し付けられ続け、アーシャは右往左往し、騒ぎを聞きつけたシャロンが参戦してより場が混沌として、ラシュからことのあらましを聞いたセルシラーナがによによと含み笑いをするのを、さらに十分に距離をあけた廊下の向こう側でルナールがどん引きするなど、今日も今日とてやたらと賑やかだ。
これ、きっと明日にはまた変な噂話になってるんだろうな。
遠い目をする他に、僕には為すすべが残されていないのだった。